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愛情に包まれて
10年前の追憶の物語は幔幕を下ろし、疲れきったように息を吐いた颯は、唇を水平に結ぶと深い海の底の貝のように沈黙した。音の伝わらない真空のような静けさが、揚羽と颯がいる場所を中心にして、新宿御苑に広がっていくようだ。揺られた木々が風の竪琴をかき鳴らし、水鳥たちが泳ぐ玉藻池は涼しげな水音を響かせる。颯に伝えたい言葉が胸の奥で形になっていく。揚羽は黙って隣に座る颯のほうを振り向き、ゆっくりと口を開いた。
「どうして鷲海さんがお父さんを――貴彦さんを憎むのか。私、分からないんです」
颯が揚羽を見返してきた。当たり前だが颯は驚いた顔をしている。長い時間をかけて話したにも関わらず、話を理解できていない揚羽に呆れているのだろうが、揚羽は構わず言葉を継ぎ足した。
「貴彦さんが憎いのなら、どうして空自のファイターパイロットを目指したんですか? 貴彦さんが大好きだから、同じ空を飛びたかったから、鷲海さんはファイターパイロットの道を選んだ。鷲海さんは貴彦さんを憎んでなんかいない、本当は大好きなんですよ。それは鷲海さんが悪いんじゃありません。悲しみが大きすぎて、今まで気づけなかっただけなんです」
颯に言いたいことはまだある。うまく言える自信はなかった。だけれども思いは言葉にしないと相手に伝わらない。思いを伝えるために人間は言葉というものを与えられたのだ。
「生まれた時から今までずっと、鷲海さんは貴彦さんと結衣さんの『愛』に包まれて育ってきた。だから貴彦さんを嫌いにならないでほしいんです。鷲海さんが貴彦さんを嫌いになったら、彼を愛した結衣さんまで、嫌いになってしまうんじゃないでしょうか。……うまく言えなくてごめんなさい」
ぐちゃぐちゃに絡み合って、複雑になった感情の糸を、揚羽の言葉が優しくほどいていく。すべての感情の糸が完全にほどけた瞬間、貴彦と過ごした日々が颯の脳裡に蘇った。
イーグルのプラモデルを持って公園を走り回った日。特別に201飛行隊のイーグルのコクピットに座らせてもらった日。貴彦に肩車をしてもらって、離陸していくイーグルに目を輝かせた日。いちばん最後に蘇ったのは、颯が山口県に旅立つ前に、もう家には帰らないと貴彦に告げた夜の記憶だった。
その時貴彦は「分かった」と短く言っただけだったが、そのあと電気も点けない暗い自室で、啜り泣いていた彼を颯は見てしまった。逞しい身体を丸めて啜り泣く貴彦の姿は、10年が経った今でも鮮明に覚えている。
どうして自分は貴彦に声をかけられなかったのだろうか。あの時、一言「ごめん」と言いさえすれば、貴彦の肩を抱いて一緒に涙を流していれば、こんな複雑な関係にはならなかった。いちばん辛い思いをしたのは、最愛の女性を失った貴彦だっただろうに、颯は自分の気持ちしか考えていなかった。颯は悲劇のヒーローの役に陶酔していたのだ。揚羽が言ったとおり、自分が貴彦を嫌いになってしまったら、結衣の愛を否定してしまうことになる。そこまで考えたら、心を引き裂くような後悔の念が颯を責めた。
「……俺は自分のことだけ考えて、父さんの気持ちなんて、なんにも考えていなかった。いちばん辛くて悲しいのは父さんなのに、俺は自分の悲しみや怒りをぶつけて、父さんの心を傷つけてしまった。お前の言うとおり、俺は父さんを嫌ってなんかいない。本当は父さんが好きだ、大好きなんだ。父さんに憧れて空自パイロットを目指したのに、どうしてこんな最低な奴になっちまったんだろうな――」
唇を噛んで俯いた颯は、膝の上に置く両手をきつく握り締めると、心の底から湧き出る貴彦への思いを口にした。颯の長い睫毛の裏に溜まった涙が溢れ出して、玻璃のように光りながら落ちていく。颯のくしゃくしゃに歪んだ顔の泣き腫れた瞼は、二枚の貝殻のように閉じていて、彼がときどき息を吸うたびに唇が動いている。
「いいえ、違います。鷲海さんは最低な人なんかじゃありません。私が知る鷲海さんは、誰よりも勇敢で、優しくて、立派なパイロットです」
一瞬にして萎む朝顔のように、項垂れて静かに涙を流す、颯の身体に両腕を回した揚羽は、そっと彼を抱き締めた。抱き締められた颯は、一瞬身を強張らせたが、揚羽の肩に顔を埋めて泣き続ける。颯を抱くには揚羽の身体は小さく両腕は短い。でも揚羽と颯はそれでよかった。揚羽は颯を抱き締めていたかったし、颯は聖母のような揚羽の温もりを感じていたかったからだ。気持ちを落ち着かせた颯が顔を上げる。
「燕」
「はい」
「俺、まだお前に謝っていなかったよな。……親父さんを人殺し呼ばわりして、本当に悪かった」
揚羽が見ている前で颯は深く頭を下げた。膝の上に置かれた両手の拳は、後悔の念と罪悪感で震えている。揚羽は颯の手を両手で包み込むように握り締めた。
「……いえ、もういいんです。私だって鷲海さんに酷いことを言いましたから。お互い様ですよ」
「お互い様だって? 馬鹿なことを言うな。俺はお前が尊敬する親父さんを、人殺し呼ばわりしたんだぞ? それなのにどうして簡単に許せるんだよ。殴るなり罵るなりお前の好きにしてくれ。そうしてくれないと俺の気が済まないんだ」
なんらかの制裁を望む颯に、だが揚羽は静かに首を振る。
「鷲海さんは悲しい思いをして、たくさん悩んで苦しんで、傷ついてきました。だから私は、これ以上あなたを苦しませたくない、悲しい思いをしてほしくないんです。鷲海さんが気持ちよく空を飛べるように、笑顔で松島に戻ってほしいんです」
今度は揚羽が颯に抱き締められる番だった。触れ合った箇所から、温もりと安らぎが全身に流れて満ちていく。世界に自分たちしか存在していないような不思議な感覚が、二人を包み込んでいた。
「……ありがとう」
今まで言いたくても言えなかった、短い言葉が颯の口から零れ落ちる。嘘偽りのない揚羽の思いは、一筋の華やいだ光となって颯の心を明るく照らし、決して消えない希望の火を灯したのだった。

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