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憧れは憎しみに
がらんどうとした部屋に明るい光はなく、密度のある暗闇が重なり合うように、部屋の四方に広がっている。宇宙空間を独りで彷徨っている時のような、重い空気が漂う部屋で、颯は独り静かに佇んでいた。
颯が見つめているのは、白い布が掛けられただけの簡素な仏壇。簡素な仏壇の上に置かれているのは、細い煙をくゆらせる青緑色の線香で、遺影も位牌も置かれていない。もう霊安室に結衣はいない。今は遺体安置所で永遠の眠りに就いているのだ。
しばらくすると靴音が近づいてきた。僅かに開けたドアが開放される。廊下の電気の青白い光が差し込んできて、最後に息を切らした男性が部屋に入ってきた。父親の鷲海貴彦3等空佐だ。
「颯、母さんは……結衣はどこにいるんだ?」
着替える時間がなかったのか、オリーブグリーンのパイロットスーツの上にジャンパーを着た貴彦は、がらんどうの室内を見回すと、掠れた声で颯に尋ねてきた。恐らく一睡もしていないのだろう、貴彦の両目は酷く充血していた。結衣の事故を聞いた貴彦は、すぐさまC‐1輸送機に飛び乗り、遠く離れた東京まで駆けつけたに違いない。
「……母さんは死んだよ。今は遺体安置所にいる」
青褪めた貴彦はよろめきながら仏壇に近づくと、仏壇の上に両手をついて肩を震わせた。貴彦が泣いているとすぐに分かったが、颯は共に涙を流す気持ちにはなれなかった。
結衣の死因は頭を強打したことによる脳挫傷だった。事故に巻き込まれたのは、男性二人と結衣を含めた女性三人。事故を起こした乗用車の運転手は、皮肉なことに軽い打撲を負っただけだったらしい。事故の原因は男の居眠り運転で、それだけでも許せないのに、なんと男は酒も飲んでいた。死ぬに相応しい者がいるならば、間違いなく罪を犯した男だろうに、どうして結衣だけが命を落とさなければいけないのか。仏壇の前から離れた貴彦はこちらに歩いてくると、颯の肩にまだ悲しみで震える手を置いた。
「すぐに母さんを迎えにいこう。まずは家に帰って――」
颯は肩に置かれた貴彦の手を乱暴に振り払い、ぎょっとする彼を睨みつけた。
「――ふざけるな」
「颯……?」
「母さんは死ぬ前にあんたに会いたいって言っていたのに、どうしてもっと早く来てくれなかったんだよ!! 国防の任務がそんなに大事なのか!? 愛する人の命よりも大事なのか!? それなら好きなだけ空を飛んでいればいいさ!! 愛する人を守れなかったあんたは、空自のファイターパイロットじゃない!! でも俺は違う!! 大切な人を守れるファイターパイロットになってみせる、あんたとは違うっていうことを証明してみせる!!」
嵐の空に閃く稲妻のように怒りを迸らせた颯は、顔面の筋肉を痙攣させて叫んだ。憤激の熱い涙が眦を濡らしているが、構わず颯は両目を吊り上げて貴彦を凝視する。
果たして貴彦はどんな反応を見せるのだろうか。激しく反駁するのか、それとも問答無用で殴りかかってくるのか。だが貴彦は反駁もしてこなかったし、颯に殴りかかってもこなかった。貴彦は黙って視線を逸らしたのである。それを見た颯は自分が拒絶されたのだと思った。嘲りにも近い歪んだ笑みが顔に広がっていく。そして颯は低い声で静かに笑い出した。
「母さんの代わりに俺が死ねばよかった、あんたはそう言いたいのか。ああ、そうだよ!! 母さんが死んだのは俺のせいなんだよ!! あの時俺が母さんを一人にしなかったら、母さんは事故に巻き込まれなかった、母さんは死ななかった!! あんたの望みどおり、俺が死ねばよかったんだ!! 母さんの代わりに俺が――」
乾いた音が鳴り響き、颯の叫びは途中で断ち切られた。針で刺されたような痛みを感じると同時に、左側の頬がじんわりと熱くなる。右手を振り抜いた格好の貴彦がすぐ目の前にいた。怒りと悲しみが混在した貴彦の双眸は、真っ直ぐに颯を見据えている。
「自分が死んだらよかっただなんて、そんなことを言うのはやめろ!! 私も結衣もそんなことは思っていない!! お前が死んだって結衣は生き返らないんだ!!」
返す言葉は出なかった。貴彦を突き飛ばした颯は、彼が呼ばわる声に振り返らず、霊安室を飛び出した。颯は廊下を走る途中で失速すると、よろめきながら立ち止まり、壁に背中をつけてずるずると廊下に崩れ落ちた。
涙が溢れて止まらない。結衣の代わりに自分が死ぬべきだった。自分に向けて放った言葉が心に突き刺さって抉る。あの時自分がスマートフォンを置き忘れてさえいなかったら、結衣は事故に巻き込まれることもなかった、理不尽に命を奪われることもなかった。自分が結衣の命を奪い、彼女が思い描いていた幸せな未来を壊してしまったのだ。
忍び泣きはやがて嗚咽に変わり、片手で顔を覆った颯は、身体を震わせながら滂沱する。そしてこの瞬間、強く握り締めるパイロットウオッチの、文字盤に入った亀裂のように、貴彦との絆に深い亀裂が走っていく音を、颯の耳は確かに聞き取ったのだった。
結衣の魂を天に送る葬儀は終わり、颯は山口県防府北基地・航空学生教育群に入隊した。それから颯は座学や飛行訓練に励んだ。入隊を境に颯は貴彦との連絡を絶ち、休暇がきても決して家には帰らなかった。颯が連絡を絶ってからも、貴彦は電話をかけてきたりメールを送ったりしてきたが、時が経っていくうちに回数は減っていき、やがて貴彦からの連絡はなくなった。
2年の航空学生課程で、最低評価を意味するピンクカードを一枚も貰わなかった颯は、ウイングマークを取得したあと、自らの希望通りF‐15戦闘機操縦課程に振り分けられる。そして宮崎県新田原基地での、F‐15戦闘機操縦課程を優秀な成績で修了した颯は、石川県小松基地の第6航空団第306飛行隊に着隊した。
306のイーグルドライバーになった颯は、「ゲイル」のTACネームを与えられ、一心に空を飛んで飛行技術をさらに磨き続ける。飛行時間は1300時間を超え、二機編隊長の資格も取得した颯は、航空総隊戦技競技会のメンバーに選抜され、卓越した飛行技術で306を勝利に導いた。そして颯は第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロットに抜擢され、小松基地から松島基地に異動した。颯は子供の頃から憧れていた彼と、同じ翼で空を飛べるようになったのだ。
憧れのリードソロとして空を飛べるというのに、だが颯の心に喜びの感情はなかった。憧れの彼を追いかけて、青と白のドルフィンに乗って日本の空を飛ぶ。寝る間を惜しんで努力と鍛錬を続け、ようやく形にできた夢の翼は、いつの間にか輝きを失っていたのだ。結衣が命を落としたあの日に、颯の純粋な憧れと夢は、固く閉ざした心の奥で凍りついてしまったのである。貴彦への憧れは憎しみに変わり、純粋な夢は葬り去られ、颯は空を飛ぶ喜びも意味も、思い出せなくなっていた。

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