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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第5章 彩雲の昊

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失われた命

 それは今から10年前のことだ。第1次試験の筆記・適正検査、第2次試験の口述試験・航空身体検査、第3次試験の海上・航空身体検査の一部と、航空操縦適正検査及び、医学適性検査に合格した颯は、山口県防府北基地・航空学生教育群の入隊式を数週間後に控えていた。入隊後は航空学生として、全員が学生隊舎で規則正しい団体生活を送りながら、2年間の基礎教育を受け、続いて飛行訓練を中心とした、それぞれの段階の操縦課程に進むのだ。

 人生の大きな転換点となる日、颯は母親の鷲海結衣と新宿を散策していた。正直18歳の若者が母親と出歩くのは些か恥ずかしい。さりげなくそう言ってみたら、「一緒に来てくれないとお母さん泣いちゃうから!」と結衣に駄々をこねられてしまい、結局彼女に押し切られる形で出かけることにしたのである。颯が自衛隊に入隊したら、結衣は当分の間息子に会えないのだ。それに今のうちに親孝行をしておくのも悪くないと思う。人生何が起こるのか、まったく予想がつかないのだから。

 ひととおり新宿の街を見て回った颯と結衣は、古本屋街の一角にある落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。ショーケースの中には自家製のケーキや焼き菓子が綺麗に並べられていて、コーヒーの香りが漂う店内は穏やかな時間が流れている。喫茶店にいるのは女性が多く、彼女たちはコーヒーや紅茶を飲みながら、ゆったりとした午後の時間を楽しんでいた。颯はコーヒーとハムチーズと卵のサンドウィッチ、結衣はカフェオレとホットケーキを注文する。結衣は鞄を開けると中から出した物を颯に手渡してきた。

「これは?」

「いいから開けてみて」

 シールと包装紙を剥がすと、黒色のベルベットに包まれた長方形の箱が出てきた。続いて颯は蓋を持ち上げる。箱の中に入っていたのは銀色の腕時計だった。紺色の文字盤に銀色の長針と短針。9時位置の秒針部分には、第11飛行隊ブルーインパルスの部隊マークがあしらわれている。「裏側も見て」と結衣に言われたので、颯は時計をひっくり返す。すると裏面には【HAYATE WASHIMI】の文字が彫られていた。

「母さん、これ――」

「少し早いけれど、貴彦さんと私からの入隊祝い。入隊おめでとう、颯。貴方ならきっと、立派なファイターパイロットになれるわ」

「……ありがとう、母さん。肌身離さず持って大切にするよ」

 貴彦からの入隊祝いと聞いた颯の心は喜びで溢れていた。父の貴彦は航空自衛隊のファイターパイロットで、千歳基地第2航空団・第201飛行隊の飛行隊長を務めており、今は基地官舎で独り暮らしをしている。いわゆる単身赴任だ。

 颯が防府北基地に入隊したあと、結衣は北海道に飛び、貴彦と夫婦水入らずで暮らす予定になっている。山口県と北海道、結衣とは遠く離れてしまうが、颯はもうすぐ19歳になるのだから、いつまでも親に甘えているのはあまりよろしくない。それに親離れをするいい機会である。どれだけ遠く離れていても、親子の絆は断ち切れない。だから大丈夫だ。

 昼食を食べ終えた颯はレジで代金を支払って、結衣と一緒に喫茶店を出る。喫茶店を出て少し歩いた先にある、大きなスクランブル交差点の信号の前で、颯は喫茶店にスマートフォンを置き忘れてきたことに気づいた。

 個人情報の塊をうっかり置き忘れるとは不用心すぎる。誰かに悪用される前に急いで取りに戻らなければ。結衣に言うと彼女はここで待っていると言ったので、時計を預けた颯は急ぎ足で来た道を引き返した。幸いなことに颯が置き忘れたスマートフォンは、誰かに持ち去られることもなく、喫茶店のマスターが忘れ物として預かっていてくれた。

 親切なマスターに礼を言って颯が喫茶店を出た時だ。突然大砲が撃たれた時のような大きな音が、辺り一帯に鳴り響いた。音がやむと辺りは静かになったが、すぐに人々が騒ぐ声が聞こえてきた。得も言われぬ不安を覚えた颯は、ざわめく声が流れてくるほうを目指して走った。騒ぐ声が大きくなり、一箇所に集まる群衆が見えてくるにつれて、颯の胸の不安も増幅していく。群衆の壁を乗り越えて最前列に出た颯は、眼前に広がった光景に瞠目したのだった。

 歩道に乗り上げ電柱に衝突して、フロント部分が大破した乗用車。歩道に倒れたままぴくりとも動かない人たち。路上に散乱しているのは、倒れている人たちの靴や鞄だ。その中に見覚えのあるエナメルパンプスと白色の鞄が転がっている。

 冷たい手で心臓を鷲掴みにされ、全身の細胞を撫でられたような感覚が襲う。嫌だ、嫌だ、見たくない。視線を動かしたら最後、颯は悲しみと絶望の谷底に突き落とされてしまうだろう。だが颯の意思とは無関係に両目が動く。そして颯は、歩道に倒れて動かない結衣の姿を見てしまった。

「母さん!!」

 叫んだ颯は歩道を走った。結衣の側に膝をつき、彼女を抱き起こす。両手についたものを見て颯は戦慄した。颯の両手にべったりとついたのは、目に突き刺さるような真っ赤な血。颯が抱き起こした結衣は、頭部から夥しい量の血を流していたのだ。両目を固く閉ざした結衣は、血の気を失い青褪めていて、さっきまで無邪気に笑っていた彼女とは別人のようだった。

 サイレンの音と赤色灯が颯の視覚と聴覚を刺激する。通報を受けた救急車が現場に到着したのだ。救急車から降りてきた救急隊員は、事故に巻き込まれた怪我人たちをトリアージしていき、結衣がいちばん危険な状態だと判断した。救急隊員がストレッチャーに結衣を乗せて車内に運び入れる。颯も同乗した救急車は、サイレンの音を高らかに響かせながら、都内の大学病院に向けて走っていった。

 大学病院の搬送口では医師と看護師が待機していた。病院に到着後、結衣を乗せたストレッチャーはすぐに病院に運び込まれ、脇を固めた看護師に押されて白い廊下を疾走する。首に固定器具、口に酸素マスクを着けた結衣の姿は、見ていられないほど痛ましい。

 手術室に走る途中で結衣は何度か心肺停止になったが、そのたびに電気ショックと心肺蘇生で、彼女はなんとか命を繋ぎ留めた。意識を取り戻した結衣が震える手を伸ばす。颯はストレッチャーと併走しながら、伸ばされた結衣の手を胸に抱き締めた。

「ねえ、貴彦さんはどこ……? お願い、貴彦さんに会わせて……。せめて最後に、彼の顔が見たい、声が聞きたいの……」

「最後なんて言うなよ!! 母さんは絶対に死なない!! 生きて父さんと会って、助かってよかったって、泣いて笑って三人で喜ぶんだ!! だから死んじゃ駄目だ!!」

 颯の必死の呼びかけもむなしく結衣は再び意識を失った。看護師が廊下の奥にある手術室の扉を、突き破るように押し開ける。全開になった扉を抜けたストレッチャーは、手術室の中に運び込まれ、立ち入る資格を持たない颯の目の前で扉は閉ざされた。扉上部の赤いランプが点灯する。もはや颯にできることは何もない。ひたすら一心に神に祈りを捧げることしかできないのだ。

 木々の間を群体となって移ろう鳥のように、病院の時間はゆっくりと流れていく。地球の自転とはこれほど遅いものだったのかと、廊下の長椅子に座る颯は感じていた。颯は千歳基地に電話をかけて、貴彦を呼び出してもらおうとしたが、アラート任務に就いていた父は、スクランブルが発令されて離陸していったばかりだと言われて愕然とした。運命の神の残酷な悪戯に颯は怒り悲しんだ。

 拷問を受けているような気持ちのまま、颯は手術室のランプが消える瞬間を何時間も待ち続ける。夜の気配が廊下に満ち始めた時、手術室の赤いランプが消えた。扉が開放されて医師と看護師たちが出てくる。長椅子から立ち上がった颯は、すぐさま医師のところに走り寄った。結衣の手術は無事に成功して、彼女は一命を取り留めた。希望の言葉が聞けるのだと颯は思っていたのだが。

「これはあなたの物ですか?」

 出てきた医師が颯に渡した物は、入隊祝いに結衣がプレゼントしてくれた、ブルーインパルス仕様のパイロットウオッチだった。だが真新しかった時計は、文字盤の硝子に細かな亀裂が入り、針は時間を刻むのを止めている。

「そうです、母さんが俺にプレゼントしてくれた時計です。母さんは助かったんですよね? それなら早く会わせてください!」

 颯の質問に医師は沈痛な面持ちで首を振った。ここでようやく颯は気づく。手術が無事成功したのなら、結衣を寝かせたベッドが運び出されてくるはずだ。しかしいくら待ってもベッドは運び出されない。颯は医師の肩越しに手術室を見やった。看護師たちが黙々と後片付けをしている。看護師たちの表情は一様に暗い。

 瞬間颯は医師を突き飛ばし、制止を求める手を振り払って手術室に駆け込んでいた。床には血が流れた跡がはっきりと残っており、死の気配が色濃く残っている。さながら熾烈な戦場を思わせる光景だ。颯は震える足で部屋を進み、手術台に横たわる結衣に近づいた。

 颯は手術台で眠る結衣の手を握る。生者の温もりを失った結衣の手が、颯の手を握り返してくることはなかった。冷凍庫で冷やしたような結衣の手の冷たさが、繋がった手から脊髄を通って脳髄に達する。その冷たさは結衣が死んだという紛れもない証拠だったが、颯は頑なに信じようとしなかった。

「死んだふりなんて悪い冗談はやめろよ。これから父さんと一緒に暮らすのに、呑気に寝てる場合じゃないだろ? 父さんが北海道で待ってる。だから早く起きないと駄目だよ。母さん、頼むから目を開けてくれよ。目を開けてさ、いつもみたいに笑って、俺の名前を呼んでくれよ――」

 何億光年の宇宙の彼方で瞬く星のような、自分で聞き取れないほどか細い震える声で、颯は結衣の手を握り締めたまま彼女に話しかけた。結衣は目を覚まさない。笑って名前を呼んでくれることもなかった。結衣は二度とここには戻ってこない。結衣は神聖な天国の七つの門をくぐり、颯の声が届かない、遠い場所に旅立ってしまったのだ。

 絶望的な現実が颯の全身から力を奪う。床の上に崩れ落ちた颯は背中を丸めて蹲り、唸るような嗚咽の声を上げてむせび泣く。希望と幸福に満ち溢れた日々が、未来永劫に続くと思っていた。だが一瞬の転換点を境にして、永遠に続くと思っていた、希望と幸福のすべては粉々に砕け散り、跡形もなく失われてしまったのだった。
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