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帰郷と訪問者
朝の明るみが果てしない遠方から滲むように広がってくる。眠りから目覚めた揚羽はベッドから下りると大きく伸びをして、朝方の冷たい空気を肺腑いっぱいに吸い込んだ。洗い立てのような太陽の光はとても心地良い。光の領域は部屋の隅々まで広がっていき、残っていた夜の闇は後退していった。
水玉模様のベッド、淡いオレンジ色のプリーツカーテンにクリーム色の壁。アンティーク調の机には写真立てが置かれている。起床喇叭の勇ましい音色も、離着陸する戦闘機の爆音も聞こえず、「台風」で部屋を荒らされることもない。そんな毎日に慣れた揚羽は少し寂しく感じたのだった。
ここは東京都内のタワーマンション――揚羽の自宅だ。四日間の休暇をとった揚羽は松島基地を離れ、両親が住む自宅に帰っていた。ご両親が心配しているだろうから、一度顔を見せに実家に帰りなさいと、波川2等空佐が直接言ってきたのである。親不孝するなと遠藤3佐にも言われたので、休暇を申請した揚羽は輸送機に乗って、埼玉県の航空自衛隊入間基地に飛び、そこから電車に乗り換えて自宅に帰郷したというわけだ。
着替えて自室を出た揚羽は廊下を歩いてリビングに入った。ダブルディスプレイキャビネット、天然木のレザーソファ、大型のフラットテレビ、コーヒーテーブルがリビングの右側に置かれている。リビング左側の対面式のL字型キッチンでは、女性が鼻歌を歌いながら料理を作っていた。揚羽に気づいた女性は、フライパンを動かしていた手を止めてにこりと微笑んだ。
肩下まで伸ばした明るい栗色の髪に蜂蜜色の双眸。50代前半なのに、見た目は30代半ばに見える彼女の名前は燕小鳥。揚羽の母親だ。揚羽と同じく小鳥も航空自衛隊のパイロットで、ブルーインパルスの6番機のドルフィンライダーとして空を飛んでいた。そして運命の相手――現在の夫と巡り会い、紆余曲折したが二人は結ばれて愛し合い、娘の揚羽が生まれたのである。
「おはよう、母さん」
「おはよう、揚羽。ちょうど朝ご飯ができたところよ。座って待ってて」
「私も手伝うわ」
香ばしいきつね色に焼けたバタートースト。油の代わりにマヨネーズで炒めた、ふわふわのスクランブルエッグ。黄緑と赤色の対比が鮮やかな、レタスとトマトのクルトン入りサラダ。砂糖がたっぷり入ったレモンティー。胃袋を刺激する美味しそうな朝食を、揚羽はキッチンとリビングを往復しながら、花柄のテーブルクロスが敷かれたテーブルに運んで並べていく。二人分の朝食を運び終えた揚羽は、椅子を引いて座る。少し遅れて小鳥も、揚羽の真向かいの席に腰掛けた。
「いただきます」と手を合わせて揚羽は朝食を口に運ぶ。溶けたバターでほんのり甘いトーストは、食べるとさくさくと爽やかな音が顎の骨に響く。サラダのレタスは歯切れがいいし、トマトの味もとても濃厚である。スクランブルエッグは口に入れると、そのまま溶けてしまいそうな柔らかさだ。久しぶりに食べる母の手料理はとても美味しくて、揚羽はあっという間に完食した。食後のレモンティーを飲んで一息ついていると、小鳥がじっと見つめているのに揚羽は気がついた。
「何? 私の顔に何かついてる?」
「いいえ、何もついていないわ。それにしても貴女がバーディゴになって危なかったって、聞いた時は本当に驚いたわ。私もそうだけれど、父さんはもっと心配していたのよ」
「……ごめんなさい」
「別に揚羽を怒っているわけじゃないのよ。私は揚羽が元気な姿で帰ってきてくれて嬉しいの。父さんだってそう思っているわ。それを分かってくれる?」
「……うん」
手を伸ばして揚羽の髪を優しく梳いた小鳥は、キッチンで食器を洗う作業に入った。
母の背中を見た揚羽は胸に罪悪感を覚えた。小鳥の父親の荒鷹は、娘と同じブルーインパルスの6番機パイロットだったが、航空祭に起きた事故で命を落としてしまった。小鳥自身も着陸の際にハイドロプレーニングを起こし、クラッシュバリアに突っ込んで病院に搬送された経験をしている。そして今度は娘の揚羽がバーディゴに陥り、一歩間違えれば海に墜落していたかもしれないのだ。だから小鳥の心中は穏やかではなかったはず。颯がいなかったら間違いなく揚羽は海の藻屑となっていた。
揚羽はまだ颯と話していない。揚羽は訓練と座学で、颯は全国各地で開催される航空祭で忙しく、じっくり話をする時間がなかなか作れなかったからだ。でもそれは言い訳だと揚羽は思う。その気になれば時間は作れる。休暇が終わって基地に戻ったら颯と話そう。
歯磨きを済ませて朝のワイドショーを見ていると、玄関のインターフォンが鳴った。小鳥は後片付けで忙しそうなので、揚羽は代わりに応対することにした。二回目のインターフォンが鳴る。自分が出ると小鳥に言った揚羽は、リビングを出て玄関に向かう。サンダルを履いてドアを開けた瞬間、揚羽は限界まで瞠目したのだった。
長身で黒髪の青年が軒下に立っていた。第二ボタンまで開けた白のワイシャツの上に、ピンストライプ模様の黒色の袖なしベストを羽織り、同じ色のスラックスを長い両脚に穿いている。整った姿の青年とは反対に、揚羽は色褪せしたTシャツに、太股が剥き出しのショートパンツという、リラックスできる部屋着姿だ。おまけに櫛で梳かしていない髪は寝癖だらけである。揚羽ほどではないが、訪ねてきた青年もちょっとだけ目を丸くしていた。
「凄い格好だな、燕。脱走兵みたいだぞ」
そう言うと青年――鷲海颯はふっと口元をほころばせた。確か颯は遠く離れた宮城県の東松島にいるはずだが。
「鷲海さん!? どっ、どっ、どうしてここにいるんですか!?」
「どうしてって……休暇で東京に帰ってきたんだよ。東京が俺の生まれ故郷だからな」
「休暇で帰ってきたのは分かりました! でもどうして私の家の住所を知っているんですか!?」
「それは企業秘密だ」
「ですよね――ってなんで企業秘密なんですか!」
「ねえ、いったい誰が来たの?」
颯と問答する揚羽の声は、どうやらリビングまで筒抜けになっていたらしい。リビングから出てきた小鳥が、スリッパの音を響かせながら、廊下を歩いてくるのが見える。揚羽と玄関先に立つ颯を交互に見やった小鳥は、嬉しくて堪らないといった微笑みを浮かべた。――これはまずい。どうやら小鳥は颯が揚羽のボーイフレンドだと誤解してしまったようだ。早急に誤解を解かなければと揚羽は思ったのだが。
「松島基地第4航空団第11飛行隊所属、鷲海颯1等空尉と申します。揚羽さんとは親しくさせていただいております」
(あわわわ! わっ、鷲海さんの馬鹿! 『親しく』なんて軽々しく言わないでくださいよ!)
揚羽の気も知らない颯は、背筋を真っ直ぐ伸ばすと小鳥に挨拶をした。揚羽は内心慌てふためいた。手を繋ぐほど親しいのか、キスするほど親しいのか、その先に進んだほど親しいのか、「親しく」とはいっても段階があるだろうに。確かにキスはしたしエッチなこともされた。だがあれは不可抗力だ。果たして小鳥はどう思ったのか。揚羽は考えただけで恐ろしかった。
「揚羽の母の小鳥です。娘がいつもお世話になっているようですね」
慇懃に挨拶された小鳥も颯に会釈を返す。小鳥が横目で揚羽を見やった。「貴女とお似合いね」と小鳥の視線が語っている。揚羽が何を言っても小鳥は信じないだろう。
「颯君はどんな用事で来たの?」
「揚羽さんに話したいことがあるのですが……できれば二人きりで話したいんです。これから彼女と出かけても構いませんか?」
「ええ、もちろんいいわよ。ほら、揚羽! 早く着替えてきなさい! 10分で準備しなさい! いいわね!?」
「はっ、はいっ!」
小鳥に一喝された揚羽は、鞭で臀部を叩かれた馬のように飛び上がると、廊下を走って自室に駆け込んだ。クローゼットを開けてTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てた。クローゼットから引っ張り出した、九分丈のホワイトブラウスと、草色のハイウエストのガウチョパンツに着替える。初夏の草原のように爽やかな色の組み合わせのお気に入りの服だ。どんなに慌てていても身に染みた習慣は忘れない。脱いだ衣服は綺麗に畳んでクローゼットに直す。ファンデーションと桃色のチークを頬に薄く伸ばし、最後にコーラルピンクの口紅とリップグロスを塗った。
陸海空の自衛隊全体に浸透している、「5分前の精神」で準備を終えた揚羽は、財布とスマートフォンを押し込んだ、アーモンドブラウンのショルダーバッグを掴み、颯が待つ玄関に戻った。にやつく小鳥に見送られた揚羽と颯は、玄関を出てマンションを後にする。並木に挟まれて木漏れ日が落ちる坂を下りていると、前を歩く颯が足を止めて振り向いた。
「いきなり来て悪かったな」
「ええ、それはもう驚きました。来るなら来るって連絡してくださいよ。そのことはもういいです。出かけるって言いましたけれど……どこに行くつもりなんですか?」
「デートだと思って俺についてこい。練習にもなるしな」
「えっ? デート!? それに練習って――あひゃっ!?」
揚羽は宇宙人のような声を上げた。なんと颯はいきなり揚羽の手を握ってきたのである。揚羽と手を繋いだ颯はどんどん歩いていく。すれ違う女の子たちは熱い視線を颯に送り、嫉妬の視線を揚羽に突き刺してきた。絶世の美青年と手を繋いでいるのだから、揚羽に嫉妬するのも頷ける。目的地も分からないまま、ロールプレイングゲームで主人公に付き従う仲間のように、揚羽は颯のあとについていく。道を真っ直ぐ進んだり曲がったりしていると、生命の緑に輝く木々が見えてきた。あの場所は境相管轄の国民公園として親しまれている新宿御苑だ。
新宿御苑はイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を、巧みに組み合わせた庭園で、日本における近代西洋庭園の名園だ。広々とした芝生に、ユリノキやプラタナスなどの巨樹が点在する、イギリス風景式庭園、薔薇花壇を中心に、左右にプラタナスの並木を配した、フランス式整形庭園、回遊式の情緒あふれる日本庭園など、さまざまな様式の特色が溢れる庭園が楽しめる場所となっている。入園料は二百円。揚羽が入園料を払うより先に、颯が彼女のぶんもまとめて払ってくれた。
広大な芝生を抜けて揚羽は颯と玉藻池の側まで歩く。ここは江戸時代の内藤家の屋敷跡の面影を留める庭園で、現在の大木戸休憩所には御殿が建てられ、池、谷、築山、谷をしつらえた景勝地「玉川園」が造られたといわれている。御苑で暮らす水鳥たちも羽を休めている、穏やかな空気に包まれた庭園だ。
人々のざわめきに混じり、首都圏では珍しい野鳥の歌声が聞こえる。肩を並べてゆっくり玉藻池の回りを歩いて行くと、咲き始めの金木犀の花が静かに揺れる四阿に着いた。颯は玉藻池の対岸を見つめたまま口を開いた。
「……ずっと胸の中に押し込めているものがあるんだ。それは凄く複雑に絡み合っていてさ、苦しい悲しいって訴えるには、あまりにも我儘な気がして、今まで誰にも言えなかった、話せなかった。黎児が言ったとおり、俺は過去を引き摺っている弱虫だ。でも弱虫の自分とは今日で決別するよ」
颯が揚羽のほうを向いた。力強い決意の眼差しだ。そして力強いと同時に水晶のように澄みきっている。
「だから、初めて俺と真っ直ぐに向き合ってくれた燕に話したい、聞いてほしい。長くなると思うけれど、聞いてくれるか?」
「――はい」
頷いた揚羽は颯に手を引かれて近くのベンチに座った。揚羽の隣に颯が腰掛ける。まだ颯の口は開かない。今颯は頭の中で話の起承転結をまとめているのだろう。ややあって颯が口を開く。現在から過去に続く階段を一歩ずつ下りていくように、颯はゆっくりとだか明瞭とした声で、揚羽に追憶の物語を語り始めた。

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