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涙を受け留めて
積乱雲の軍団は風に追われるように散り散りになっていき、銀灰色の雲の裂け目から白い日の光が差し始める。管制官と交信しつつ飛んでいると、前方に管制塔が見えてきた。揚羽は比較的高い高度と速度で滑走路上空に接近し、滑走路上で大きく旋回を行い減速すると、高度を下げつつトラフィックパターンに進入した。オーバーヘッド・アプローチ。戦闘機で代表的な飛行場への着陸方法だ。
滑走路に平行するダウンウインドレグに向かって、180度の水平旋回。ダウンウインドレグに入った揚羽は、180度の旋回でベースレグ経由で着陸態勢に移行した。左右の主脚と両翼のフラップを下ろす。着陸後は制動傘を開いて機速を落とし、タキシングで誘導路からエプロンに進入した。
揚羽は誘導係の整備員に従いながらタキシングを続ける。エプロンの一角で整備員が二本の赤いパドルを上げた。「ここへきて駐機せよ」の合図だ。揚羽は誘導員の立ち位置に向かって機体を慎重に進ませる。左右のパドルがクロスされる瞬間にブレーキを踏みこむ。機首を上下させたF‐2Bは綺麗に停止した。パーキングブレーキをセット。機体が停止すると待機していた機付き整備員が走り寄り、ノーズギアとメインギアに車輪止めを嵌めこんだ。
整備員のチョーク・インのハンドシグナルに頷いた揚羽は、右サイドコンソールの燃料コントロールスイッチを切った。背中で唸り声を上げていたF100‐IHI‐129エンジンが静かになる。キャノピーを開放すると、雨上がりの粒立った冷気が肌に沁みた。首を長くして揚羽の帰還を待っていた遠藤3佐たちが、こちらに走ってくるのが見える。整備員にベルトとショルダーハーネスを外してもらった揚羽は、胴体左側に掛けられた梯子で下りようとした。だが生きて帰れた安堵感で力が抜けてしまい、梯子に掛けていた片足を踏み外してしまった。
今にも転落しそうな危険な体勢になったものの、揚羽は梯子から落ちることはなかった。一番に駆け寄った誰かが、後ろから抱きかかえるように揚羽を支えてくれていたのだ。官舎の階段から落ちそうになった自分を助けてくれた時のように。背中に当たる胸板の感触。息遣いと身体の温もり。伝導する心悸は母親が歌う子守歌のように優しい。
揚羽は後ろを振り向こうとしたが、脱力感と疲労感で身体の自由が利かなかった。瞼が脳からの電気信号を無視して勝手に閉じていき視界が暗転する。半分夢のような耳の底で優しく囁かれている声を聞きながら、揚羽は意識を失ったのだった。
★
目を覚ますと揚羽は白い角砂糖のような部屋のベッドに横たわっていた。間仕切りのカーテンは開放されていて、指先を入れると暖かそうな日の光が窓から差し、リノリウムの床に落ちているのが見える。現代医学の力が凝縮されていそうな設備はないが、ここが病人や怪我人を治療する施設の一室だと、揚羽はぼんやりとだが理解できた。ふと人影が見えた気がして揚羽は視線を動かす。部屋の入口の近く、一人の青年が腕と脚を組んでパイプ椅子に座り、究極の仏頂面でスマートフォンを操作している。そしてその青年は颯だった。
「鷲海さん……?」
揚羽が掠れた声で呼ぶと颯は彼女のほうを向いた。スマートフォンをポケットに入れた颯は立ち上がり、座っていたパイプ椅子を持ち上げると、ベッドの側までやってきた。パイプ椅子を置いた颯が腰掛ける。揚羽の記憶が最後に覚えているのは、足を滑らせて梯子から落ちそうになったことだ。ここがどこなのか尋ねようとした揚羽よりも早く颯が口を開いた。
「ここは衛生隊の医務室だ。お前は意識を失って、医務室に運ばれたんだよ。あのあと大変だったんだぞ。波川2佐と蓮華隊長から同時に説教されて、遠藤3佐に拳骨をお見舞いされたんだぜ。あのオッサン、お前に気があるんじゃないのか?」
颯は明るい声で倒れたあと何があったのか揚羽に教えてくれた。颯は揚羽を安心させようと、無理をして明るく振る舞っているように見えた。なんだか居たたまれなくなり、揚羽は視線を落とした。颯に言いたいことが、話したいことがたくさん積もっているのに、言葉が出てこない。ばらばらに散った言葉を組み合わせて、揚羽は声を出すことができた。
「鷲海さん。私、貴方に謝りたいんです。私は自分のことばかり考えて、自分の気持ちを言いたいだけ言って、鷲海さんの気持ちなんか全然考えていなかった。そんな私が、鷲海さんの――みんなの仲間になんかなれるわけありませんよ。……私はウイングマークを着けるにふさわしくない人間なんです」
鼻の奥が痛い。目尻も熱く発火する。喉が腫れ上がってうまく呼吸ができない。言葉も紡げなくなって、それでも無理矢理に声帯を開こうとすると、今度は胸腔の辺りに圧迫感を覚える。生まれた時から自分の身体の一部であるはずなのに、喉は自分の意思を持ったように動いてくれなかった。颯は黙っていたが、椅子から臀部を少し浮かせて前屈みになると、揚羽の肩を抱いて彼女を胸の中に引き寄せた。驚いて仰ぎ見た颯の顔つきは意外にも穏やかで、まるで嵐が過ぎ去ったあとの空のようだった。
「――今は頑張らなくていい。だから思いっきり泣いちまえ」
颯の声は極めて優しく調子は温かで、聞いているとあたかも柔らかく心を慰撫されているような気がした。揚羽の中にするりと入ってきた颯の声は、張り詰めていた心の糸を紡ぎ取っていった。瞬間揚羽が全力で抑えていた涙腺は一気に断ち切れる。服を掴んで颯の胸に顔を埋めた揚羽は、眉間に深い皺を作って、小振りの唇を震わせながら滂沱した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「分かったからもう謝るなって。……お前は何も悪くないんだよ」
胸に顔を埋めて泣く揚羽の頭を颯は優しく撫でる。尖っていた心は春の陽光に照らされた氷のように静かに溶けて、穏やかに平らになっていき、やがて夜明けの光に包まれたのだった。

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