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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第4章 狂雲騒ぐ

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戦慄のバーディゴ

 激しい雷雨の夜などに、教会の尖塔や船のマストのような尖った物の先端に現れる、火炎状の青紫色のことを「セントエルモの火」という。船乗りの間では、セントエルモの火が二つ出現すると、嵐が収まると信じられた。揚羽が見つけたF‐2Bの橙色の航法灯は、まさに船乗りを導くセントエルモの火だと言えよう。

 操縦桿を手前に引き寄せて機体を上昇させる。揚羽が遠藤3佐のF‐2Bに近づいていたその時だ。被雷の影響で停止していた無線が復旧した。最初の交信相手は松島タワーの管制官だ。揚羽は管制官と会話したあと、松島基地の飛行指揮所に無線を回された。揚羽は飛行管理員が交信してくると思っていたのだが。

『燕! 俺だ! 鷲海だ! 今どの辺りを飛んでいるんだ!?』

 揚羽は驚いた。交信してきたのは飛行管理員ではなく、なんと颯だったのだ。部外者は帰れと言いたかったが、揚羽はぐっと堪えて言葉を飲み込んだ。

「鷲海さん? どうしてそこにいるんですか?」

『いいから答えろ! 現在位置はどの辺りなんだ!』

「レーダーが動いてないので分かりません。でも遠藤3佐の機体の航法灯を見つけました。今機体を上昇させて、航法灯が見えるほうに近づいているところです」

 ぼんやりと浮かぶ航法灯の位置を確認しつつ揚羽は答える。指揮所で何か談義しているのか、数分間無線は静かだった。ややあって通信を再開した颯は、聞こえている音はなんなんだと訊いてきた。

 颯が言っている音とは、先程からしつこく鳴り続けている、HSIの警報音のことだろう。この音はHSIの警報音で、先程から鳴り続けているのは、被雷したせいで壊れているからだと揚羽は言った。再び無線が沈黙する。次に聞こえた颯の声は落ち着いていたが、強い緊張を必死に抑えているように思われた。

『燕、落ち着いてよく聞け。お前は今バーディゴになっているんだ』

「バーディゴ――?」

 座学で勉強したから知っていた。バーディゴは飛行中に平衡感覚が失われる生理現象で、上下左右がまったく分からなくなり、自分の姿勢が確認できなくなる。星が見えない曇りの夜間飛行だと、怖ろしいことに「漁り火」を「夜空の星」と思い込み、漁船が走る漆黒の海に真っ逆さまに「急上昇」した例もあるほどで、上下の感覚などいとも容易く失われるのだという。

 生還すれば仲間に貴重な教訓をもたらすが、ほとんどは気づかないまま海の藻屑と消えるから、バーディゴは原因不明の代名詞でもある。あろうことかそのバーディゴに自分は陥っている? そんなはずはない。正しい姿勢で空を飛んでいる絶対的な自信がある。間違っているのはHSIのほうだろう。最終的に正しいのは機械ではなく人間なのだから。

「じゃあ、私は今背面飛行で飛んでいるってことですか? そんなはずありません! 私は正しい姿勢で飛んでいます! HSIが故障しているだけですよ!」

『お前は自分が正しい、機械が故障していると思っているだろうが、そう思っているうちに手遅れになってしまうんだよ! 死にたくなかったら俺の言うことを聞け!』

 揚羽が反駁すると、冷静さを失ったのか颯は大声で命令してきた。瞬間憤りが血管を逆流して、脳髄に一極集中する。脳髄の毛細血管が線香花火のようにぷつぷつと破裂しそうだ。怒りの心は揚羽の口を押し開けて、笛の音のような息と一緒に外に溢れ出ると、声に形を変えて迸ったのだった。

「俺の言うことを聞け? よくもそんな偉そうなことが言えますね!! 私が素直に言うことを聞くとでも思っているんですか!? 貴方は私の父さんを侮辱して傷つけたのよ!? 何かにつけて私を馬鹿にして、生意気なヒヨコパイロットだって言って、全然認めようともしない!! それに好きでもないくせにあんなことをしたわ!! 簡単に許せるわけないじゃない!! 貴方は最低な男よ!!」

 全身怒りの塊になった揚羽は耐えきれず、大爆発した感情を声に変えて叫んだ。そうだ、颯は最低な人間だ。これまで揚羽を馬鹿にしてきた。恋愛関係でもないのに、無理矢理キスをしてあんなことをした。さらには揚羽が尊敬する父を人殺し呼ばわりした。揚羽はそれが一番許せなかった。

『――ああ、そうだ。お前の言うとおり、俺は最低な男だよ。お前を馬鹿にしたこともあったし、そんな関係じゃないのに、あんなことをして傷つけた。お前が尊敬する親父さんを侮辱した』

 揚羽は一言も返せない。「でもな」と颯は続ける。

『もうお前は俺にとって生意気なヒヨコパイロットじゃない、同じ空を目指す命と心を預け合った「仲間」だ!! 俺だけじゃない、指揮所にいるみんなが、お前に生きて帰ってきてほしいと強く願っているんだよ!! ファイターパイロットを目指すお前も知っているはずだ!! ファイターパイロットの任務は日本の空を守ることだけじゃない!! 生きて地上に帰ることも任務なんだよ!! だから帰ってこい!! 俺たちの――俺のところに帰ってこい!! お前に言いたいことが、話したいことがたくさんあるんだ!! 俺を信じてくれ!!』

 嘘偽りのない真情が込められた颯の言葉は、揚羽の心を真っ直ぐに強く衝いた。

 揺れる心と連鎖するように、颯と過ごした日々の記憶が次々と蘇る。

 一緒にランニングをした花曇りの日。鬼熊3佐の娘の陽菜と一緒に猫のテディを捜した日。鍋パーティーで掴み合いをした日。鬼熊3佐の家で晩御飯をご馳走になった日。嫌な思いをした時もあったけれど、颯と一緒に過ごした日々は、まるで高貴な宝石のように今も輝き続けている。

 その記憶を慈しんで大事にしたい。颯と同じ景色を見て、同じ感情を共有して、同じことをもっと経験したい。そのためには帰らなければ。生きて帰らなければ、颯とやり直すことはできないのだ。熱い感情は震えとなり、揚羽の全身を駆け巡った。

 瞬間揚羽の意識は一気に覚醒する。まるで頭の中で美しい音楽が演奏されているような、不思議な意識の昂ぶりを揚羽は覚えていた。黒雲の波が断ち切れて、視界いっぱいに白波が立つ海が広がる。今まで空だと思っていたのは海だったのだ。

 考えるよりも早く揚羽は機体を反転させて操縦桿を引いていた。機首が天を仰ぎ翼が海風を纏う。海面すれすれで機体は上昇した。どうやら揚羽は嵐の空域を脱したらしい。積乱雲の軍団は後背に過ぎ去ろうとしていた。

(鷲海さん、私も貴方に言いたいことがたくさんある、話したいことがたくさんあるの。今から貴方のところに帰ります。だから待っていてください――)

 不思議だった。揚羽の心を蝕んでいた暗い気持ちは綺麗さっぱり剥がれ落ちていたのだ。煩悶していたのが嘘のような清々しさである。肩の力を抜いて揚羽はキャノピーの外を見つめる。雲の切れ間から差し込む、幾筋もの神々しい黄金色の光は、あたかも天上と地上を行き交うための階段のようだった。
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