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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第4章 狂雲騒ぐ

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生きて帰る任務

 薄墨を流したような空に厚い雲が暗澹と動いている。うっすらと光る水色の空は、やがて広がる雲の胃の腑に飲み込まれてしまった。今にも雨が降り出しそうな空模様なのは一目瞭然である。しばらくして金華沖に向かっていた天候偵察機が基地に戻ってきた。金華山沖をはじめ洋上での訓練を行う際に先行して離陸、訓練空域の天候を確認するのが天候偵察機メトロの役割だ。

 ブルーインパルスの訓練と展示飛行はVFRを前提としている。パイロット自身が目視によって安全を確保しながら飛行するのが、有視界飛行方式と呼ばれる「Visual Flight Rules」を略したVFRだ。視界が確保されていなければ当然飛行はできないので、雲の高さや雲量など天候の影響を受ける。訓練ができる天候ではないのは、誰の目から見ても明らかだった。

「今日の訓練は雨で中止か。誰かさんの日頃の行いが、悪いからなんじゃないのか?」

 聞こえよがしに嫌味を言ってきたのは、颯の隣のデスクの椅子に座って、細かな事務作業をしている黎児だった。向けられた表情と視線には毒を含んだ棘がある。売られた喧嘩は買う主義だ。颯はぎろりと黎児を睨み返した。

「その言葉、そっくりそのままお前に返すぜ。天気が悪くなったのは、今までお前が捨ててきた女たちの、恨みのせいなんじゃないのか?」

「――っ! なんだと!?」

「やる気か!? 上等だ! かかってこいよ!」

 同時に席を立った颯と黎児は睨み合い、不可視の火花を宙に散らした。いつ殴り合いになってもおかしくない、激情が気化した危険な空気が漂い始める。

「いい加減にしないか! 鷲海、蛍木、お前たちはいったいどうしたんだ! ろくに会話はしないし、目を合わせようともしないじゃないか! 数日前から様子がおかしいぞ? 何かあったのなら今すぐ私に話しなさい!」

 涼やかな声が空気を裂く。睨み合う颯と黎児を叱咤したのは蓮華2佐だ。切れ長の双眸は吊り上がり、唇は固く引き結ばれている。これ以上我慢がならないといった表情だ。もしもここが裁判所の法廷だったなら、颯と黎児は法廷侮辱罪で退廷を命じられていただろう。

「……少し外の空気を吸ってきます」

 逃げるように事務所を後にした颯は、そのまま第11飛行隊隊舎を出た。煙缶が置かれている喫煙場所で煙草を吹かしていると、雷鳴が鳴り響き雨が降ってきた。降り出した雨はやがて篠突くような豪雨になり、辺りは一面水飛沫で白っぽくなっていく。

 これは颯の推察だが、蓮華2佐は二人の間に何があったのか知っているのだと思う。隊長室に招聘して聴取することもできるであろうに、敢えてそれをしないのは、颯と黎児が自らの意思で話すのを、辛抱強く待ってくれているのだ。蓮華2佐には悪いが、今はまだ話す気にはなれなかった。

 不意に揚羽の姿が脳裡に思い出される。颯が最後に会った揚羽は、今降っている雨のように泣いていた。愕然とした表情の揚羽の、硝子玉のような大きな双眸は限界まで見開かれ、悪夢を見たかのように、彼女の華奢な身体は震えていた。揚羽の泣き顔を思い出した瞬間、颯の心に大きな痛みが走った。

 ――どうして自分が罪悪感を覚えなければいけないのだ。眉間を押さえた颯は瞑目して首を振る。衝突の原因を作ったのは揚羽なのだから、衝撃を受けるとは虫が良すぎるのではないのか。傷つきたくないなら放っておいてくれればよかった。他人のことにいちいち首を突っ込んできた揚羽が悪い。颯が激しく怒鳴りたくなるのも当然だ。そしてそれを最後に揚羽は、第11飛行隊の区画に来なくなったのだった。

 轟音が鳴り響き颯は頭上を仰いだ。すると降りしきる豪雨の中を、一機の戦闘機が飛んでいるのが視界に映った。シルエットを見るかぎり、あれは第21飛行隊のF‐2Bだろう。基地に飛んできたF‐2Bは建物の陰に隠れて見えなくなった。

 颯は吸い終えた煙草を煙缶に捨てる。濡れるのは仕方ないと思いながら、喫煙場所から第11飛行隊隊舎に戻ろうとしたその時だ。誰かがこちらに走ってくるのが見えた。傘も差さない全身ずぶ濡れの青年は、現在颯と敵対関係にある黎児だった。黎児は開口一番颯を罵るのかと思ったのだが。

「……揚羽ちゃんの行方が分からなくなったそうだ」

 冷たい雨に打たれたせいなのか、黎児の顔は青褪めていた。

「それがどうしたんだよ。濡れてまで俺に知らせにきたっていうのか? ご苦労様だな」

 水溜まりを踏んだ黎児が距離を詰めてきた。表情に落ちている影は濃い。怒りを必死に抑えているように思える。

「揚羽ちゃんの行方が分からなくなったんだぞ。それなのにお前はなんとも思わないのか?」

「ああ、思わないね。あいつのことだから、訓練が嫌になって逃げたんじゃないのか?」

 颯の視界は斜めに傾き身体に痛みが走った。抑えていた怒りを爆発させた黎児が、颯を濡れた地面に引き摺り倒したのだ。颯の上に跨がった黎児は、怒りとも悲しみともつかない激情を剥き出しにしていた。

「よくもそんなことが言えるな!! 揚羽ちゃんは広い空を今独りで飛んでいるんだぞ!! こんな暴風雨の中を独りで飛んでいるんだぞ!! 死ぬほど怖い思いをしている揚羽ちゃんを、訓練が嫌になって逃げ出しただなんて、どうしてそんなことを平気で言えるんだよ!!」

 颯の顔に雨粒とは違う成分の水滴が落ちてくる。顔に落ちてきたそれは涙だった。引き摺り倒した颯を見下ろす黎児は泣いていたのだ。黎児の心中を表しているかのように、颯の胸元を掴んでいる手は震えていた。

「お前だって気づいてるはずだろ? 揚羽ちゃんはな、お前に憧れていて、お前のことが好きなんだよ。俺だって揚羽ちゃんが好きだ、大好きなんだ。でも、悔しいけれど、俺は揚羽ちゃんを幸せにできない。揚羽ちゃんを幸せにできるのは、お前しかいないんだ。だから頼む、揚羽ちゃんを助けてやってくれよ……」

「黎児……」 

 颯の胸に突っ伏すように顔を埋めた黎児が啜り泣く。そんな黎児の姿は颯の心を大きく揺さぶった。

 揚羽の気持ちには気づいていた。揚羽が自分を見る眼差しが、憧れから別のものに変わっていたのも知っていた。だが颯は知らぬ存ぜぬを決め込んだ。揚羽が自分に向ける感情と向き合うのが怖かったのである。

 その結果颯は揚羽の心身を深く傷つけた。本来ならば己の感情と真っ向から向き合い、揚羽との関係についてきちんと結論を出すべきだったのだ。今ここで背中を向けて逃げたら、揚羽との間に生まれた亀裂は永遠に修復できない。

「――さっき飛んできたF‐2Bには誰が乗っていたんだ?」

「えっ? 確か遠藤3佐だったかな。今は21飛行隊隊舎のオペラに――って、颯!?」

 黎児の言葉を最後まで聞かず、颯は濡れた地面を蹴って走り出していた。颯は全身ずぶ濡れのまま21飛行隊隊舎に駆け込み、床や壁に水滴を散らしながら飛行指揮所がある階に上がる。指揮所前の廊下は、集まった大勢の隊員たちで溢れかえっていた。颯は黒山の人だかりを掻き分けて指揮所に入る。無線機が置かれているカウンターの前には、指揮所幹部と第21飛行隊隊長に教官たちが集まっていた。

「燕! 聞こえているのか!? 応答しろ! 燕!」

 必死の形相で無線機のマイクに叫んでいる男性がいた。揚羽の担当教官の遠藤3佐だ。遠藤3佐も颯と同じく全身ずぶ濡れだった。だが無線機は死んだように沈黙している。遠藤3佐は繰り返してマイクに叫ぶが応答は返ってこない。唸るような声を出した遠藤3佐は、壊れんばかりの力でマイクを乱暴に叩きつけた。

「くそっ! どうして繋がらないんだ!」

「もしかしたら……被雷したのかもしれません。それなら無線が通じないのも説明がつきます」

 近くにいた飛行管理員が答える。それを聞いた遠藤3佐は耐えられぬほどの緊張で顔を強張らせた。遠藤3佐はしばらくその場に直立していたが、決意したように拳を握り締めると、出入り口のほうに向かって歩き出した。歩みを進める遠藤3佐の前に一人の男性隊員が立ちはだかる。厳しい面持ちの男性隊員は、第21飛行隊隊長の波川2等空佐だ。

「遠藤、どこに行くつもりだ?」

「決まっているでしょう。燕を捜しにいくんです」

「はいそうですかと行かせられるわけないだろう。こんな悪天候のなか飛び立つなんて自殺行為だぞ。それに燕がどこにいるのかも分からないのに、闇雲に捜し回るのは危険だ。今は天候が回復するのを待って――」

「こうしている間にも燕の機体の燃料は減っているんですよ!? それなら誰かが燕を捜しに飛んだほうがいいじゃないですか! こうなったのは俺があいつを見失ったからなんです! お願いします、波川隊長! 俺を行かせてください!」

 悲痛をいっぱいに滲ませた、遠藤3佐の大声が響き渡った指揮所は、水を打ったように静まりかえった。聞こえているのは建物を叩く雨音と猛り狂う風の音だけだ。

 まだ学生パイロットとはいえども、揚羽は航空自衛隊の一員で颯たちの仲間であり同志。指揮所にいる誰もが仲間を助けたいと強く望んでいる。それなのに行動を起こすことができない。胃の腑を焼くような焦燥に弄ばれるしかないのだ。誰もが絶望の底に沈んでいたとき、飛行管理員が上擦った声を出した。

「かっ、管制塔からです! 燕1曹と無線が繋がったって――」

「貸してくれ!」

 指揮所の隅にいた颯は装甲車のように突き進み、遠藤3佐より先に震える飛行管理員の手からマイクを奪い取った。睨んできた遠藤3佐に構わず呼びかける。

「燕! 俺だ! 鷲海だ! 今どの辺りを飛んでいるんだ!?」

『鷲海さん? どうしてそこにいるんですか?』

「いいから答えろ! 現在位置はどの辺りなんだ!」

『レーダーが動いてないので分かりません。でも遠藤3佐の機体の航法灯を見つけました。今機体を上昇させて、航法灯が見えるほうに近づいているところです』

 ようやく聞けた揚羽の声は思いのほか落ち着いている。だが揚羽の報告を聞いた颯は困惑していた。揚羽が言う遠藤3佐は現在颯の隣にいる。だから機体の航法灯が見えるだなんてあり得ない。ならば揚羽が見ている航法灯はいったいなんなのだ? 颯は揚羽に詳細を訊こうとしたが、先程から「ピー、ピー」とおかしな音が聞こえていることに気づいた。

「燕。さっきから聞こえている音はなんなんだ?」

『音? これはHSIの警報音です。さっきからずっと鳴り続けているんですよ。きっと被雷したせいで壊れちゃったんですね』

 不可視の無数の触手が全身の皮膚を逆撫でに走り抜け、颯は一気に戦慄した。背中を氷柱で撫でられたような戦慄は、颯の身体の隅々から数十億個の細胞まで、じんわりと広がっていく。肉体は戦慄していたが、しかし颯の思考は冷静だった。不意に横から腕を掴まれる。それは遠藤3佐の手だった。颯が見やった遠藤3佐は、神経が凝結したかのように顔を強張らせている。遠藤3佐も颯と同じ結論に辿り着いたのだ。

「……イルカ野郎、どうやらお前も気づいたようだな」

「――はい、間違いありません。燕は空間識失調バーディゴになっています」

 空間識失調は航空医学用語で「バーディゴ」と呼ばれており、機体の傾きが把握できなくなり、自分の機体の旋回方向だけでなく、上昇しているのか下降しているのかさえ、錯誤してしまう危険な状態のことだ。人間の平衡感覚は視覚情報の多くを拠り所としている。内耳の三半規管などは、角速度にして秒速二度に満たない僅かな動きを検知できず、地平線の見えない雲や霧の中や夜間飛行では、放置しておけばパイロットの意識と機体の姿勢は、どんどんかけ離れていくという。

 視界が悪いなか空を飛ぶことは、地中を掘り進むのに似ているが、立ち止まることが許されないパイロットは、蚯蚓みみずを捜す土竜もぐらと違って追い立てられた気分になる。そして空気が薄いこともあり、飛行中の人間は「パイロットの六割頭」となって判断力が鈍り、錯覚に陥りやすいのだ。マイクを取り上げた颯は努めて冷静な声で揚羽に呼びかけた。

「燕、落ち着いてよく聞け。お前は今バーディゴになっているんだ」

『バーディゴ――?』

「バーディゴは飛行中に平衡感覚が失われる現象で、上下左右がまったく分からなくなる。自分の姿勢が確認できなくなるんだ。お前が見ているのは航法灯じゃない。多分漁船の明かりだと思う」

『じゃあ、私は今背面飛行で飛んでいるってことですか? そんなはずありません! 私は正しい姿勢で飛んでいます! HSIが故障しているだけですよ!』

 怒気を孕んだ声で揚羽は反駁してきた。バーディゴはベテランからルーキーまで、飛行経験の多少に関係なく、人間なら誰でも起こりうる生理現象だ。もしバーディゴになったら、冷静になって計器を信じるほかないのだが、愚かにも人間はそうした危機に直面すると、科学よりも自らの感覚に従い、機械の故障を疑ってしまいがちになる。揚羽は今まさにその精神状態だった。

「お前は自分が正しい、機械が故障していると思っているだろうが、そう思っているうちに手遅れになってしまうんだよ! 死にたくなかったら俺の言うことを聞け!」

 冷静さを忘れて颯は怒鳴る。颯の怒鳴り声に怯んだのか、揚羽は沈黙したようだった。

『――いい加減にしなさいよ』

 やや間を置いて返ってきた揚羽の声は低く冷たかった。言葉の硬い響きは、さながら研磨されたダイヤモンドを思わせる。

『俺の言うことを聞け? よくもそんな偉そうなことが言えますね!! 私が素直に言うことを聞くとでも思っているんですか!? 貴方は私の父さんを侮辱して傷つけたのよ!? 何かにつけて私を馬鹿にして、生意気なヒヨコパイロットだって言って、全然認めようともしない!! それに好きでもないくせにあんなことをしたわ!! 簡単に許せるわけないじゃない!! 貴方は最低な男よ!!』

 言葉遣いこそいつものように丁寧だが、揚羽の声音には今までにない激しい感情が弾けていた。揚羽の言葉は痛みと共に颯の心に沁み渡る。心臓を激しく刺されても死ねない拷問のような心痛だった。だがこの痛みは自分のものではない。揚羽が感じている心の痛みだ。

「――ああ、そうだ。お前の言うとおり、俺は最低な男だよ。お前を馬鹿にしたこともあったし、そんな関係じゃないのに、あんなことをして傷つけた。お前が尊敬する親父さんを侮辱した」

 深呼吸を一回。「でもな」と颯は言葉を続ける。左右の拳を握り締めて強い口調で。

「もうお前は俺にとって生意気なヒヨコパイロットじゃない、同じ空を目指す命と心を預け合った『仲間』だ!! 俺だけじゃない、指揮所にいるみんなが、お前に生きて帰ってきてほしいと強く願っているんだよ!! ファイターパイロットを目指すお前も知っているはずだ!! ファイターパイロットの任務は日本の空を守ることだけじゃない!! 生きて地上に帰ることも任務なんだよ!! だから帰ってこい!! 俺たちの――俺のところに帰ってこい!! お前に言いたいことが、話したいことがたくさんあるんだ!! 俺を信じてくれ!!」

 今まで抑えに抑えてきた熱い感情が、宇宙で新星が誕生した瞬間の如く爆発した。爆発した熱い思いが揚羽に伝わったのか知る術はない。胸に突き上げてくる気持ちで、闇雲に涙が溢れてくる。

 人前で泣くなんてプライドが許さない。だが今はプライドなんてどうでもよかった。揚羽の命が助かるのなら、プライドなんて喜んで捨ててやる。天に神様がいるのならお願いだ。どうか揚羽に嘘偽りのない俺の思いを届けてほしい。心から祈りを捧げた颯は、唇を噛み締めて天井を仰いだ。
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