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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第4章 狂雲騒ぐ

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衝突と決別

 油蝉がやかましく鳴く蒸し暑い夏の午後。夏の強い日差しを浴びた植物は燃えるように青い。夏祭りの日から数日が経ったが、松島基地はいたって平穏そのものだ。第11飛行隊で隊員同士の悶着が起こった様子もなく、洋上アクロ訓練と飛行場訓練も普通に行われていた。颯と黎児が殴り合いの喧嘩を繰り広げたことを、飛行隊長の蓮華2佐と飛行班長の鬼熊3佐はまだ知らないのだろう。

 ランニングウエアに着替えた揚羽は、学生隊舎を出て基地外周をランニングしていた。強烈すぎたあの出来事は、今でも鮮明なまま記憶に刻まれている。颯に抱き締められた時の温もり。強引に押し当てられた唇の感触。身体を愛撫する官能的な手の動き。男の本能を剥き出しにした颯の顔。そのすべてが記憶に焼きついていて消えない。思い出しただけで胸が苦しくなってしまう。だから揚羽はなんとか気を紛らわせたかった。強制的に体力を消費すれば、考えるエネルギーもなくなるだろうと思ったから、こうやってランニングをしているのだ。

 基地を半周した揚羽は正門の近くで足を止めた。松島基地の正門を入ってすぐの所には、往年の名機が置かれている。初代ブルーインパルス機で、「ハチロク」の愛称で親しまれたF‐86Fノースアメリカンセイバー、T‐2高等練習機、T‐6テキサン練習機、F‐104Jスターファイターなどを見ることができる。T‐2高等練習機の前に置かれているのは、平成13年に解散した第22飛行隊の記念碑だ。

 その第22飛行隊の記念碑の前に二人の男性がいた。見学ツアーに申し込んだ観光客かと思ったが、よく見てみると男性の一人はパイロットスーツを着た颯だった。颯はもう一人の男性と激しく言い争っている様子だ。

 相手の男性は50代前半、黒髪を綺麗に整えてダークスーツを着ている。言い争っているとはいっても、主導権を握っているのは颯のほうだ。男性は貝のように口を閉じ合わせたまま、一言も抗弁せずに押し黙っている。そんな男性の態度が気に食わないのか、颯の表情はさらに険しくなっていった。

「彼女は死ぬ間際まであんたの名前を呼んでいたんだぞ!! それなのにあんたはその時何をしていたんだ!? 愛する人を守れなかったくせに、昔のことは忘れろだって!? ふざけるんじゃねぇよ!!」

「とにかく落ち着きなさい! 頼むから私の話を聞いてくれ!」

「うるせぇ!!」

 スーツの襟を引き千切るように掴んだ颯は、握り締めた拳の一撃を男性の顔面に食らわせた。拳に鼻柱を打たれた男性は、よろめきながら展示機に背中をぶつけて、草地の上に倒れ込んだ。これは看過できない。急いで駆け出した揚羽は、再び拳を振り上げた颯と倒れた男性の間に割り込んだ。

「やめてください! いったい何をしているんですか!?」

 間に割って入ってきた揚羽に驚いた颯の動きが止まる。死んだと思った人間が、急に蘇った瞬間を目の当たりにしたような驚きの表情だ。不愉快だと言わんばかりに舌打ちした颯は、揚羽と男性を一瞥すると、早足でその場を立ち去っていった。尋常ではない颯の様子に、揚羽は呆然としていたが、怪我人がいることを思い出し、急いで振り返った。

「大丈夫ですか!?」

 揚羽は男性を助け起こした。男性は殴られた鼻から血を垂らしている。命に関わる怪我ではないだろうが、やはり応急手当は必要だ。診療所で怪我の手当をするからと言った揚羽に、男性は首を振って治療を拒否した。

「いえ、大丈夫です。このことは誰にも言わないでください。……お騒がせしてすみませんでした」

 眼鏡をかけ直して揚羽に一礼した男性は、ハンカチで鼻を押さえると足早に去っていった。駐車場から出てきた黒色のセダンが、道路を走り正門を出て行くのが見える。走り去るセダンを見送った揚羽は、踵を回して颯の後を追いかけた。第11飛行隊専用の格納庫の裏側に颯はいた。揚羽に背中を向けているので表情は分からない。颯に被さる格納庫の影は、どことなく周囲の影より暗く見えた。

「鷲海さん」

 揚羽が声をかけると颯はゆっくりとした動作で振り向いた。まだ表情に感情は出ていない。腹に力を入れて平静を装っているように見える。

「あいつは帰ったのか」

「ええ、ついさっき帰られました。あの男の人と言い争っていたみたいですけれど、彼はいったい誰なんですか?」

「……お前には関係ない」

 背中を向けた颯の両足が動く。揚羽は手を伸ばして颯の腕を掴み、場に留まることを要求した。

「関係ないって――そんなことを言っている場合じゃありませんよ! 理由もなく一般の人を殴ったんですよ!? 誰にも言わないでくれって頼まれましたけれど、蓮華2佐に言うべきだと私は思います! だからまず私に教えてください! そのあと一緒に蓮華2佐のところに行きましょう!」

「関係ないって言ってるのが分からねぇのかよ!」

 閃く稲妻のように身を翻した颯が、腕を掴む揚羽の手を力任せに振り払った。颯と向き合った揚羽は戦慄する。目尻を険しく吊り上げた颯は、一気に殺気立っており、火のような怒りの色を全身に漲らせていたのだ。

「そんなに知りたいのなら教えてやるよ! あいつの名前は鷲海貴彦わしみたかひこ、俺の父親だ! お前の親父と同じ人殺しの父親さ!」

「私の父さんが、人殺し――?」

 颯の口から放たれた言葉は冷たい棘となり、揚羽の心に深く突き刺さった。

「ああ、そうだ!! 俺は知っているんだぞ!! お前の親父は墜落した仲間を見捨てて、自分だけ助かった卑怯者の人殺しなんだろ!? 仲間の一人も守れない奴が、空自のファイターパイロットだったなんて笑わせるぜ!!」

 瞬間風船が破裂した時のような乾いた音が鳴り響いた。颯の顔は左に傾き頬は赤く腫れている。揚羽は右手を振り抜いた体勢で立っていた。揚羽の平手打ちが颯の頬を弾き、暴言を吐いた彼を黙らせたのだ。

「違うわ!! 父さんは人殺しなんかじゃない!! 父さんは最後まで諦めなかった!! 最大多数の幸福を信じ続けた、立派なファイターパイロットよ!! 仲間を目の前で失った父さんが、今までどんな思いで生きてきたのか知らないくせに、知った口を利かないで!! 貴方は最低な人間だわ! そんな人に、私は――」

 続く言葉は出なかった。張り詰めていた感情の糸がぷつりと断ち切れ、怒りと悲しみが混ざり合ったものが、胸に突き上げてきたからだ。尊敬する父親を侮蔑された悲しみに、耐えきれなくなった揚羽は、片手で口を押さえて走り出した。

 途中颯が呼ばわったが、聞く耳持たず揚羽は走り続ける。そのあとのことは記憶から消えていた。気づいたら揚羽は学生隊舎の自室にいて、ベッドに突っ伏して滂沱していたのである。悲しみは波紋のように広がり連鎖していく。とめどなく傷つけられた揚羽の心は温もりを失い、あたかもこれから死んでいくかのように、硬く冷たくなっていったのだった。
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