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黎児の決意
揚羽に思われていることを知らない颯は、松島基地から遠く離れた北海道航空自衛隊千歳基地にいた。
千歳基地は北海道の中心都市札幌市の南方約45キロに位置する、航空自衛隊唯一の平行ランウェイを持つ基地だ。以前は民間と共同使用だったが、東側隣接地に新千歳空港が開港したので、自衛隊専用飛行場となった。
配備部隊は第201飛行隊と掩体運用の第203飛行隊の、2個戦闘機部隊から成る第2航空団、特別航空輸送隊、千歳救難隊の4個飛行隊。基地の北西に実弾訓練が行われる島松実弾演習場があり、そのため全国の空自戦闘機部隊が移動訓練に飛来するほか、日米共同訓練などの各種演習の部隊ともなる。
千歳基地航空祭は例年8月上旬の日曜日に開催されることが多い。航空祭では第201・203の2個飛行隊配備の、F‐15イーグルによる編隊飛行と機動飛行、千歳救難隊のU‐125A、UH‐60Jによる救難飛行がメインで、年によっては三沢基地のF‐2による模擬対地射爆撃や、アメリカ空軍F‐16によるデモフライトも行われる。出店では北海道名産の焼きとうもろこしやザンギなど、北海道名物が味わえる。言わずもがな展示飛行のフィナーレを飾るのは、第11飛行隊ブルーインパルスの爽快な展示飛行だ。
航空祭の目玉といえば、急旋回や急上昇を行う機動飛行だろう。千歳基地では機動飛行を行う際に、隣接する新千歳空港を離着陸する民間機を止めて行うため、時間が短く回数も少なく感じられるが、そのぶんフライトの中身は濃く機動も切れがあって鋭い。なかでも三沢基地から飛来してきたアメリカ空軍のデモチーム、F‐16のハイレートクライムは迫力があり、虹色に輝くベイパーが北海道の空に映えていた。
航空祭では飛んでいる航空機に注目が集まりがちだが地上展示も見逃せない。千歳基地の第201飛行隊の部隊マークをモチーフに、機首と尾翼に力強い羆が描かれた、スペシャルマーキングのF‐15Jイーグル。ミサイルの先端が飛び出しているような展示がなされた、地対空誘導弾ペトリオットミサイル。装備品展示で一番人気なのがコクピットの展示だ。今回はF‐15の操縦席を見ることができ、長蛇の列となっていた。地上展示と装備品展示の他には隊員の音楽演奏があったりと、フライトがない時間帯も来場者たちは楽しんでいた。
「航空祭を終えて松島に戻ったら、俺は揚羽ちゃんに告白します!!」
サインと握手会を終えたあとの、本番前のプリブリーフィングの時間。揚羽に告白すると勢いよく宣言したのは、4番機パイロットの蛍木黎児1等空尉だった。颯たちはボントンロールのように同じタイミングで黎児に視線を向ける。拳を握り締めて真一文字に唇を引き結ぶ、黎児の瞳の奥には消化器を吹きかけても消えないであろう、強い決意の炎が燃えていた。
「ファイアフライ、確か前も同じようなことを言ったよな。あの時は……飛行管理員の村本2尉だったか? 告白して数秒でフラれたんだったよな」
と黎児の決意に水を差したのは、2番機パイロットの黒金大悟3等空佐だ。鍛え抜かれた頑強な体躯。褐色に日焼けした坊主頭と太く濃い眉毛。だが屈強な外見には不釣り合いな、つぶらで澄んだ目をしている。海外ドラマの登場人物に似ていることから、「デレク」のTACネームがつけられたのである。水を差した声は低く甘い。褐色に焼けた肌と甘い低音の声は、なんだか洋菓子のブッシュ・ド・ノエルを連想してしまう。茶化された黎児は肉感的な唇を尖らせて抗弁した。
「ちょっとデレクさん! 今度は本気ですよ! 気合い入れて飛びますから、見ててください!」
「気合いを入れて飛んでくれるのは嬉しいが、レター・エイトで合流する時に、勢い余って突っ込まないようにな」
蓮華2佐の軽口にどっと笑いが起こる。「復唱よろしく」と蓮華2佐が全員に呼びかけると、晴れやかな笑い声で満ちていた室内は一気に静かになった。颯たちはミーティングテーブルの上に右手を突き出して、T‐4に乗って空を飛ぶ自分の姿を脳裡に思い描く。これは全員の呼吸を合わせるために毎日行っている、いわば仕来りのようなものだ。飛行隊長の最後のコールに合わせて、全員が一斉に操縦桿を握る右手首を倒すのである。
「ワン、スモーク。スモーク。ボントン・ロール。ワン、スモーク。ボントン・ロール。スモーク。ナウ! (スモークをオン。スモークをオフ。ボントン・ロールの隊形に開け。スモークをオン。ボントン・ロール用意。スモークをオフ。ロールせよ!)」
蓮華2佐に続いてボントンロールのコールを復唱、最後の「ナウ!」の掛け声に合わせて、颯たちは操縦桿を握る右手首を倒す。気持ちがいいくらい全員の動きはぴったり合っていた。これが本番だったら間違いなく、万雷の拍手喝采を浴びるボントンロールだろう。完璧な仕上がりに満足した蓮華2佐たちが退室していくなか、席を立った颯は先にブリーフィングルームを出ようとしていた黎児を呼び止めた。
「お前、本気で燕に告白するつもりなのか?」
颯がやや強い声音で問うと、黎児は睨みつけるほど真剣な眼差しで見返してきた。
「颯、お前の飛行技術はブルーの中で一番だって俺は思っているし、俺は航学の時からお前を尊敬しているよ。でも俺は本気で揚羽ちゃんに惚れているんだ。だから揚羽ちゃんのことだけは絶対に譲れない。お前がなんと言おうと、俺は揚羽ちゃんに想いを伝えるからな」
垂れ目がちな黎児の目尻は上がって引き締まった顔つきになっていた。
――こんなに真剣な黎児は今まで一度も見たことがない。
颯と黎児は航学からの付き合いである。その頃から黎児は尻の軽いプレイボーイで、星の数ほどの女の子を口説いては泣かせていた。そんな黎児が「本気で告白する」と真剣に宣言した、一人の女性に――あの揚羽に本気で惚れていると颯に言ってきた。
颯を見据える黎児の双眸に湛えられているのは、冷えて凝固した鉄の塊の如き強固な意志。鉄の意志を見せつけられた颯は言葉も出せない。そして黎児は無言の颯を一瞥すると、彼を残してブリーフィングルームから出て行った。
黎児は颯が友人と呼べる数少ない一人だ。真剣に恋する黎児に応援の言葉をかけられたであろうに、なぜだか颯はそれができなかった。いくら言葉を重ねても言葉にならない焦燥感が、心をぎりぎりと軋ませるのを感じながら、颯は案山子のように棒立ちしていたのだった。

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