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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第4章 狂雲騒ぐ

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センチメンタル・ガール

 南から順番に梅雨が終わり、日本列島はいよいよ本格的な夏を迎えていた。いかにも夏らしく澄みわたった空の色はトルコ石のようで、真っ白な入道雲が沸き立っている。

 胃の腑まで打つ爆音を響かせながら、両翼端からベイパーを曳いて、二機のF‐2B戦闘機が高速で空を飛び回っていた。第21飛行隊の学生パイロットの燕揚羽1等空曹と、彼女の訓練相手の遠藤3佐が乗るF‐2Bだ。二機のF‐2Bは互いの後ろにつこうと、円を描くように旋回している。犬が相手の尻尾を追いかけ合う姿に似ていることから、戦闘機同士の近接格闘戦は「ドッグファイト」と言われるようになったのだ。

 ドッグファイトはただやみくもに相手を追いかけるだけではない。第一次世界大戦以降、長い間に培われてきたさまざまなセオリーがあり、相手の背後に回るための戦術や、効率的な機動方法がある。旋回率やエンジンレスポンスなど、機体の性能差も重要な要素だが、相手との位置関係、速度と高度などの物理的エネルギーを利用して優位に進めるのが基本。ドッグファイトの主導権をとれば、相手にプレッシャーをかけ続けてミスを誘える。その一瞬のミスで相手を撃墜することができるのだ。

(逃がさないんだからっ!)

 揚羽は巴戦から離脱したF‐2Bを追いかける。するとF‐2Bは揚羽の進行方向に向かって鋭く旋回した。防御側が最初にとる基本機動ブレイク。不意を突かれた揚羽は遠藤3佐が乗るF‐2Bを追い越してしまう。揚羽に有利だった戦況は一瞬で不利に変わってしまった。だが揚羽の闘志は決して折れない。揚羽は旋回や方向転換で、位置関係を逆転させることを試みた。

 高度15000フィートを確保。アフターバーナーを使用しない速度350ノットのミリタリー推力で、左にハーフロールを打ち機体を背面姿勢にした。揚羽は真っ直ぐ操縦桿を引いて6Gを維持しながら垂直降下する。揚羽が繰り出した機動は「スプリットS」と言い、機首方位を素早く180度反転させる際に最適な機動だ。

 スプリットSで逆の方向に逃げた揚羽を見た遠藤3佐は、いったん上昇反転して速度を落としてから、彼女を追いかけてきた。揚羽は基本機動のブレイクで遠藤3佐のオーバーシュートを狙う。遠藤3佐は揚羽を追い越したように見えた。だが遠藤3佐は旋回方向の外側で複数回横転バレルロール・アタックすると、速度を落とさずに方向を変えて、再び揚羽の後方に占位したのだ。揚羽はもう一度ブレイクを繰り出したが、降下反転して速度を上げ、一気に上昇してきた遠藤3佐に簡単に背後をとられてしまった。

 背後を取られて焦る揚羽に追い打ちをかけるように、ミサイル接近警報装置の悲鳴が耳に鳴り響く。後方からのミサイル発射炎の放射する、赤外線と紫外線を捉えたのだ。揚羽は即座に回避機動をとる。だが間に合わない。耳障りなミサイル接近警報装置の音は、勝ち誇ったように音量を増して、揚羽の思考を飲み込み押し流した。ややあって揚羽は「スプラッシュ、ワン!」と、遠藤3佐に撃墜宣言される。ヘルメットイヤフォンに帰投の指示が届けられた。事務的な内容に意識が引き戻される。状況終了、揚羽は遠藤3佐に敗北したのだ。

 帰投した松島基地の第21飛行隊隊舎のブリーフィングルームで、揚羽のフライト後の振り返りと評価・反省をするデブリーフィングは開かれた。ミーティングテーブルの上にビニールシートが敷かれ、シートの上に機動図を書くためのグリスペンが用意されているのは、教官と学生パイロットが差し向かいで打ち合わせや反省をするためだ。

 ビニールシートの表面には今日の機動図が描かれており、両者入り乱れた機動図はさながら蜘蛛の巣を思わせる。両腕を組んで黙している遠藤3佐は、あたかも鞘から抜き放たれる寸前の刀のような、いつ斬り伏せられるのか分からない、一瞬たりとも気の抜けない雰囲気を漂わせている。続く沈黙が揚羽の不安を増幅させた。

「遠藤3佐。私のどこが悪かったのか言ってください。でないと改善のしようがありません」

 勇気を出した揚羽が問うと、遠藤3佐はようやく開口した。

「機体のパワーに任せて無駄な動きが多いしロールの精度も低い。お前は右ロールを起点に防御機動に入るから、それじゃあすぐに手の内を読まれるだろうな。あと馬鹿の一つ覚えみたいにブレイクを連発するな。防御機動はブレイクだけじゃない。シザースやインメルマンターンもあるんだから状況を見て使い分けろ。臨機応変にならないとファイターパイロットは務まらんぞ。分かったか?」

「……はい」

 容赦の欠片もない言葉の集中砲火に、ぐうの音も出ず揚羽は俯いた。航空機の運航では常に多くの要素に注意を払う必要がある。例えば故障が発生した場合、その回復だけに注意を集中してしまうと、航空機は墜落してしまう。それに複数の敵機を同時に相手することもあるので、一点集中型ではなく注意分散型の性格のほうが、パイロットに適しているのだ。

「――だが前より操縦はよくなっていたぞ」

「えっ?」

 予想外の言葉が耳朶を打つ。揚羽が顔を上げると同時に遠藤3佐は席を立ち、「デブリは終わりだ」と言ってブリーフィングルームを出て行った。学生たちから閻魔大王と恐れられる遠藤3佐が、なんと揚羽の操縦技術がよくなったと褒めてくれた。それに普段は鋭い双眸もどことなく優しく細められていたような気がする。あたかも耳元で大砲を撃たれた時のような驚きだ。驚きはやがて喜びに変わる。喜びは絶え間なく心の底から溢れ、揚羽の心と身体をいっぱいに満たした。

 この喜びを颯に伝えたい、遠藤3佐に褒められたと自慢したい。第21飛行隊隊舎を飛び出した揚羽は、第11飛行隊隊舎に向かったのだが、エプロンに着くと同時に足を止めた。閑散としたエプロンにT‐4は駐機されていない。覗いてみたハンガーもがらんどうだ。いつも一番に声をかけてくれる三舟1等空曹もいなかった。揚羽は思い出した。颯たち第11飛行隊ブルーインパルスは、航空祭に参加するため松島基地を旅立ち、今は北海道の千歳基地に展開しているのだ。

(鷲海さん、元気にしてるかな……)

 寂しさが一筋の飛行機雲のように心を通り抜けるのを感じながら、揚羽はからりと晴れた夏空を見上げると、最北の基地にいる颯に思いを馳せた。
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