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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第3章 心は浮雲のように

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変化の兆し

 帆を張った白い煙が星の散る夜空の海を進んでいく。晴登と別れて基地クラブを後にした颯は、自動販売機の横に立って煙草を吹かしていた。基地や駐屯地も分煙化が進んでおり、なので喫煙場所は建物の外になっているのだ。

「俺が変わった、か――」

 夜空に紫煙を吐いた颯は独りごちた。言われてみると確かに自分でもそう思う。最近雰囲気が変わったのではないかと、上官や同僚から言われることが多くなった。それに笑うことが多くなったし、口数も少し増えた。心にぽっかりと開いた穴が、温かいもので埋まりつつある。忘れていた感情や情緒の類いが蘇りつつあった。

 ブルーインパルスは極度に協調性を社交性を要求されるため、ほとんどと言っていいほど全員が一緒に行動する。デブリーフィングのあとミニサッカーをしたり、休日になると釣りやドライブに出かけたりする。

 ブルーインパルスに異動が決まってから、覚悟の上だったそんな基本的なことも、颯は息苦しく感じていたのに、いつの間にか仲間と過ごす毎日が楽しくなっていた。「宇宙人」と渾名されていた頃の自分が、嘘のような心境の変化である。素直に認めるのは些か悔しいが、晴登に指摘されたとおり、揚羽の元気と明るさに感化されたのかもしれない。

 「宇宙人」というのは航学時代に、同じフライトコース・チャーリーの幹部候補生につけられた颯の渾名。無口で無表情、何を考えているのか分からないからと、勝手につけられたのだ。好ましくない渾名をつけられようとも、颯はまったく気にしなかった。その幹部候補生は実力もないのに、リーダーを気取っている自惚れ屋だったから、好き勝手に言わせておけばいいと思っていたからだ。

 戦闘機パイロットになれば女にもてるからという、なんとも低俗な理由を聞かされた時、呆れ果てて言葉も出なかったのを覚えている。そんな奴が挺身も国防の任務も務まるはずがない。実際その通りだった。その幹部候補生は居酒屋で他の客を殴り、怪我を負わせるという傷害事件を起こして逮捕され、そのあとフライトコースを課程免になったのである。

 颯は小さくなった煙草を、自販機の横に置かれている、赤く塗られた大型のアルミ缶の中に入れた。この缶は「煙缶」と言い、自衛隊員たちが灰皿の代わりに使っている物。業務用のソースなどが入った、大型のアルミ製の容器を流用したことから、煙缶という名前がつけられたのだ。ちなみに火災予防の意味を持たせるために、赤く塗られているのである。口に銜えた二本目の煙草に、ライターの火を近づけようとした時だ。

「鷲海1尉! 見つけましたよ!」

 宵闇の彼方から鈴を震わせたような澄み透った声が飛んできた。少し間を置いて鈴の音のような声の持ち主が姿を見せる。ところどころが元気よくぴんと跳ねた、ハニーベージュのショートヘアに、硝子玉のような黄色みを帯びた茶色の大きな瞳。第21飛行隊の学生パイロット、燕揚羽1等空曹本人である。揚羽は早足でこちらに突き進んでくる。颯の正面に立った揚羽は眉根を寄せて唇を尖らせた。

「こんな所にいたんですね! もう! ずっと捜していたんですよ!」

「俺を捜していた?」

「今日鬼熊3佐のお宅に晩ご飯を食べに行くって、決めていたじゃないですか。もしかして……忘れていたんですか?」

 「あっ」と小さく呟き颯はぽかんと口を開ける。娘の陽菜がどうしても颯と揚羽に会いたいらしいから、よかったら晩ご飯を食べにこないかと、先週鬼熊3佐に言われたのを、颯は綺麗に失念していたのだ。絶対に忘れるんじゃないぞと、揚羽に偉そうに念押しした本人が、すっかり忘れていたとはなんとも情けない。まさに一生の不覚。そんな颯の様子を見た揚羽はますます唇を尖らせた。

「やっぱり忘れていたんですね? こんな所で呑気に煙草を吸ってる場合じゃないですよ! 陽菜ちゃんが鷲海1尉が来るのを首を長くして待ってますから、早く行きましょう!」

 揚羽が催促したが颯は動かなかった。動かない颯を揚羽は不審に思ったようだ。

「鷲海1尉?」

「――いい加減にやめろよ」

「えっ……? やめろって何をですか?」

 薄闇の中でも揚羽が身を強張らせるのが分かった。やや強い口調だったから緊張しているのだろう。

「階級つけて呼ぶのはやめろって言ってるんだ」

「でっ、でも、今まで鷲海1尉って呼んでも、別に何も言わなかったじゃないですか。それなのに、いきなりどうして――」

「階級つけて呼ぶような間柄じゃないだろ。……それにお前に階級つきで呼ばれると、なんだか落ち着かないんだよ」

 颯が言うと揚羽は視線を外して俯いた。

「わっ、分かりました。これからは鷲海さん、って呼ぶことにします……」

 上目遣いに颯を見上げてきた揚羽は、薄く張った氷のように恥じらいの色を浮かべている。赤面する揚羽は可憐極まる乙女の顔になっていた。それは万華鏡のようにくるくると表情を変える揚羽が、颯に初めて見せる表情だった。

「……この一本を吸ったらすぐに行くから、正門の所で待ってろ」

「はい。少し遅れますって、奈美さんに電話しておきますね」

 綿毛のようにふんわりとした、ハニーベージュの髪を揺らして一礼した揚羽は、颯にぎこちなく微笑んでみせると、正門のほうに歩いていった。揚羽の背中を見送った颯は、二本目の煙草を口に銜えて火を点ける。それにしても階級をつけて呼ぶのはやめろだなんて、どうして口走ったのか理由が分からない。理由が分からないまま颯は煙草をくゆらせる。重心を失った颯の心は、あたかも大波に乗る一枚の木片のように、大きく揺れていた。
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