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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第3章 心は浮雲のように

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父の信念

 浅い水底のような青味を残す夕闇が夜の暗さに変わっていく。晴登は基地クラブのカウンター席で、独り静かにハイボールを飲んでいた。落ち着いたジャズが流れる基地クラブは、数人の隊員がいるだけで閑散としている。もうしばらくすると卒業記念パーティーのように騒がしくなるだろう。晴登は惑星のような氷を鳴らしてグラスを傾けると、二口目になる琥珀色に輝くハイボールを飲む。晴登は誰かがやって来る気配を背中で感じたので、カウンターにグラスを置いてから後ろを振り向いた。

「お前が酒を飲むなんて珍しいな」

 晴登の後ろに立っていたのは二十代後半で黒髪の美青年。第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロットの鷲海颯1等空尉だ。椅子を引いて隣に座った颯は、晴登と同じ琥珀色のハイボールを注文する。ややあって颯の注文したハイボールがカウンターに置かれた。しばらく二人は無言でハイボールを飲む。先にグラスを置いて開口したのは、晴登ではなく颯だった。

「――篤哉さん、見つかったそうだな」

 颯の言葉に晴登は短く頷いた。晴登たち松島救難隊が、雷雨の海を彷徨っていた大栄丸の船長と息子を救助してから1ヶ月後。海上自衛隊と第二管区海上保安本部の協力で、朝倉篤哉2等空佐はダイバーの手で海から引き上げられた。

 殉職者の遺骸を回収するのは組織の務めだと言って、高額の経費に渋る各部署を説得して実現させたのは、松島基地司令兼第4航空団司令の斎藤一之空将補だった。各部署の責任者は、なかなか首を縦に振らなかったが、引き上げの話を聞きつけた、航空幕僚長の思わぬ助力もあって、サルベージが実施される運びになったのである。

 篤哉の遺体が見つかったと基地に一報が届いた時、斎藤空将補は人目を憚らず泣いていた。松島基地司令兼第4航空団司令の執念というよりも、それはパイロット仲間への哀惜の念だったのかもしれない。

 篤哉の遺体は牡鹿半島から北東約50キロの地点、深さ40メートルの海底に機体の残骸と共に横たわっていたという。機体から回収されたフライトレコーダーを、航空事故調査官が解析したところ、篤哉は再び牡鹿半島沖に戻っていったことが分かった。

 恐らくだが篤哉は、松吉の他に船が走っていないか確認するため戻っていったのだろう。F‐2は金華山近くの海面上を、約60メートルの高度で西から東へ飛行していた。やがてF‐2は徐々に下降しながら右旋回して、それを最後にフライトレコーダーの記録は途切れていたらしい。

 当時の空域の天候は、高度約30メートルから210メートルまで、厚さ約180メートルの海霧が牡鹿半島から金華山全体を淡く覆い、海面上の視程は約300メートルあまりという最悪の天候だった。ゆえに篤哉は高度の低さに気づかないまま、下降しながら旋回を続けて海面に接触してしまった。それが運輸安全委員会の航空事故調査官が導き出した見解だ。

 3年の月日で骸骨と化した篤哉の身体は、両足を骨折していただけで、他の部位に大きな損傷は見当たらず、航空機事故とは思えない綺麗な亡骸だった。衛生隊の一室で対面した篤哉は、綺麗に洗浄されていて、皮膚も肉も剥離して骨格だけの顔だった。だが表情は読み取れなくとも、機種こそ違えど同じファイターパイロットだった晴登には、篤哉の心中が手に取るように分かっていた。

「父さんと再会した時、僕は確信したよ。父さんは航空自衛隊のパイロットで在り続けようとしたんだって。自衛隊員の役割は国民の生命を守ること。だから父さんはすぐに引き返したんだ。危険を顧みないで、ウイングマークの鷲のように勇猛果敢に、守るべき人たちのことだけを、一心に考えていたんだと思う。そして父さんは、穏やかな心で最期の瞬間を迎えたんだ――」

 瞬きと一緒に弾き出された透明な二粒の水滴が、琥珀色の水面に落ちて揺れた。黒曜石のような晴登の目の裏には、いつの間にか溢れんばかりの涙が湛えられていたのだ。

 最初の涙が零れてしまうと、あとはもう歯止めがきかなかった。グラスを掴んで下唇を噛み締め、身を震わせながら滂沱する晴登の肩を、もっと泣けと言わんばかりに颯が抱く。篤哉を見つけるまでは決して泣くまいと、3年前のあの日晴登は固く決意した。そして篤哉が見つかった今、晴登はようやく泣くことができたのだった。

「……ありがとう、颯。これで前に進めるよ」

「お前の信念が篤哉さんを見つけたんだ。だから俺は何もしちゃいねぇよ」

 晴登が礼を言うと颯は、照れ隠しのようにハイボールを飲んだ。

「変わったな、お前」

「俺が変わった?」

「航学時代のお前はさ、俺に近づくなオーラ全開だったのに、今はなんていうか、雰囲気が柔らかくなったような気がするんだよ。きっと元気で可愛い彼女ができたお陰なのかもしれないな」

 グラスを置いた颯は、眉間にくっきりと皺を寄せた顔で、訳が分からないと言わんばかりに晴登を見つめてきた。

「彼女ができた? いったい何を言ってるんだよ。俺は誰とも付き合っていないぞ」

「そうなのか? 石神3尉と一緒に鍋パーティーに来てた21飛行隊の女の子、僕はてっきりお前のガールフレンドかと……」

「ばっ、馬鹿野郎!! あいつは彼女なんかじゃねぇよ!! 燕は生意気なヒヨコパイロットで、おっ、俺にとってはただの――」

 動揺を抑えきれない乱れた声音で、颯はすぐさま晴登に反駁してきた。しかし気が動転して続く言葉が見つからないのか、顔から首の付け根まで真っ赤になった颯は、水槽で泳ぐ金魚のように口を動かしている。晴登はこんなふうに周章狼狽する颯を初めて見た。もしかしたら第21飛行隊の燕揚羽1等空曹は、颯自身もまだ気づいていない、「特別な存在」なのかもしれない。

「これ以上酔っ払いに付き合ってられるかよ! 俺は帰るからな! あとは独りで飲んでろ馬鹿野郎!」

 グラスに残っていたハイボールを一気に飲んだ颯は、怒ったように靴音をやかましく響かせながら、基地クラブを出て行った。苦笑した晴登はグラスに残っていたぶんを飲み干して、二杯目のハイボールを注文する。篤哉に乾杯を捧げてから飲んだハイボールは、今まで口にしたどの酒よりも格別の味がした。
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