挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第3章 心は浮雲のように

18/56

霧に消えたバイパーゼロ ☆

 晴登たちを乗せたUH‐60J救難ヘリは無事松島基地に帰投した。黒々とした雷雲は割れて太陽が姿を見せており、雲間から差す光に触れた空気は白く濁って見えている。鳥の声が鋭く鮮やかに聞こえ、先程までの激しい雷雨が、まるで幻のように思えてしまいそうだ。やがて遠方に渦を巻いていた黒い雲は薄く伸びていき、空は雨の匂いを残したまま穏やかな青色に染まり始めた。

 ヘリから降りた晴登はハンガーに入り、救命装備室で濡れたドライスーツを脱いで作業服に着替えると、守矢3佐に言ってから、衛生隊隊舎の一室に向かった。

 晴登が赴いた部屋には救助された船長がいる。基地内の診療所に勤務する医師と看護師が、迅速に応急手当をしてくれたので、蒼白だった船長の顔色は良くなっていた。彼の息子は低体温症の症状が見られたので、先に市内の病院に搬送されている。晴登がここに来たのは、船長に尋ねたいことがあったからだ。晴登は黙り込んで座ったまま動かない船長に会釈した。

「……息子の具合はどうなんだい」

「低体温の症状が見られましたが、命に別状はないそうです」

「そうかい。それなら安心したよ」

「自分は救難隊の朝倉晴登1等空尉と言います。疲れているところを申し訳ありません。船長さん、貴方に訊きたいことがあるんです。あの時貴方は、あの人を捜さなければいけない、見つけなければいけないと言っていました。貴方が言う『あの人』とはいったい誰なんですか?」

 晴登は名前を名乗り問いかけた。瞬間虚ろだった船長の表情が一変する。顔が強張るほど驚いた彼は、まじまじと晴登を見つめてきた。突然硬い胼胝たこのできた手が晴登の腕を掴む。驚愕のため喘ぐような呼吸をした船長は、震える声を絞り出した。

「……あんた、朝倉っていう名前なのか?」

 いきなり腕を掴まれた晴登は戸惑いながらも頷き返す。晴登を凝視している双眸が熱を帯び始める。船長はポケットから一枚の紙を取り出すと、晴登に見るよう手渡してきた。海の水で濡れてぐしゃぐしゃになったそれは写真だ。破かないように注意しながら晴登は写真を受け取る。写真に写っているのは金属製の破片だ。恐らく何か乗り物の一部だろう。濃紺色の迷彩塗装を施された破片は海水による腐食が多い。そして破片に書かれている黒色の文字を見た晴登は、とても大きな衝撃に双眸を瞠目したのだった。

 錆びた破片に書かれているのは【A・ASAKURA】の文字。晴登は確信する。――間違いない。この破片は父の篤哉が乗っていたF‐2の一部だ。だがいったいどうして目の前にいる船長が、篤哉が乗っていたF‐2の破片を撮った写真を持っているのだろうか? 

「3日ほど前に漁をしていたら、そいつが網に引っかかったんだ。俺は確信したよ。この近くにあの人がいるってな。だから俺は無理に船を出したんだ」

「これは空自の戦闘機の一部だと思われます。船長さん、貴方はこの戦闘機に乗っていたパイロットに何があったのか知っているんですか? 知っているのなら僕に話してください。戦闘機に乗っていたパイロットは――僕の父なんです」

 3年前の真実が紐解かれるかもしれない。騒ぎ立つ心を抑えながら晴登は冷静に頼んだ。今度は船長は驚かなかった。まるで最初から分かっていたかのような、落ち着き払った表情である。二人の間に鼓動を圧迫するような深い沈黙が降りてきた。晴登は彼が話してくれることを信じて、辛抱強く待ち続ける。沈黙が永遠に続くのかと思われたその時、船長はぴたりと閉じ合わせていた口を開いた。そして彼は、一つ一つの記憶を丁寧に掘り出しているような、ゆっくりとした口調で語り始めたのだった。

 それは3年前の暑い夏の日のことだった。船長の長谷川松吉は、大栄丸に乗ると石巻湾沖に出て、牡鹿半島近くで沖合漁業に勤しんでいた。充分な収穫を得て港に帰ろうとした松吉は気づく。いつの間にか牛乳のような濃い霧が、辺り一面に垂れ込めていて、うねるように流れているのだ。これは海霧に違いないだろう。夏は特に海霧が発生しやすい。漁に熱中するあまり失念していた。急いでエンジンを吹かせて海を走るも、進むべき方向がまるで分からない。この場合、霧が晴れるまで動かずじっとしていればいいのだろうが、松吉はそれを忘れてひたすら船を走らせた。

 松吉は港に帰りたい一心で船を走らせるが、白い霧の幔幕はいつまでも続いていた。奈落の底へ落ちていくような恐怖が胸に這い上がってくる。もう駄目かもしれない。霧の迷宮に閉じ込められた自分は、永遠にここから抜け出せないのだ。操縦席のコンソールに突っ伏してむせび泣いていると、船のエンジン音とは明らかに違う音が、彼の鼓膜を震わせた。操縦席から甲板に出た松吉は辺りを見回す。すると左後方から何かが飛んでくるのが見えた。

 飛んでくるのは一機の航空機。濃い霧の中、翼に描かれた国籍記号が視界に映る。白い縁取りと赤い円のライジングサン。紛れもない自衛隊の航空機だ。胴体には【A・ASAKURA】の文字が書かれていた。自衛隊の航空機は、上空で翼を振りながら旋回を続けている。もしかすると航空機のパイロットは、自分についてこいと言っているのだろうか? 高度を下げてきた航空機のパイロットと目が合った。キャノピー越しにパイロットが頷くのが見える。松吉に頷いて見せたパイロットが乗る航空機は、再び高度を上げて飛んでいった。

 松吉の胸に迷いや疑いはなかった。――あのパイロットを信じてみよう。その思いだけが彼の思考を満たしていたのだ。藁にも縋る思いの松吉は、やや前方を飛ぶ航空機を追いかけるように船を走らせる。航空機に続いていると、濃い霧の彼方に、ぼんやりとした光が浮かび上がった。あれは陸地に建つ建物の明かり。松吉は無事港に戻ることができたのだ。

 甲板に飛び出した松吉は、自分をここまで導いてくれた航空機を空に捜したが、どこかに飛んでいってしまったのか、ライジングサンの機体はどこにも見当たらなかった。無事港に帰れたのを見届けて、パイロットは所属している基地に戻ったのだろう。松吉はそう思っていた。

 それは海霧の恐怖が過ぎ去った翌日のことだ。松島基地のF‐2戦闘機が消息を絶ったというニュースを、松吉は偶然テレビで見た。乗っていたパイロットの名前は朝倉篤哉2等空佐。松吉が見た胴体に書かれていたのと同じ名前だ。マスコミは競い合うように報道を展開した。学生を一人にして消えた、無責任なパイロット。約120億円の血税で買われた戦闘機を海に沈めたパイロット。マスメディアはこぞって朝倉2佐に非難の矛先を向けた。

 さらにはどうやって突き止めたのか、とある雑誌の一面に、行方不明になった空自機が漁船に異常接近したとの記事が書かれた。各テレビ局の報道番組も盛んにその記事を引用して、防衛省が事実を隠蔽しているのではないかと疑惑の目を向ける。しかし防衛省は運輸安全委員会の事故調査の結果が出てからと理由をつけ、非難の集中砲火を浴びても頑なに情報公開をしなかった。

 海上自衛隊と第二管区海上保安本部の巡視艇が、海をくまなく捜索したが機体は見つからず、戦闘機に乗っていたパイロットの、朝倉篤哉2等空佐は死亡認定された。松島基地の戦闘機が行方不明になったニュースは、それからも何度か放送されたものの、スポーツ選手の薬物使用疑惑という、各テレビ局の加熱する報道合戦に埋もれてしまい、やがてぱったりと報道されなくなったのだった。

 世間が朝倉2佐の存在を忘れても、松吉は決して彼を忘れなかった。自分はあの時確かに見た。こちらに飛んでくる戦闘機を、大丈夫だと頷いて見せたパイロットを、松吉は確かにこの目で見た。だから戦闘機も朝倉2佐も幻ではない。そして朝倉篤哉2等空佐は、石巻湾のどこかで機体と共に眠っている、誰かが見つけてくれるのを待ち望んでいるのだ。

「それから俺は朝倉さんを捜し続けたよ。俺はなんとしてでも彼を見つけたかった。でないと命懸けで助けてくれた彼に、申し訳が立たねぇんだ。朝倉さんを見つけられないでいるっていうのに、俺は彼の息子のあんたに助けられた。二度も命を救われるなんて、俺はどうしようもない人間だ。晴登さん、あんたは俺を恨んでいるかい? あの日俺が漁に出ていなければ、朝倉さんは命を落とさなかった。俺は朝倉さんの人生を奪った、奥さんと息子の晴登さんから、大切な家族を奪っちまったんだ――」

 悔恨の言葉が喉から絞り出された。顔を伏せた松吉の双眸から溢れた大粒の涙が、握り締めた拳を乗せた膝の上に零れ落ちる。

「――松吉さん。僕は貴方を恨んでなんかいません」

 顔いっぱいに悲愴な色を滲ませた松吉が晴登を見上げた。まるで全人類の罪を一人で背負ったかのような面持ちである。松吉は驚きのあまり言葉が出てこない様子だ。憎しみがこめられた罵詈雑言を浴びせられるのを、松吉は覚悟していたに違いない。

「貴方は危険を顧みずに父を捜し続けてくれた。そして三年前の父に何があったのかを、僕に教えてくれました。もう苦しまなくていい、過去に縛られなくていいんです。貴方は何も悪くない。だから自分を許してあげてください。貴方は奥さんと息子さんと一緒に、自分の人生を幸せに生きてください。きっと父もそれを望んでいます」

 晴登の嘘偽りなき真情の言葉は、春を迎えた大地の上で溶けた、冬が置き忘れた雪の欠片のように、松吉の心に静かに沁みこんでいったように思えた。

 晴登の心には波紋一つ立っておらず、人里離れた湖のように気持ちは落ち着いていた。それに暗い憎しみで心が満たされることもなかった。重い十字架を背負い続けてきた松吉を、責めることなど自分にはできなかった。むしろその逆である。これからの人生を生きるために必要な一粒の希望の種を、晴登は彼の心に植えてあげたかったのだ。

 松吉の頬を静かに流れていた涙は、やがて掠れた嗚咽に変わる。三年の間抑えていた気持ちが、溢れるままに泣き続ける松吉を、晴登は身を屈めてそっと抱き締めた。救難隊は他者を救済するためだけに在るのではない、自分も救済するために在るのだと、この瞬間晴登は確信したのだった。
cont_access.php?citi_cont_id=112120920&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。