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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第3章 心は浮雲のように

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レスキューウイング

 晴登たち松島救難隊に救難出動の命令が下ったのは、松島基地に雷雨警戒警報が出された直後のことだった。悪天候で視界が利かず、宮城県警のヘリ・県の防災ヘリ・そして陸上自衛隊のヘリも離陸することができなかったからだ。

 本来ならヘリより高速のUH‐125A救難捜索機が、先に駆けつけて遭難者を捜し出しておくのだが、上空には強風が吹き荒れており、雲が海面に接するほどで視界は利かず、捜索機はやむなく急上昇して、現場海域から一時離脱せざるを得なかったという。

 救助の対象は地元の漁協組合に属する漁船「大栄丸」で、乗組員は船長の男性と彼の息子の二人。家族が止めるのも聞かず船長の男性は、低気圧が近づく石巻湾に船を走らせていったらしい。

 風速は秒速27メートル。豪雨と雷鳴が轟くサンダースコールが基地で暴れ回っている。UH‐60Jの運用規則では、風速25メートル以上だと回転翼が暴れて機体を損傷する恐れがあるため、エンジンを始動させられない。晴登たちはじっと耐え忍びながら風が落ち着くのを待った。

 午前10時45分。松島基地周辺の風速が20メートルの疾強風まで下がったので、このタイミングを逃すまいと、救難隊は一斉にエプロンに飛び出して、濃紺に塗装されたUH‐60J救難ヘリコプターに乗り込んだ。

 機長はパイロットの守矢3等空佐。副操縦士コパイロットはORの羽場1等空曹。紅一点の機上整備員の水沼2等空曹。そして晴登はメディックとしてサバイバーを救助する。水沼2曹がチェックリストを歯切れよく読み上げ、羽場1曹がそれを復唱しながら計器を一つずつ確認していく。イグニッションオン、エンジンスタート開始。T‐700‐IHI‐401Cターボシャフトエンジンの力強い振動がヘリを揺らす。直径16メートルの四枚のローターが、滝のように降る雨を細かく砕き、四方に弾き飛ばした。

 ジェットエンジンの轟音が大気を切り裂く。晴登たちが搭乗するUH‐60Jより先に離陸したのは、救難捜索機のU‐125Aだ。

 UH‐60J救難ヘリとU‐125Aは基本的にペアで出動する。速度で勝る捜索機が先行して現場海域に飛び、すぐに捜索活動を開始する。現場海域に到着したU‐125Aは、レーダーや赤外線装置、双眼鏡や肉眼による目視など、あらゆる手段を用いて遭難者を捜す。こうして遭難者を発見するとすぐに救難隊の飛行指揮所に報告すると共に、見失わないようその付近に発煙筒や着色剤でマーキングする。そして現場の状況を観察し、後続する救難ヘリに現場の状況を伝えるのだ。

「ガーディアン45、松島タワー。レディー・フォー・ディパーチャー」

『松島タワー、ガーディアン45。ウインド・スリー・ツー・ゼロ・アット・セブン。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』

「ガーディアン45、ラジャー。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ」

 離陸許可を得たので、羽場1曹が操縦桿を手前いっぱいに引き寄せた。四枚のローターが生み出す揚力が、濃紺色の機体をふわりと浮き上がらせる。ランウェイを離陸したUH‐60Jは、石巻湾に向けて飛び続けた。

 黒々とした雷雲が蠢き、稲光を放つ雷の柱が建つ暗黒の空は、まさに混沌の世界と化していた。縦横無尽に暴れ回る風が、低空飛行で飛ぶ機体を揺らす。海上は波頭がのめりながら唸り声を上げ、水煙が立っている。波の高さは10メートルになるだろう。どうやら落ち着いていた天候が、再び悪化してしまったようだ。必死に操縦桿を握る羽場1曹が呻くように言った。

「発達した低気圧が近づいているっていうのに、船を出すなんて自殺行為じゃないですか!」

「漁をしている最中に天気が悪くなったのかもしれないだろう。文句を言っている暇があったら操縦に集中しなさい」

 羽場1曹に守矢3佐が冷静に返した直後、先行していたU‐125Aから無線が入った。

『アスコット17よりガーディアン45、聞こえますか?』

「ガーディアン45、ボイスクリア」

『二名のサバイバーを発見。発煙筒は投下済みです。要救助者の現在位置は、牡鹿半島北東約40キロの地点です』

「ガーディアン45、ラジャー。ただちに急行します」

 晴登たちが現場海域に到着したのは、離陸から約2時間後の午後12時半過ぎだった。晴れていれば1時間の飛行距離のはずなのだが、最悪の視程と激しい乱気流の影響で、到着時間が大幅に遅れてしまったのだ。発煙筒の煙が上がる荒れ狂う海に浮かぶ、一隻の漁船が波に振り回されている。甲板に二人の男性が這いつくばっていた。自然の猛威を前にした人間は無力だ。甲板の二人は何度も波に揉みくちゃにされ、今にも海に引き摺り込まれそうだった。

 座席を離れた晴登は救出準備の態勢を整えた。キャビンの後方に移動した水沼2曹も、救助者を吊り上げるホイストケーブルの準備をしている。開放された搭乗口から入ってくる雨風と波飛沫が、真下の海を見据える晴登の顔を叩く。留め具にケーブルを固定した晴登は、水沼2曹にハンドサインを送りながら降下を続け、漁船の甲板に近づこうとした。瞬間猛烈な横風がホバリングをするUH‐60Jを殴りつけ、機体と晴登を左右に大きく揺さぶった。細いが頑丈なケーブルが晴登の身体に食い込む。痛みに耐えながら晴登はようやく甲板に降りることができた。

「松島救難隊の朝倉です! 怪我はありませんか!?」

 全身ずぶ濡れの男性は青ざめた顔で頷く。見たところ怪我はしていないようだ。

「まずは貴方を引き上げます! しっかり捕まっていてください!」

 男性がしっかり抱きついたのを確認した晴登は、上空の水沼2曹に引き上げ開始のハンドサインを送った。ホイストケーブルが慎重に巻き上げられ、男性を固く抱いた晴登は左右に回りながら上昇していく。ややあって機体が傾き重みが増える。晴登と男性は無事キャビンに戻ることができたのだ。

「石巻海上保安署の巡視艇しまかぜが、こちらに急行しているらしい。船長の救助は海保に任せて、我々は基地に戻るぞ」

 守矢3佐の言葉に晴登は眼下の大栄丸を見やった。荒れ狂う波が被さる甲板には、晴登が救助した男性の父親が取り残されている。彼は今どんな思いで晴登たちが乗るヘリを見上げているのだろうか。晴登はキャビンのほうを振り返った。毛布を被って震えている男性は、すがるような眼差しで晴登を真っ直ぐ見つめている。視線が重なったその瞬間、燃える太陽を丸ごと飲み込んだように、晴登の身体の奥のほうは熱くなった。

「海保がくるまで彼の体力は持ちません! 守矢隊長! もう一度僕を甲板に降ろしてください!」

 晴登の頼みに羽場1曹と水沼2曹は、当然ながら驚きの表情を浮かべて見せた。救難員は是が非でも助けにいこうとする。だが二次災害を起こしてしまっては元も子もない。救難ヘリの機長は、機内にいる副操縦士や機上整備員の意見に、航空機の能力と自らの経験に照らし合わせ、救難員を降ろすか否か決断する。救難活動での行動は、彼らの判断が最優先されるのだ。晴登は守矢3佐の言葉を待ち続けた。

「朝倉、救難員はお前が乗っていた戦闘機のパイロットとは違う。戦闘機と違って体当たりをするわけにはいかない、殉職するわけにはいかないんだよ。だからといって遭難者の気持ちになって突っ込んでいくのは愚か者だ。安全を考えて冷静さを保ち、でも遭難者を絶対に救助する、連れて帰らなければいけない。それが私たち救難最後の砦に与えられた任務、救難隊が信条とする『他を生かすために』なんだ」

 クルー全員と救助者の命を背負う守矢3佐の言葉は、晴登の心に重く響く。救急患者の受け入れを拒否する病院のように、救急車もろともたらい回しになることが分かっていても、手に余る事例は係わらなければ責任は問われない。挑戦して失敗し、非難されて責任をとらされるくらいだったら、最初から「できない」と言えば済むことだ。しかし晴登は怯まなかった。

「救難隊の任務は分かっています。でも、僕は目の前に救える命があるなら全力で救いたい。それに自分の未来のために、一人の未来を捨てるなんてできません。救えない命なんてない、命に優先順位なんてない、それが僕の信念なんです」

 守矢3佐を見つめた晴登は思いの丈をぶつけた。体内を流れる熱い思いが紅蓮の炎となって燃え上がっている。黒曜石にも似た晴登の瞳からは、烈々たる気迫の光が放射されていた。緊張と沈黙が渾然一体となり機内を満たす。誰よりも先に口を開いたのは羽場1曹だった。

「俺も朝倉と同じ思いです。救える命が目の前にあるのに何もしないなんて、それこそ救難の意思に反しますよ」

 羽場1曹に同意するように水沼2曹も頷く。守矢3佐はブロンズの彫像のように沈黙している。こちらを振り向いた守矢3佐は、強固たる決意の光をその双眸に漲らせていた。

「羽場、ここからは私が操縦する。朝倉と水沼は救出準備とホイストの準備だ」

「守矢隊長――」

「チャンスは一度きりだ! 全員気を引き締めてかかれ! アイ・ハブ・コントロール!」

 瞬間晴登たちの熱い思いは一つに重なった。この姿こそまさに「レスキュー・ファミリー」だ。救難のようなリスキーな職場は、人との繋がりがとても重要になる。普段から隊員の家族総出でバザーを開催したり、隊員が退官する時などは、結婚式並みの盛大なパーティーを開く。なぜそれらをやるかというと、家族や友人、上司に同僚、そして地域の人たちとの交流が円滑にいけばいくほど、不思議なことに救難の仕事はうまくいく。事故を起こさない、死者を出さないというのは、ヘリに乗る搭乗者だけの力ではないのだ。

「貴方のお父さんは絶対に助けます」

 キャビンで寒さに震える男性に誓った晴登は機外に飛び出した。ケーブルで降下しながら晴登は上空を仰ぐ。守矢3佐が操縦を引き受けたヘリは、上空15メートルの高さでぴたりと停止している。

 自動操縦装置に任せれば、勝手に空中停止してくれるのだが、それは平らな地面でのこと。照射する電波の反射速度で高度を測るから、荒れ狂う海面ではあてにならない。なので、海面では手動で細かく操るほかないのだ。ヘリの四枚のローターが生み出す、風圧と雨風を受けながら、晴登は再び大栄丸の甲板に着地した。船長は波に襲われながらも、前後左右に揺れる船の甲板の手摺りにしがみついている。

「松島救難隊の者です! すぐに引き上げますから、自分に捕まってください!」

 濡れた甲板を走り晴登は船長を助け起こした。だが船長の男性は晴登の手を振り払うと、船首付近に走り寄り、大時化の海の一点を指差して大声で叫び始めた。

「まだ帰るわけにはいかねえんだ! 俺はあの人を捜さなきゃいけねえ! あの人を見つけなきゃいけねえんだ!」

「貴方を絶対に助けると息子さんに約束したんです! 時間がありません! 早く捕まってください!」

 晴登の声に耳を打たれた船長は、我に返ったような表情で彼を見返してきた。船長を腕に抱いた晴登は、ケーブルがしっかり固定されているのを確認すると、水沼2曹にハンドシグナルを送る。水沼2曹が巻き上げ速度を調整しながら、晴登たちを引き上げている時も、ヘリは空中で停止したまま体勢を崩さない。守矢3佐の操縦技術の高さに舌を巻く思いだ。守矢3佐と水沼2曹の息の合った連携で、晴登と船長は無事キャビンに引き上げられた。

「ガーディアン45、松島オペラ。サバイバーを二名収容、これより帰投する」

 船長と息子の状態を確認したあと、守矢3佐は松島基地の飛行指揮所に救助完了を通報した。六人を乗せたヘリは向きを変えて、天界の水底が割れたような勢いで降る雨の中を飛んでいく。晴登が振り向いて見やった、後方のキャビンに座る船長は、波の壁がそそり立つ暗澹たる嵐の海を、ヘリが基地に着くまでずっと凝視していた。
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