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波乱の交流会
土曜日の午後6時。外出許可を取った揚羽は、瑠璃と一緒に基地から徒歩五分の官舎に着いていた。二人が提げているレジ袋の中には、基地売店で購入した飲み物とスナック類が入っている。単身者用の棟の三階に上がり、廊下を歩いて奥から二番目の部屋のインターフォンを揚羽は鳴らす。揚羽は颯が裸で出てきたらどうしようと不安を覚えたが、ドアを開けて二人を迎えたのは、颯ではなく先に来ていた蛍木黎児1等空尉だった。黎児に招かれた二人は玄関で靴を脱いで部屋に上がる。勝手知ったる様子の黎児に案内されて入ったリビングのキッチンでは、部屋の主である颯が仏頂面で鍋の準備を整えていた。室内を見てみたがどうやら朝倉1尉はまだ来ていないようだ。
「狭くて汚い部屋だけれど、遠慮しないで寛いでね」
「……おい。お前の部屋のほうが狭くて汚いぞ」
颯がキッチン越しに黎児をぎろりと睨む。黎児は狭くて汚いと言ったが、男性らしく紺色と黒色の家具で統一されたリビングは、埃一つ落ちていないし綺麗に整理整頓されている。布団や毛布の畳み方などは、入隊時にそれはもう厳しく指導されるので、それが今でも身に染みついているのだろう。颯一人に鍋の準備をしてもらうのは悪いと思ったので、揚羽が手伝いを申し出ようとしたその時だった。
「お手伝いします。えっと……」
「鷲海颯。石神さんだったっけ。じゃあ白菜と葱を切ってもらえるかな」
揚羽より早く行動したのは瑠璃だった。キッチンに入った瑠璃は颯の隣に立つと、慣れた包丁さばきで白菜を適当な大きさに切り始めた。それにしても絵になる二人だ。言わずもがな颯は美青年だが、母親の遺伝子を色濃く受け継いだ瑠璃も負けてはいない。陶器の滑らかさを連想させるような雪肌に、真っ直ぐに通った高い鼻梁。くるりと上を向いた長い睫毛に縁取られた、張りのある大きな瞳は湖のように綺麗に澄んでいて、透明感溢れる瑠璃の美貌をさらに引き立てている。颯と瑠璃は楽しそうに会話をしながら食材の下ごしらえをしていた。仲睦まじい様子を見せつけられた揚羽は、不安で落ち着かない気持ちが、あたかも夏空に入道雲がむくむくと湧き上がるかのように、己の心に広がっていくのを感じた。
鶏肉と野菜に白滝などの食材がテーブルに運ばれてきた時、外のインターフォンが鳴らされた。カセットコンロをテーブルに置いた颯が玄関に向かい、相手を確認してからチェーンを外してドアを開ける。ややあって颯と一緒に一人の青年がリビングに入ってきた。柔らかな髪質の黒髪のショートヘアは、目元と両耳の上に軽く被さっている。目鼻立ちがすっきりと整った、生真面目で意志の強さを感じさせる凜々しい青年だと言えよう。半袖のシャツから覗く腕も胸郭も引き締まっていた。きっと日頃から熱心に鍛えているに違いない。リビングに入った青年は一同を見回すと開口した。
「松島救難隊の救難員、朝倉晴登1等空尉です。どうぞよろしくお願いします」
自衛隊の航空機が行方不明になった際に、その搭乗員の捜索救助を行うことを主たる任務とするのが航空救難団だ。航空救難団の編成は救難団司令の下、司令部・飛行群・救難教育隊・整備群から成り、飛行群はその隷下に全国の主要航空基地に、10個救難隊を要している。各救難隊は所在基地名を冠して識別されており、松島基地所在の救難隊だから、「松島救難隊」と呼ばれているのだ。救難隊の隊員たちは空自の中で最も過酷な訓練を重ね、さらに陸上自衛隊第1空挺団でレンジャー訓練も受けるのだという。
「まったく晴登は相変わらず馬鹿真面目だな。堅苦しい挨拶はいいから、早く鍋を食べようぜ!」
黎児に促されて揚羽たちはテーブルを囲むように腰を落ち着けた。カセットコンロに乗せられた土鍋はぐつぐつと煮えていて、食欲をそそるような湯気と香りが漂っている。瑠璃がグラスに飲み物を注いで回り、鍋奉行となった颯が小鉢に具材を入れて揚羽たちに手渡す。颯から小鉢を受け取った揚羽は眉を顰めた。揚羽の小鉢には野菜がほとんど入っておらず、なぜか鶏肉がてんこ盛りになっているのだ。その盛られかたといったら、まるで世界遺産に登録されている富士山のようである。瑠璃たちの小鉢には、野菜と鶏肉がバランスよく盛られているのに、いったいこれはどういうことなのか。揚羽は颯に尋ねてみることにした。
「あの、鷲海1尉、私のだけお肉がいっぱい入っているんですけれど……」
「お前は胸がだいぶ発育不足だからな。肉をたくさん食べたら胸が大きくなるんじゃないかって思ったのさ。成長期なんてとっくの昔に終わってるから、あまり効果はないと思うぜ。気休めってやつだな」
「失礼にもほどがあります!!」
「あっ! この野郎! なにしやがるんだ!」
倍返しだと言わんばかりに揚羽は颯の小鉢に大量のポン酢をぶち込んだ。綺麗に澄んでいた小鉢は、たちまちコーヒーのような濃い茶色に染まる。唖然とする颯を前に、ざまあみろと揚羽はほくそ笑んだ。これでは食べようにも辛すぎて食べられないだろう。無論反撃された颯が黙っておとなしくしているはずはない。身を乗り出した颯は手を伸ばしてくると、揚羽の頬を両手で思い切り掴んできた。揚羽の頬を掴んだ颯の大きな手は、あたかも餅を伸ばすかのように、彼女の頬の肉をぐいぐいと左右に引っ張っている。
「ふぁにふるんふぇすふぁ! (なにするんですか!)」
「うるせぇ! さっきのお返しだ! だいたいお前はいつも生意気なんだよ!」
「それはこっちの台詞です!」
揚羽も素早く手を伸ばして颯の鼻を摘まみ上げる。すると颯は「ふごっ!」と豚が鳴くような声を出した。
「ずるいぞ颯! 俺も揚羽ちゃんのほっぺたをむにむに引っ張る!」
「ちょっ、蛍木1尉!? やだ! 変なところを触らないでください!」
揚羽と颯の掴み合いにほろ酔い状態の黎児が乱入して、晴登との交流会は大乱闘の場と化した。あたかも犬の縄張り争いのような喧嘩を目の当たりにした瑠璃と晴登は、最初はぽかんと呆気にとられていたが、すぐに席を立つと二人で協力して、組んずほぐれつ状態の揚羽と颯を同時に引き離した。晴登と瑠璃の仲裁で、二人の喧嘩は両者引き分けという形で、なんとか無事に収束したのだった。
それから鍋の中身はあっという間になくなり、鶏肉と野菜の旨味が染みこんだ出汁で作った雑炊も綺麗に完食した。基地売店で買ってきたチョコレートとスナック菓子をつまんで、ジュースやビールを飲みながら、揚羽たちは食後の穏やかな時間を過ごしていた。ふと揚羽は隣に座る瑠璃の様子がおかしいことに気づいた。先程から瑠璃はちらちらと晴登のほうを見ていて、彼と視線が合いそうになると、慌てて明後日の方向に目を逸らすのだ。
そう言えば、颯に案内されて晴登がリビングに入ってきた時、瑠璃は頬を赤く染めて忘我の表情を浮かべていた。――間違いない。瑠璃は晴登に一目惚れした。そして心の底で密かに愛慕を寄せている。キューピッドの金の矢にハートを貫かれたのだ。これは是が非でも恋の橋渡しをしなければ。頭に名案が浮かんだ揚羽は瑠璃のほうを向いて開口した。
「瑠璃さん。もう遅い時間ですし、朝倉1尉に基地まで送ってもらったらどうですか?」
「えっ!? いきなり何を――」
揚羽にいきなり提案された瑠璃は、落とし穴にはまったように驚いた。だがまんざらでもなさそうだ。あとは晴登が引き受けてくれるのを待つだけだったが。
「晴登はゆっくりしてろよ。俺が石神さんを送る――いてっ!」
余計なことを言うなというふうに、手を伸ばした揚羽は颯の太腿の肉を思い切りつねった。この鈍感大魔王め。少しは場の空気を読んだらどうなんだ。恋心も分からないくせに、キューピッドの巨大なハートを描いているなんて信じられない。日本全国の恋人たちに謝れと言いたい思いである。
「そうだな。若い女性が独りで夜道を歩くのは危ないし、石神さんさえよければ基地まで送っていくよ」
「私はいいけれど、揚羽ちゃんはどうするの?」
「私は――」
「俺があとで送っていく。いちおうこいつも女性だからな」
(――いちおうってどういう意味よ!)
瑠璃の恋心に気づいたのか気づいていないのか、颯は揚羽を基地まで送ると言ってきた。失礼すぎる言い方に当然揚羽は怒りを覚えたが、計画通り瑠璃と晴登を二人きりにすることができたので、引き攣った笑顔で「ありがとうございます」と颯に返した。瑠璃と晴登は連れ立って部屋を出ていき、揚羽と颯、そして床に大の字になって爆睡している黎児が部屋に残った。颯はテーブルの土鍋と食器をキッチンに運んでいる。揚羽も箸とグラスを持ってキッチンに向かい、水が流れるシンクの横に置いた。
「それにしても嬉しそうでしたね」
揚羽はやや棘のある声で、泡立たせたスポンジで食器を洗っている颯に話しかけた。
「何がだよ」
「何がって、キッチンで瑠璃さんと話していた時のことです。あんなにデレデレしちゃって、下心全開でしたよ。男の人ってみんな美人に弱いんですね」
「お前、もしかしてやきもちを焼いてるのか?」
「やっ、やきもち!? やきもちなんて焼くわけありません! 馬鹿なこと言わないでください!」
顔を真っ赤にした揚羽はリビングに戻り、小鉢を積み重ねてキッチンに運ぼうとした。しかし寝返りを打った黎児の顔を踏みそうになってバランスを崩してしまい、手に持っていた小鉢をうっかり落としてしまった。揚羽の手から落ちた小鉢はフローリングの床に激突して、盛大な音を立てて粉々に砕け散る。まさかの失態に青ざめた揚羽は、すぐにしゃがみ込んで破片を拾い集めようと手を伸ばした。だが素手で拾い集めようとしたため、揚羽は小鉢の破片で指を切ってしまい、思わず悲鳴を上げてしまった。切った指先から赤い血が滴り落ちる。小鉢を落として割ってしまったばかりか怪我までするとは。きっと今日は厄日に違いない。音と悲鳴を聞いた颯がキッチンから出てきた。
「ごめんなさい! 割った小鉢は買って返します!」
揚羽は颯に怒鳴られる瞬間を覚悟する。だが颯は何も言わなかった。颯は揚羽の手を掴んで立たせると、彼女を洗面所に連れていったのだ。颯は洗面台の蛇口を捻ると揚羽の手首を握り、血を滴らせる指先を丁寧に洗い始めた。揚羽は後ろに立った颯と二人羽織のような体勢になっている。なので筋肉が隆起した逞しい身体の温もりや息遣い、心臓の鼓動が意識しなくとも伝わってきた。揚羽の心臓は灼熱に熱した鉄球のように破裂しそうだ。それに鼓動も激しく波打ち身体が熱を帯びている。そうこうしているうちに傷口の洗浄が終わり、颯に手を引かれた揚羽はリビングに戻った。
「あの、鷲海1尉、本当にごめんなさい……」
「小鉢より自分の怪我の心配をしろ。見たところ深く切っていないから大丈夫だと思う。黎児を部屋に連れていったら、基地まで送るからちょっと待ってろ。絆創膏と傷薬を置いておくから、俺が戻るまでに傷の手当てをしておけよ。破片はあとで俺が片付けるから、絶対に触るんじゃないぞ」
「……はい」
てきぱきと指示を出した颯は、チェストの引き出しから出した絆創膏と傷薬をテーブルの上に置くと、爆睡する黎児を叩き起こして彼を肩に担ぎ、器用に玄関のドアを開けると外に出て行った。大海原の真ん中に放り出されたように揚羽は独り残される。「やきもちを焼いているのか」と颯に訊かれて動揺した理由が分からない。颯は揚羽をからかう目的で言ったのだと思う。だから軽く受け流すこともできたであろうに、なぜか心の重心が大きく揺れ動いてしまったのだ。そして今にも皮膚を突き破りそうな、この胸の高鳴りはいったいなんなのだろう――。心のどこか深いところに眠っていた感情が、波立ち騒ぐような微かなざわめきを、揚羽は確かに感じ取ったのだった。

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