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バードストライクの衝撃
積み重なって見える団塊状の雲が浮かぶ、からりと晴れた空はすっかり夏の様相だ。視界いっぱいに広がる空は、真っ青な波を幾重にも重ねた海のような色を湛えている。
F‐2Bの後席に遠藤教官を乗せて、松島基地を離陸した揚羽は、島や岩礁など地形上の目標物を頼りに飛ぶ地文航法の訓練を行っていた。しかし建物が建ち並び、山や川などの明確な地形上の目標物が多い地上とは違い、海上は目標物を捉えにくく、自機の現在位置を簡単に見失ってしまうのだ。
遠藤教官に操縦を奪われることもなく、揚羽はなんとか無事に訓練終了を告げられる。揚羽が操縦桿を倒して基地への帰投経路をとった時、ヘルメットイヤフォンに声が届いた。
『松島オペラ、アポロ15。聞こえますか?』
オペラは在空機に指示を出す飛行指揮所のコールサインで、「Flight Operation」を縮めたものである。揚羽が応答するとオペラは遠藤教官と代わってほしいと言ってきた。
『アポロ15、ボイスクリア。――なんだって? ああ、分かった。そっちのランウェイに着陸すればいいんだな?』
会話が終わった後席から緊張感が伝わってくる。不安を覚えた揚羽は前後席通話装置で遠藤教官に話しかけた。
『教官、基地で何かあったんですか?』
『……どうやら着陸しようとしたF‐2Bが事故を起こしたらしい。ランウェイ07は使えんそうだから、ランウェイ15に着陸するぞ』
遠藤教官に頷いた揚羽は、胸を掻き乱す不安がさらに大きくなるのを感じたが、冷静でいられるよう努めた。管制塔と交信した揚羽は基地上空を右旋回すると、オーバーヘッドアプローチでランウェイ15に着陸する。着陸したあとはタキシングで誘導路からエプロンに進入した。整備員にベルトとハーネスを外してもらった揚羽は、飛び降りるようにコクピットから出る。揚羽は遠藤教官の制止する声も聞かず、場内救難を要請するサイレンが鳴り響く構内を疾走した。
揚羽が向かったランウェイエンドにある緊急拘束装置には、翼とキャノピーが大破したF‐2Bが、右に傾斜した状態で、網に囚われた魚のように引っかかっていた。黒山の人だかりの近くに停まっているのは救急車両だ。ややあって救急隊員が担ぐストレッチャーに乗せられた、女性パイロットが運ばれてくる。目の前を運ばれていく彼女の顔を見た揚羽は愕然とした。
ストレッチャーに乗せられているのは石神瑠璃3等空尉。フライトコース・ブラボーの幹部候補生で、浜松基地第1航空団での戦闘機操縦課程を終えたあとは、F‐2戦闘機操縦課程に振り分けられて、揚羽と同じ第21飛行隊で共に訓練に励んでいる、未来の女性ファイターパイロットである。
瑠璃は揚羽より先に訓練を終えて基地に帰投しようとしていた。遠藤教官から事故を聞かされた時、揚羽の脳裡には真っ先に瑠璃の顔が思い浮かんでいた。事故を起こしてしまったのは、やはり彼女だったのか――。空で覚えた揚羽の不安は現実になってしまったのだ。
「瑠璃さん!」
ストレッチャーに駆け寄った揚羽が呼ばわると、瑠璃はうっすらとだが薄茶色の双眸を開けた。瑠璃の綺麗な顔は血の気を失って青褪めており、彼女のものと思われる血がこびりついている。揚羽は瑠璃が声を発するのを待っていたが、彼女は再び双眸を閉ざしてしまった。
瑠璃を乗せたストレッチャーが救急車両に運び込まれる。怪我人を乗せた救急車両は扉を閉めると、サイレンを鳴らして赤色灯を光らせながら、市内の自衛隊病院を目的地に走り去った。瑠璃の衝撃的な姿を目の当たりにした揚羽は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「燕!」
名前を呼ばわれた揚羽は身体を捻って振り向いた。息を切らした青年が少し離れた所に立っている。ブルーインパルスの部隊ワッペンと、ドルフィンライダーのショルダーワッペンが付いたパイロットスーツの上に、救命胴衣を身に着けて耐Gスーツを巻いた青年は、リードソロを担当する鷲海颯1等空尉だ。
揚羽の正面に早足で歩いてきた颯は、化石のように端正な顔を強張らせている。瞬間揚羽の視界はいきなり遮られた。背中と腰に回されているのは引き締まった颯の長い腕。右肩に温かい重みを感じるのは、覆い被さるように屈んだ颯が、揚羽の肩に顔を埋めているからだ。
(嘘、私、鷲海1尉に抱き締められてる――?)
揚羽の頭の中は真っ白になっていた。お互いの身体は隙間がないくらい密着していて、起伏に乏しい揚羽の胸は、鍛え抜かれた颯の逞しい胸に押し潰されている。颯の乱れた心音が密着している揚羽の胸を叩く。自分が颯に抱き締められるなんてあり得ない。
顔を合わせるとまず颯が何かしらの憎まれ口を叩き、それに揚羽が反駁するような関係だ。決してこのように強く抱き締めてもらうような、甘ったるい関係ではない。それなのに揚羽は颯の腕の中にいる。とても信じ難い出来事、まさに青天の霹靂だ。埋めていた肩から顔を上げた颯が、真っ直ぐに揚羽を見つめてきた。
「21飛行隊の奴が事故を起こして、クラッシュバリアに突っ込んだって聞いたから、俺はお前が事故を起こしたんじゃないかと――」
颯の声は途中で途切れた。長い睫毛に埋もれてしまいそうな颯の切れ長の双眸は、透明な朝露の珠を乗せた葉っぱのように濡れていて、溜まっていく涙の重みを支えきれずに震えていた。涙を湛えた切ない眼差しに真っ直ぐ見つめられて、揚羽の胸はぎゅっと締めつけられる。そして揚羽は颯をこんなふうにしている感情の正体に気づいた。それは恐怖である。颯の心の中には恐怖が雨雲のように広がっているのだ。
「あの、鷲海1尉、私は大丈夫ですから……」
周囲の視線が二人に一極集中している。顔から火が出る思いで揚羽が言うと、抱いていた彼女を離した颯は、天を仰ぐと両目を固く瞑り、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いてから、閉じていた双眸を開けた。颯は恐怖を心の奥深くに押し込めて蓋をした。揚羽にはそう思えた。
「本当に大丈夫なのか? 怪我とかはしていないのか?」
「はい。事故を起こしたのは、私と同じ21飛行隊の――」
「おい、イルカ野郎。事故現場でいちゃつくとは、いい度胸をしてるじゃねぇか」
凄みを効かせた声が揚羽の言葉を途中で断ち切った。炯炯たる眼光を放つ遠藤教官が、腕組みの構えで仁王像の如く二人の後ろに立っていた。並々ならぬ怒気が全身から迸っているのが分かる。遠藤教官に「イルカ野郎」と呼ばれた颯は、当然ながら不快そうに眉間に眉を寄せたが、遠藤教官は気にせず言葉の続きを言った。
「事故の原因が分かったぞ。バードストライクだ」
バードストライクは鳥が衝突したことで起きる事故のことだ。こびりついた死骸と血痕で視界が遮られたり、窓や機械部品が破損することが二次被害の原因となり、さらには激突したことが原因で操作を誤る恐れもある。高速で飛ぶ航空機の場合は特に深刻で、キャノピーを損傷したりエンジンの吸気口に衝突すると、墜落にいたる場合もあるという。鳥は航空機から見て低空を選んで飛ぶことが多く、従ってもっとも危険な離着陸の際に、バードストライクが生じることが多い。また空港・飛行場は、河川や海の近くに建設されることが多いので、発生件数自体も非常に多いのだ。
「その場にいた奴が、後ろに乗っていた柴教官から聞いた話によると、バードストライクでキャノピーを損傷した際、石神はパニックになって操縦を誤って、速度を落とせないまま緊急拘束装置に突っ込んでしまったらしい。真っ先に駆けつけて二人を助け出したのは、救難隊の朝倉晴登1等空尉だそうだ」
遠藤教官が出した朝倉という名前に颯は敏感に反応した。
「朝倉が? あいつが石神3尉と柴教官を助けたんですか」
「お前、奴と知り合いなのか」
「防府の航学の同期なんです。それで晴登はどこに?」
「二人を助けた時に割れたキャノピーで怪我をしたから、車で市内の病院に向かったそうだ」
続けて質問をしようとした颯を遠藤教官は遮った。
「とにかく石神と柴に朝倉1尉も無事だから安心しろ。隊舎に戻ってデブリを始めるぞ、スワローガール。お前にはイルカ野郎とよろしくやっている暇なんてないんだからな」
これ以上事故の話をしたくない様子の遠藤教官は、強引に会話を終わらせると、揚羽に厳しい目を向けてから歩いていった。事故現場に集まっていた隊員たちも、安堵の表情を浮かべながら続々とランウェイを立ち去り始めている。いつの間にか場内救難のサイレンも鳴り止んでいた。
「……俺たちも隊舎に戻るぞ」
「そっ、そうですね。私たちも早く戻らないと。鷲海1尉、また蓮華2佐と鬼熊3佐に怒られちゃいますよ」
いつもの颯に戻ってほしくてわざと軽口を叩いた揚羽だったが、彼は無言で揚羽を一瞥すると一人で先に歩いていってしまった。揚羽も颯の後を追いかけるが、彼は一度も振り返ることなく、どんどん先に進んでいく。抱き締められた時の颯の温もりと、涙の珠に濡れる切ない眼差しを思い出しただけで、平らな水面に石を投げ入れられたように、揚羽の心は波立ち騒いで落ち着かなくなるのだった。

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