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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第3章 心は浮雲のように

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松島基地のトムキャット

 桜の花の咲く頃は天気が短い周期で変化して、爽やかな快晴だと思っていても、すぐに薄い雲が流れてきて太陽が光の輪の暈を被ったりする。このような曇り空を花曇りというのだ。午後の訓練を終えた燕揚羽1等空曹は、どんよりと広がる花曇りを見やりながら、松島基地外周を走っていた。

 音速で空を翔けるファイターパイロットを目指しているのだから、身体を鍛えておくのは当然だ。体力は入隊してから自然と身についたがそれでもまだ足りない。女性がファイターパイロットを目指せる道が開放されたが、しかしクリアすべき基準は男性と変わらないので、相対的に男性より体力の劣る、女性に課されたハードルは高い。例え男性の頑健さに及ばなくとも、身体は常に鍛えておくつもりだった。

 軽快に走り続けていると、揚羽と同じように基地外周を走っている男性隊員が前方にいた。半袖のシャツと灰色のピクセル迷彩のズボン、フライトブーツを履く長い両足は交互に地面を蹴っている。走る速度を上げて揚羽は彼に近づいた。

 前髪を長めに残したコバルトブラックのショートヘアに、猫の目のような奥二重の切れ長の目。やっぱりそうだ。誰もが羨む端正な面立ちの美青年は、第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット、TACネームはゲイルの鷲海颯1等空尉である。

 颯を見つけた揚羽は少しだけ嬉しくなった。例えるならば四つ葉のクローバーを見つけた感じだろうか。追いついた揚羽が横に並んで挨拶すると、鷲海颯1等空尉は視線を横に動かした。

「誰かと思ったらドルフィンテール……じゃなくて燕か。午後の訓練はどうしたんだ? まさかサボったんじゃないだろうな」

「サボってなんかいません! ちゃんと終わらせました!」

 燕と呼ばれて嬉しかった揚羽の喜びは一瞬で吹き飛んだ。開口一番からかわれて怒る揚羽を横目に颯は走る速度を上げる。置いていかれまいと揚羽も速度を上げて颯についていく。その気になれば余裕で引き離せるはずなのに、颯は少し先で揚羽が追いつくのを待ってくれていた。

「そういえば5番機が見当たらなかったんですけれど、鷲海1尉は今日は飛ばないんですか?」

「IRANに出されているからな。しばらくは地上勤務だ」

「アイロン? 洋服の皺伸ばしに使うあれですか?」

「馬鹿、ア・イ・ラ・ンだ。なんで5番機をアイロンに掛けるんだよ。お前、やっぱり座学をサボってるんじゃねぇのか?」

「座学も訓練も欠かさず出ていますよ! ちょっと聞き間違えただけじゃないですか!」

 IRANは「Inspection&Repair As Necessary」の略称で定期整備のことをいう。激しい機動で過荷重を掛けたりしなければ、だいたい3年を飛んだらメーカーの整備工場に送り、機体をオーバーホールするような重整備を行う。要約していうと飛行機の車検で、ついでに能力向上の改修を行うこともある。

 当たり前だがパイロットの仕事はフライトだけではない。フライトの他にもパイロットそれぞれに専門の仕事が与えられており、訓練計画を立案する者、任務遂行時に必要な情報収集を担当する者、部隊に関する外部からの広報業務全般を担当する者などがいる。飛行訓練の合間にそうした事務作業もこなさければいけないので、体力に自信がなければパイロットは務まらない。ちなみに揚羽は座学よりも飛行訓練のほうが好きなので、言わずもがな座学の成績はローアングル・キューバン・テイクオフ顔負けの超低空飛行である。

 それにしてもただ単純にランニングをしているだけなのに、颯が走っている姿はとても絵になっている。その姿といったら、清涼飲料水のコマーシャルで、青春まっしぐらと言わんばかりに、夏の海辺を疾走しているイケメン俳優のようだ。黒髪が跳ねる横顔は羨んでしまうくらい綺麗だし、頬から首筋に伝って落ちていく汗さえも爽やかに見えてしまう。引き締まった上半身に張りついたシャツは、じんわりと汗ばんでいて、なんというか大人の男性の色気が全開になっているような気がする。

(鷲海1尉って彼女はいるのかな……。ううん、こんなにイケメンなんだから、絶対いるに決まってるわ。いるのだとしたらキスはしたことがあるのかしら。もしかすると、エッ、エッチも経験済みとか!?)

 頭の中で許可なく颯のプライベートを推理していると、やや前方を走っていた颯がゆっくりと立ち止まった。どうやら基地外周を一周し終えたらしい。あれこれ考えていたからちっとも気づかなかった。肩で息を切らしながら颯が唐突にシャツを捲り上げた。揚羽の目の前で、筋肉で硬く引き締まった背中と、盛り上がった肩甲骨が露わになる。揚羽は喉まで迸りかけた悲鳴をかろうじて飲み込んだ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! どうしていきなり服を脱ぐんですか!?」

「どうしてって……汗を掻いて気持ち悪いからに決まってるだろ。浴場に行ってから服を脱ぐ手間もはぶけるしな」

 言うなり颯はさらにシャツを捲り上げた。今度は服を着ていたら分からない厚い胸板が露わになった。絶妙な形に隆起した胸郭は掻いた汗で濡れていて、胸の上の丸い突起がつんと硬く尖っている。色気溢れる艶めかしい姿態を目の当たりにした揚羽は、思わず生唾を飲んでしまった。

「服を脱ぐなら浴場に行ってからにしてください! 女の子の前でいきなり服を脱ぐなんて変質者じゃないですか! セクハラされたって蓮華2佐に言いつけますよ!」

 半ばパニック状態になった揚羽が悲鳴に近い声で言うと、唇をへの字に曲げた颯は捲り上げていたシャツを下ろしてくれた。官舎を訪ねた時もそうだったが、理性へのダメージが半端ない。汗を掻いて気持ち悪いからシャツを脱いだんだ! だなんて幼稚園児の思考回路ではないか。これ以上一緒にいるとこちらの神経が持たない。ぷりぷり怒りながら第21飛行隊隊舎に戻ろうとしたところ、揚羽は颯に呼び止められた。

「お前、暇なのか?」

「えっ? ええ、一応やることは片付けたので……暇と言えば暇ですけれど」

 颯は何か考えている素振りを見せたあと口を開いた。

「暇ならちょっと俺に付き合え」

「えっ? 付き合えって、まさか――」

「勘違いするなよ。デートの誘いじゃないからな」

 揚羽の期待はばっさりと切り捨てられた。祝福の胴上げをされたが受け留められず、地面に落とされたような気分だ。揚羽の返答を待たずに颯は歩いていく。まったくいいようにこちらの感情を弄んでくれる。嘆息した揚羽は颯の後を追いかけた。

 付き合えと言われたが颯はどこに行くのだろう。分からないままついて行くと颯は揚羽を待たせて基地売店に入っていった。ややあって売店のレジ袋を提げた颯が出てくる。レジ袋に手を突っ込んだ颯が、取り出した物を揚羽に向かって投げ渡した。揚羽は両手を広げて慌てて受け留める。颯が投げてよこしたのはアップルジュースのミニボトルだった。

「あの、鷲海1尉、これは――」

「走ったから喉が渇いてるだろ。適当に買ったけれどそれでいいか?」

「はっ、はい、ありがとうございます。あとでお金を払いますね」

「いらねぇよ。俺はお前に恵んでもらうほど金に困ってないからな」

 だからその一言が余計だと思うのだが。それにこちらとて数百円を出し惜しみするほど貧乏ではない。まったくどれだけ不器用なんだか。内心呆れつつも颯と一緒に歩き続けた揚羽は、滑走路東側のフェンスの前に到着した。フェンスの向こう側には見学用の展望台が設置されており、ブルーインパルスの格納庫が一望できる。さらに少し歩けば滑走路の正面まで行くことができ、東側からの着陸ではパイロットのヘルメットが確認できるほど距離は近い。フェンス近くで足を止めた颯は、辺りを見回すと大きく口を開いた。

「おーい! トムキャット!」

 颯が呼ばわってからしばらくして「ミャア」と可愛らしい鳴き声が聞こえた。フェンスに開いた穴をくぐって一匹の黒猫が入ってくる。颯が口笛を吹くと黒猫は尻尾を振りながらこちらにやってきた。颯は長身を折って屈みこむと、地面に置いたレジ袋から鮭フレークの缶詰めを取り出して、慣れた手つきで蓋を開けた缶詰めを黒猫の前に置く。黒猫は嬉しそうに一声鳴くと、さっそく鮭フレークを食べ始めた。

「この猫ちゃんは?」

「何日も前から基地をうろついていて、危ないなと思って外に連れ出しても、次の日には戻ってくるんだ。しかたがないから餌をやっているうちに懐かれちまったんだよ。首輪を着けてるし毛並みも良いみたいだから、近くに住む誰かの飼い猫なんだろうな」

「じゃあトムキャットっていうのは――」

「俺が勝手につけた名前。黒猫とか猫とかだとこいつも嫌かと思ってさ。人間だってそうだろ? おい! だなんて呼ばれたら誰だって腹が立つぞ。美味いか? トムキャット。残さず全部食べろよ」

 鮭フレークを残さず綺麗に完食したトムキャットを抱き上げた颯は、いきなり鎖骨から首筋を舐められて笑い声を上げた。いつもの颯からは想像もつかない明るい顔と笑い声だ。これが世間で言う「ギャップ萌え!」なのだろうか。颯が普段見せない明るい表情を見た瞬間、なぜだか心臓の鼓動が暴れ出したように感じたが、それは気のせいだと揚羽は自分に言い聞かせたのだった。
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