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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第2章 風巻が吹く

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貴方に憧れています

 MAMORの取材が終わってから数日後、プリンターで出力された確認用の写真が収められたレターパックが、広報班を経由して第11飛行隊隊舎に届けられた。今日最後の訓練と事務作業を終わらせた颯は、歓談している隊員に見つからないように事務所から廊下に出ると、レターパックを開封して、写真が入っているクリアファイルを取り出した。

 なんだかとても情けない。まるで台所で食べ物を盗んでいる鼠のような気分である。写真に撮られた自分はそれはもう満面の笑顔を浮かべていた。笑窪を刻んで白い歯を覗かせている太陽の笑顔。意外だった。もうこんな笑顔は二度とできないと思っていたのに――。

「なかなかいい写真だな。いつもより五割増しで撮ってもらったんじゃないか?」

 不意に涼やかな声が聞こえたので、颯はやや驚きながら後ろを振り向いた。飛行隊長の蓮華悠一2等空佐が、鋭角的なラインの顎に片手を当てて、颯の肩越しに写真を眺めている。もう一度写真を眺めた蓮華2佐は満足そうに頷いた。

「それにしても良い顔をしているな。これもすべてドルフィンテール――燕1曹のお陰だ」

「どうしてドルフィンテールのお陰なんですか?」

「お前をT‐4に乗せたら笑うんじゃないかと言ったのは燕1曹だからな。まさに彼女が言ったとおりだ。今度彼女に会ったら、礼を言っておくんだぞ」

 「お疲れ」と言うと蓮華2佐は颯の肩を叩き、学校のような隊舎の廊下を歩いていった。空を飛ぶのが大好きなことを、あろうことかヒヨコパイロットの揚羽に見抜かれてしまうとは。つまり自分は猿回しの猿よろしく、彼女の手の上で思い通りに踊らされていたというわけか。恥ずかしさと悔しさの混じった感情が颯の心を掻き乱した。

 飛行隊隊舎を出た颯は三舟1曹に挨拶をしてから正門を出て官舎に向かった。5分ほど歩いて官舎に着く。官舎の三階にある自室の鍵を開けて中に入る。官舎の部屋は1LDKなのであまり広くない。ベッドに座ってリュックサックと服のポケットの中身を取り出していると、腕に巻いているのとは別に持っている、時計が無くなっていることに颯は気づいた。どうやら基地敷地内のどこかで、うっかり落としてしまったらしい。探しに戻るべきか迷ったが、あの時計を持ち続ける理由なんてないので、颯はそのまま放っておくことにした。

 リビングを離れた颯は洗面所に向かい、服と下着を脱ぎ捨てて浴室に入った。シャワーが出す熱いお湯の雨で、溜まった疲れを洗い流していると、玄関からインターフォンの音が聞こえたような気がした。

 シャワーを止めた颯は耳を澄ます。やや間をおいたあと二回、三回とインターフォンが鳴る。来訪者は黎児に違いない。女の子にふられた愚痴を颯に聞いてほしくて足を運んだのだろう。であればわざわざ服を着て出る必要はないか。身体と髪を軽く拭き、ボーダー模様のバスタオルを腰に巻いて玄関に向かう。サンダルを履いた颯はチェーンと鍵を外してドアを開けた。だがドアの向こうに立っていたのは黎児ではなかった。

 ふんわりとしたシルエットの、ハニーベージュのショートヘアに卵型の顔。颯を真っ直ぐに見つめる、硝子玉のように澄んだ双眸は、眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれている。颯を訪ねてきたのは、なんとドルフィンテールの燕揚羽だったのだ。

 目を見開いて硬直する、うら若き乙女の目の前にいるのは、バスタオル一枚で下半身を隠しただけの、ほとんど裸に近い姿の精力溢れる若い青年。まさに通報されてもおかしくない絵面である。颯はずり落ちかけたタオルの結び目を押さえると、咄嗟にもう片方の手を伸ばして揚羽の口を塞いだ。

「――ふぐぐっ!?」

「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」

 涙目の揚羽が頷いたのを確認した颯は、警戒しながら手を離す。厄介な悲鳴が上げられることはなかったので、揚羽を廊下に残した颯は、部屋に駆け込むとドアを閉め、タオルで水滴を拭き取った身体に衣服を身に着けると、再びドアを開けて廊下に飛び出した。揚羽は逃亡せずにおとなしく待っていた。よほど受けた衝撃が大きかったのだろう、ちゃんと服を着た颯を目の前にしても、揚羽の顔はまだ赤く染まっていた。

「……それで俺になんの用だよ」

「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」

 来訪の目的を言った揚羽はポケットから時計を取り出した。文字盤を保護する硝子に亀裂の入った、ブルーインパルス仕様のパイロットウオッチ。受け取って裏面を見てみると、確かに【HAYATE WASHIMI】の文字が刻印されてあった。複雑な感情の波が颯の心を掻き乱す。これは重い過去の十字架を背負い続けろという神様のお告げなのか――。眉間に皺を寄せて時計を凝視する颯に不安を覚えたのか、揚羽は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。

「もしかして……捨てるつもりだったとか?」

「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」

 颯の口から出た「ありがとう」の言葉に、揚羽は目を丸くして驚いていた。失礼な反応だ。愛想がよくないのは自分でも自覚しているが、これでも礼節や礼儀などの類いは持ち合わせている。

 そのあと颯は学生隊舎で生活する揚羽を、松島基地まで送っていくと申し出たのだが、どうしても素直になれず、とても失礼な言い方をしてしまう。当然ながら揚羽は怒りを爆発させた。あとを追いかけようとした颯の目の前で蹴躓いた揚羽は、階段から落ちそうになった。瞬間颯の身体は鋭敏に反応する。素早く踏み出した颯は、落ちる揚羽の腕を掴むとシーソーのように一気に引き戻して、彼女を抱いたまま一緒に後ろに倒れこんだ。したたかに打った背中の痛みに、颯は思わず呻いてしまった。

「――大丈夫か?」

「あっ……ありがとうございます」

 揚羽がこちらを振り返った。なるほど黎児が言っていたとおり、なかなか可憐な容姿をしている。長い睫毛に飾られたぱっちりとした大振りの瞳。触れてみたくなるほど柔らかそうな、桜の花びらのような小さめの唇。腕に抱き締める身体は細くて柔らかく、少し力を込めただけでぽきりと折れてしまいそうだ。鼻先をくすぐるハニーベージュの髪は甘い香りがした。なんだか身体がむずむずしてきたので、颯は息を吐いて気持ちを落ち着かせた。

「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」

「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」 

 ――まったくそんなに嫌がらなくてもいいだろうに。「悪い」と謝った颯は揚羽を放した。官舎をあとにした二人は、夕映えが美しい長閑な風景の道を、無言で歩き続ける。揚羽が遅れないように、歩幅と速度を調整して歩いていくと、松島基地の正門が見えてきた。

 正門から出てくる隊員たちの自家用車がすぐ横を走り抜けていく。帰りを待っている家族がいるのだと思うと、颯の心は再び感情の波で掻き乱された。だがどんなに羨んでも過去は変えられない。気を取り直した颯は揚羽のほうを振り向いた。

「ここまででいいよな」

「はい。ありがとうございます」

 颯は官舎に戻ろうと踵を返したのだが、直後に揚羽が呼び止めたので振り向いた。

「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、ブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは、5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」

 一気にまくしたてると揚羽は基地の正門に駆け込んでいった。颯は戸惑いながら華奢な揚羽の背中を見つめていた。揚羽が基地の中に入っていったのを確認した颯は、踵を返して二人で来た道を今度は一人で引き返す。「私は貴方に憧れています」だなんて恥ずかしい台詞を、真剣な表情でなんの裏もなく言ってくるとは驚いた。正確に言うと揚羽が憧れているのはブルーインパルスらしいのだが、それでも最初の一言に驚いたのは事実である。

 颯が思う揚羽は生意気なヒヨコパイロットだ。でも数日前の写真撮影と今日のことで、揚羽の印象が少しだけ変わったような気がする。薄明が忍び寄るなか颯は空を見上げた。夕日を射抜くような飛行機雲が、夕焼け空に真っ直ぐ伸びていた。
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