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空を夢見て
「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「そこをなんとかお願いしますよ。なるべくイケメンの自然な表情をという特集記事なので……」
「迷惑な特集記事ですね」
「はぁ……」
颯が冷たい声音でばっさり切るように返すと、市ヶ谷の航空幕僚監部から来た広報官の雪村衛士2等空尉は、人類滅亡の瞬間がきたかのような、絶望の表情で嘆息した。さっきから我慢して撮影に付き合っているが、いい加減我慢の限界だった。おまけに普段から生命の危険と隣り合わせの生活を義務付けられている職種の人間に、「好きな食べ物は?」とか「休暇の過ごしかたは?」とか「好きなタイプの女性は?」なんて軽薄な質問をされたのだから、不快に思わないほうがおかしいだろう。
万一の時は自らの命を捧げてでも国民を守る義務がある。それは殉職する可能性もあるということだ。そんな覚悟を背負っているのだから、笑顔なんて簡単にできるわけがない。そもそも自衛隊員はアイドルではないのだ。仏頂面で雑誌記者と話していると、蓮華2佐が雪村2尉を連れてこちらにやって来た。真面目に仕事をしろとお叱りを受けると思っていたのだが、予想外の言葉が颯の耳朶を打った。
「鷲海、T‐4に乗れ」
「はい?」
「T‐4のコクピットに座っているところを撮影してもらう。お前は自分が空を飛んでいるところをイメージするんだ。記者やカメラマンのことは忘れてしまっても構わないから、お前はとにかくイメージすることだけに集中しろ。いいな?」
聡明な蓮華2佐のことだから何か考えがあるのだろう。突然の指示に戸惑いを覚えつつも颯は頷き、機体左側に掛けられてある梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。
(空を飛んでいる自分の姿をイメージしろ、か――)
コクピットに座り直した颯はゆっくりと瞑目する。自分が空に憧れるようになったのは、父親が空自のファイターパイロットだったということもあるが、憧れが増したのはブルーインパルスの展示飛行を、初めて観た時だった。なかでも颯はリードソロの5番機パイロットに強く憧れた。もっとも颯を魅了した5番機パイロットは、既にブルーインパルスを去っていたのだが。過去の展示飛行を収録したDVDをネット購入して、颯はブルーインパルスのエースと謳われた、彼の存在を知ったのである。
颯が憧れのパイロットと出会ったのは、今から18年前のことだ。出会った場所は石川県の航空自衛隊小松基地。父親と一緒に訪れた小松基地航空祭で、出会いの瞬間は颯を待っていた。あとから聞かされた話では、父親が彼と会えるように裏で根回しをしてくれていたらしい。
たくさんの人たちで溢れかえる、小松基地の立ち入り禁止区画の向こう、犬鷲を部隊のシンボルマークとする第306飛行隊隊舎の前で、彼は奥さんと一緒に颯が来るのを待っていた。強く憧れるパイロットを目の前にした瞬間、颯の胸の鼓動は高く跳ね上がった。何を話して何を尋ねたのかはよく覚えていない。ただ人生でいちばん幸せだったことだけは覚えている。
「お前はブルーインパルスが好きか?」
長身を折り曲げて颯と目線を合わせた彼は、両目に掛けていたサングラスを外すと、涼やかな低音の声で訊いてきた。サングラスの奥から現れたのは、同性である颯も思わず見惚れてしまいそうな端正な顔と、青みを帯びた灰色の切れ長の双眸だ。その切れ長の双眸は真っ直ぐな眼差しで颯を見つめている。答えは決まっているのに緊張のせいで声が出てこない。彼の斜め後ろでは、奥さんが「頑張れ!」とジェスチャーしていた。
「――うん! 僕はブルーインパルスが大好きだ!」
緊張を断ち切った颯は明瞭とした声で答える。すると彼は快晴の日のような明るくて爽やかな笑顔を浮かべると、颯の黒髪を大きな手で優しく掻き混ぜた。
「オレが飛んだあの青空を目指して、真っ直ぐに翔け上がれよ」
青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。彼の言葉は颯の心に熱く強く響き渡った。空を見上げて彼らの名前を呼びながら、大人になった颯はブルーインパルスの5番機パイロットとして憧れた空を飛んでいるのだ。
周囲の視線と騒音を忘れられるように精神を研ぎ澄ます。高いエンジン音、風にたなびくスモーク、そして燃料の匂いが鮮明に再現された。四機のT‐4がスモークを曳きながら、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで蒼空を飛んでいく。颯は股の間の操縦桿を握り締めた。回転数を上げていく双発のエンジン音に呼応するように、颯の鼓動は空を飛べる喜びで高鳴っていった。
憧れのリードソロが飛んでいた青空を真っ直ぐに目指して、颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を発進させる。ブルーインパルス05、クリアード・フォー・テイクオフ。颯の呟きはそれが魔法の呪文だったかのように、ランウェイを疾走する5番機をふわりと浮き上がらせた。そして青く透きとおった空が、目の前いっぱいに広がった瞬間、自分でも驚くことに、颯は満面の笑顔になっていた。
「鷲海1尉! こっちを向いてください!」
やや驚きを滲ませた雪村2尉の呼びかけに応じて、颯は顔の角度を変える。すると視線の先に第21飛行隊の生意気なヒヨコパイロット――ドルフィンテールの燕揚羽が、ぽかんとした顔をして立っていた。不思議なことに颯はもっと笑顔になっていた。理由は分からない。ただ揚羽を見ていると、なぜか自然と笑顔になってしまうのだ。春一番の南風がエプロンを駆け抜けていく。久しぶりに笑えた清々しさを心に感じながら、颯は撮影が終わるまでずっと笑っていた。

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