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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第2章 風巻が吹く

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生意気なヒヨコパイロット

 明るく穏やかに晴れ渡った春の日は、光が満ちて風が光っているように感じられる。風を心地良いと感じるのは、厳しい冬を乗り切ったあとの心のゆとりかもしれない。

 鷲海颯1等空尉は第11飛行隊隊舎に向かいながら空を見上げた。太陽の光はもともと無色透明だが、プリズムで色を分けると波長の短い方から順番に虹のような七色になる。日光が空気の中を進む時、空気中の細かい塵などの浮遊物に衝突すると、波長の短い光線は散乱してしまう。その散乱された青系のプリズムの色が人々の目に届き、空が青く染まって見えるのだ。もしも空が青く染まっていなかったら、自分は空に自由を感じていなかっただろう。

 ふと颯は足を止めた。ブルーインパルス専用の格納庫前のエプロンには、六機のT‐4中等練習機が駐機されている。自分が乗る5番機の前に小柄な人間が立っているのだ。その人間は横断歩道を渡ろうとする子供のように、きょろきょろと左右を確認している。見たところどうやら男子中学生のようだ。遠く後ろから颯が見ていることを知らない少年は、恐る恐るといった様子で、5番機の翼に手を伸ばした。

「おい! ドルフィンに触るな!」

 颯が怒鳴ると驚いた少年はこちらを振り返った。エプロンを突き進んだ颯は、伸ばした手で少年の腕を掴み彼を5番機から引き離す。男性にしては小柄だし身体つきも華奢だ。可愛らしい顔立ちは、どちらかと言えば女性に近いが、男性にも中性的な顔立ちをしている者がいるので、男性なのか女性なのかは分からない。しかし今はそんなことどうでもいい。細い腕を掴んだまま颯は少年を見据えた。

「いいか、ドルフィンは整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだって、できるだけ機体を汚さないように気をつけてる。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」

「あの……ツアーって?」

 きょとんとした表情で少年が言った。とぼけているのかと思ったが、そういうふうには見えない。

「お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」

 小柄で童顔、身体つきは華奢だ。だから男子中学生と間違えてもおかしくはあるまいと、颯は思ったのだが、どうやら今の発言が気に障ったらしく、中学生に見える若者は、穏やかに見えるが怒りを抑えた表情で、自分はまだ学生だがれっきとした空自パイロットだと、言い返してきた。学生ということは、コールサインは「アポロ」の第21飛行隊のパイロット――戦闘機の扱い方をまだ知らないヒヨコパイロットということになる。

「学生ということは、第21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」

「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」

「なんだと!?」

「なんだとはなんですか!」

 ヒヨコパイロットのくせに生意気な! 颯は若者の胸倉を掴み上げようと手を伸ばす。だが勢い余って手が滑ってしまい、颯は彼の胸をがっしりと鷲掴みにしてしまった。

 瞬間颯は違和感を覚える。なんと鷲掴みにした胸が柔らかいのだ。

 肥満体でもないかぎり、男性の胸板が柔らかいなんてあり得ない。颯は試しに手を動かしてみる。颯の掌にすっぽりと収まるサイズの膨らみは、柔らかくてちょっと気持ちいい。そして颯は自分が間違っていたことに気づく。目の前にいる若者は、男性ではなく「女性」だったのだ。耳まで真っ赤になった「彼女」は、金縛りに遭ったように固まっていたが、大きく口を開くと反撃の声を迸らせた。

「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」

「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて、掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」

「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりかそんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」

 ファイターパイロットは国家防衛の盾となると宣誓した身である。今の颯はF‐15戦闘機に乗るイーグルドライバーではなく、ブルーインパルスのドルフィンライダーだ。だがイーグルに乗っていなくとも、颯はファイターパイロットとしての自負や誇りは持ち続けている。そんな颯に彼女は、「国防の任務に就く空自パイロットだとは信じられない」と言い放った。あたかも己が信じるものすべてを否定されたような気分だ。颯の思考は抑えきれない怒りで満ちていく。颯が右手をきつく握り締めたその時だった。

「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」

 やや間延びした声が聞こえたかと思うと、颯は襟首を掴まれて軽々と後ろに引き摺られた。颯と女性の間に巨大な体躯の男性が強引に割り込んでくる。第11飛行隊飛行班長の鬼熊薫3等空佐だ。穏やかな性格で平身低頭、滅多なことでは怒らない彼は、まさに仏様のような人である。TACネームは鬼熊の熊を取った「ベアー」だが、鬼熊3佐はお菓子作りを趣味にしているので、「スイーツ」を自己申告した。しかし鬼熊3佐の見た目と、スイーツのTACネームとのギャップが激しすぎるのでフライトに集中できない! という意見が多かったので却下されたらしい。

「まったく……いったい何をしているんですか。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」

「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから、俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」

「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」

 颯をTACネームのゲイルで呼んだ鬼熊3佐は穏やかに笑んでいる。だがテディベアのようにつぶらな目の奥は燃えていた。これはまずい。目の奥が燃えているのは、鬼熊3佐が本気で怒る前兆だ。

 ブルーインパルスは編隊飛行を中心とする部隊。毎回同じメンバーで飛行するので、パイロット同士の信頼関係が特に重要視される。衝突の原因を作った女性に、自分が謝るなんて納得できなかったが、これから訓練が始まるのだから、仏の鬼熊3佐を鬼に変貌させるわけにはいかない。颯は「悪かった」と女性に謝り、第11飛行隊隊舎の中に入った。

 颯は飛行隊隊舎の二階に上がり、ブリーフィングルームのドアを開けて入る。待っていたパイロットたちは、呆れたようでいて面白がっているような視線を颯に向けてきたが、特に何も言ってこなかった。どうせ窓から騒動の一部始終を見物していたに違いない。飛行隊長を中心に、訓練内容の確認、注意事項の伝達、緊急時の手順の再確認などを行う。最後にスモークのオン・オフを確認するスモーク合わせを行い、訓練前のプリブリーフィングは終了した。

 午後13時50分。ブルーインパルスはサードフライトを開始する。ウォークダウンで5番機の前に進んだ颯は、担当の機付き整備員と敬礼を交わして、梯子に掛けられてある装備を手に取った。部隊識別帽子を脱いでサングラスを外すと視線を感じたので、颯は肩越しに振り向いてみる。すると第21飛行隊の彼女が颯を凝視していた。馬鹿みたいに口を開けて棒立ちしている彼女は、まるで憧れのヒーローを偶然見つけてしまった子供のような表情である。

 サバイバルキットなどが詰め込まれたLPU‐H1救命胴衣、下腹部から足首にかけて巻きつけるJG5‐A耐Gスーツなど、颯は手際良くフライトの時に必要な装具を身に着けていく。手の甲の部分が青色になっているフライトグローブを両手に嵌め、最後に逆さ5のメタリックブルーのヘルメットを頭にかぶり、颯は「平常心」のステッカーが貼られている、5番機のコクピットに乗り込んだ。

 整備員とハンドシグナルで交信しながらエンジンスタート開始。機体を点検するプリタクシーチェックを終わらせた颯は、「ヒィィーン」と高いエンジン音を響かせながら、5番機をタキシングさせてランウェイ07の端に向かい、最終チェックポイントでエンジンチェックを完了する。颯の視線の先では1番機から4番機がまず最初に滑走路に進入した。

『ワン、スモーク。ゴーベスト、プッシュアップ。ハンドレット、ナウ』

『フォー、オーケー!』

 人差し指から小指までが並んだような、フィンガーチップ隊形を組んだ1・2・3・4番機が、スモークの白煙を曳きながら、隊形を菱形のダイヤモンドに変える。そして四機はギアとフラップを下ろしたままの、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで離陸していった。

『ブルーインパルス05、松島タワー。レディ・フォー・ディパーチャー』

 次はいよいよ颯が離陸する番だ。颯は無線のチャンネルをTWRに変えて、基地管制塔に呼びかけた。ブルーインパルスは第11飛行隊のコールサイン。通信の際にいちいち部隊名を名乗っていては手間がかかるため、航空自衛隊の飛行隊はそれぞれ個別のコールサインを持っている。ちなみに「05」は部隊の5番機という意味だ。

『松島タワー、ブルーインパルス05。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』

『ラジャー。ブルーインパルス05、ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』

 颯は酸素マスクのエアを大きく吸い込んだ。

『ファイブ、スモーク・オン! ローアングル・キューバン・テイクオフ、レッツゴー!』

 颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を加速させる。周囲の景色は混ざり合うと色の洪水となり、瞬く間に後背へと流れ去っていく。充分な速度を得た颯は、操縦桿を手前に引き寄せた。上に動いた水平尾翼エレベータが機首を押し上げる。

 翼に風を纏った5番機はふわりと浮揚して、ランウェイ07の端で一気に飛翔すると、天高く宙返りした。視界が開けて快晴の空の青が広がった時には、生意気な第21飛行隊のヒヨコパイロットのことなんて、颯は綺麗さっぱり忘れていた。
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