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颯とパイロットウオッチ
広報誌MAMORの取材が終わってから数日が経ち、松島基地はすっかりいつもの様相に戻っていた。今日最後の課業を終えた揚羽は、栄養豊富・ボリューム満点の夕食を食べ終えて、駐輪場に向かっていた。鼻歌交じりに基地構内を歩いていると、道の片隅の側溝付近に小さな物が転がっているのに気づいた。
なんだろうと思いつつ揚羽は近づいてみる。側溝付近に落ちていたのは腕時計だった。紺色の文字盤に銀色の長針と短針。9時位置の秒針部分には、ブルーインパルスの部隊マークがあしらわれている。文字盤を保護する硝子には、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていて、壊れているのか時計は時間を刻んでいない。裏側を見てみると、【HAYATE WASHIMI】の文字が刻まれてあった。
(鷲海颯って……5番機のドルフィンライダーの人だよね。じゃあこの時計は彼が落としたのかしら)
壊れてはいるが落とし物であることには変わりない。であれば早急に持ち主に届けるべきだろう。揚羽は基地東側にある第11飛行隊の区画に向かった。夜に向かって進んでいく、夕焼け空の下に広がるエプロンでは、整備員たちが点検を終えたT‐4を、トーイングバーと連結させて、牽引車で格納庫に運んでいる。エプロンを訪れた揚羽に気づいたのは、三舟勇1等空曹だった。
「ドルフィンテールじゃないか。どうしたんだ?」
「その呼び方はやめてくださいって、何回言ったら分かるんですか」
「何が気にいらないんだ? お前さんにぴったりじゃないか」
気を取り直した揚羽は三舟1曹に拾った時計を見せた。
「さっき鷲海1尉の時計を拾ったんです。三舟さんから彼に渡しておいてもらえませんか?」
「鷲海ならついさっき官舎に帰ったぞ。俺は仕事があって忙しいから、お前さんが渡しにいったらどうだ。憧れのドルフィンライダーとお近づきになれる絶好のチャンスじゃないか」
親指を立ててにやりと笑んだ三舟1曹は、揚羽の肩を叩くと牽引車に乗って、颯爽と走り去った。まったく失礼なことを言う。あたかもドルフィンライダーと仲良くなりたいがために、時計を届けにきたような言い方ではないか。
他の隊員に頼もうかと思ったが、いつの間にかエプロンに立っているのは揚羽だけになっていて、足下の細く長い影が、独り寂しそうに伸びていた。仕方がない。拾ったのは自分だから責任を持って届けるべきだろう。颯が居住している官舎は、基地から徒歩5分ほどの場所にある。嘆息した揚羽は警務隊の警務室に足を運び、隊員に外出証を提示して正門を出た。
基本的に自衛官たちは基地・駐屯地で生活する。外出も許可制で、平日は特別な理由がないかぎり、許可も下りない。自衛官は自衛隊法で指定された場所に、居住することが義務付けられており、幹部自衛官は基地・駐屯地外の官舎や自宅などに居住でき、通勤を認められているが、それ以外の一般隊員は、基本的には許可されていない。しかし結婚などの事情を認められれば、基地・駐屯地外からの通勤も可能である。ちなみに官舎に住んでいる隊員たちは意識が高い。当番を決めて建物の清掃をしたり、足りない備品は自腹を切って購入しているのだ。
三舟1曹から颯は官舎の三階に住んでいると聞いた。階段で三階に上がり、表札を確認しながら廊下を歩く。奥から二番目のドアの脇に、「鷲海」と書かれた表札を見つけた。インターフォンを押したが反応はない。三回続けて押してみるが結果は同じ。しばらく待ってみるが、住人が出てくる気配はない。どうやら颯は留守にしているようだ。であれば時計は明日渡すことにしよう。
ドアの前から去ろうとした揚羽の後ろで物音が聞こえた。留守かと思ったが在宅しているらしい。ドアに向き直った揚羽は颯が出てくるのを待った。チェーンと鍵が外されたドアが、内側から開いていく。ドアが完全に開放されて、中から颯が出てきた瞬間、揚羽の大きな両目は、顔から飛び出さんばかりに見開かれていた。
ドアを開けて揚羽の前に出てきた颯は、腰にボーダー模様のバスタオルを巻いているだけの、かぎりなく裸に近い姿だったのだ。
逞しい胸板と綺麗に割れた腹筋。完全に乾いていないコバルトブラックの髪は、額や目元に張りついている。黒髪の先端から落ちた水滴が、厚い胸板を伝い、腹筋が割れる下腹部を滑走して、臍の横を通り過ぎ腰のタオルの中に入っていく。
ごくりと生唾を飲んだ揚羽はさらに両目を見開いていた。異性の裸を見るのは初めてではないが、こんなに完璧に整った肉体は父親以外見たことがない。颯から目を離せないまま硬直していると、揚羽は突然口を塞がれた。颯はバスタオルの結び目を手で押さえていて、もう片方の手で揚羽の口を塞いでいる。
「――ふぐぐっ!?」
「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」
呼吸が苦しいので揚羽は涙目で頷く。颯は揚羽の口を押さえている手をゆっくりと離した。揚羽の喉から悲鳴が迸らないことを確認した颯は、衝撃で硬直する彼女を廊下に残して、部屋に戻っていった。ややあって黒色のVネックの長袖シャツと、ダークブルーのダメージジーンズに着替えた颯が姿を見せた。颯は急いで身体を拭いてきたのだろう。まだ水分を残した身体に、シャツがぴったり張りついていて、引き締まった胸郭と胸の突起の形がくっきりと浮かび上がっているので、揚羽は目のやり場に困ってしまった。
「はっ、はっ、裸で出てくるなんて! いったい何を考えてるんですか!」
「いきなり訪ねてきたお前が悪いんだろうが! 着替えてる時間もなかったし、黎児かと思ったから、このままでいいかって思って――」
「全然よくないです! せめて下着くらい穿いて出てきてくださいよ!」
「濡れたまま穿いたら気持ち悪いから嫌なんだよ!」
「じゃあ拭いてきたらいいじゃないですか!」
――なんだか会話が妙な方向に進んでいるような気がする。会話の方向を修正したのは颯だった。
「お前、ドルフィンテールの燕揚羽……だよな」
「えっ? そうですけれど……どうして私の名前を知ってるんですか?」
「……同僚から聞いたんだ。それで俺になんの用だよ」
「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」
揚羽はポケットから時計を出して颯に渡す。受け取った時計を見る颯の表情は、どことなく険しいように見える。そんな様子を見た揚羽は胸に不安を覚えた。
「もしかして……捨てるつもりだったとか?」
「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
予想だにしていなかった颯の「ありがとう」の一言は、揚羽をとても驚かせた。時計をポケットにしまった颯が揚羽に視線を向ける。
「お前、官舎住まいなのか?」
「えっ? まだ学生なので学生隊舎に住んでます。それが何か?」
「時計を届けてくれた礼だ。基地まで送っていってやるよ」
「お礼なんていりませんよ。それに基地はすぐそこですから一人で帰れます」
揚羽が言葉を返すと颯は呆れたように嘆息した。
「あのな、ここは恋人も奥さんもいない男たちが住む官舎なんだぞ? 彼女や奥さんがいるならともかく、そいつらは日頃の欲求不満が溜まってムラムラしてるんだ。もしかしたら女性を見たらすぐ口説きにかかる、変態野郎がいるかもしれない。だから俺は基地まで送ってやるって言ってるんだ。別にお前を心配して言ってるわけじゃねぇぞ。モデル体型ならともかく、お子様体型のお前が襲われることなんて100パーセントないからな」
「なっ――なんなんですかその言い方は! 失礼すぎます! ひどすぎます! もういいです! 貴方に送ってもらわなくても一人で帰れますから! その変態野郎が貴方かもしれませんしね!」
「おい! 待てって!」
「待ちません! さようなら!」
初めて会った時もそうだったが、本当に失礼極まりない青年だ。こんな奴にエスコートしてもらわなくても一人で帰れる。颯に一礼して廊下を引き返した揚羽は、階段を下りようとしたのだが、ほんの僅かな段差に蹴躓いてしまい、バランスを崩した彼女の身体は、前のめりに傾いた。転落と激突を覚悟した揚羽は両目を固く瞑る。目を瞑った次の瞬間、足音が駆けてきたかと思うと揚羽は腕を掴まれ、勢いよく後ろに引き戻されて倒れこんだ。
「いってぇ……」
痛みに呻く声が聞こえたので、揚羽は首を捻り振り向いた。
目の前にあるのは颯の端正な顔だ。独特の眼差しを感じさせる、猫のような奥二重で切れ長の双眸。すっきりと通った鼻筋に、形の整った唇。両目の瞼を縁取る睫毛はとても長い。
揚羽は颯に抱き締められるような体勢になっていて、左右に大きく開かれた彼の両脚の間に、人形のように座りこんでいた。揚羽の背中にぴったりと密着している、颯の胸板の感触と温もりが直に伝わってくる。不意に熱い吐息が耳に吹きかけられたので、揚羽は飛び上がりそうになった。
「――大丈夫か?」
「あっ……ありがとうございます」
「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」
「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」
1秒でも長くこの体勢でいるのは、恥ずかしすぎて耐えられない。揚羽が音を上げると、颯は「悪い」と言って、腕に抱き締めていた彼女を放してくれた。先に立ち上がった颯が右手を差し伸べた。揚羽は差し伸べられた右手を握り立ち上がる。颯は廊下を引き返していき、自宅玄関のドアの鍵を閉めてから、揚羽が危うく落ちかけた階段を下りていった。
やや遅れて揚羽も階段を下りて、颯のあとを追いかける。官舎の前で待っていた颯と合流して、遠く彼方に海が見える歩道を歩く。風に揺れる揚羽の髪と、前を歩く颯のうなじと同様に、辺り一帯は夕日の光を受けて、茜色に美しく輝いていた。
前を歩く颯は揚羽より身長が高いから、歩く速度は速いはずなのに、なぜだか彼との距離は遠くならず、一定に保たれている。つまり颯は揚羽に合わせて、歩く速度を微調整してくれているのだ。さっきまであんなに憎まれ口を叩いていたのに、不意打ちのように優しさを見せるなんて卑怯だと思う。
たった5分の距離がとても長く感じられる。言葉を交わさないまま夕映えの世界を歩いていると、視界前方に松島基地の正門が見えてきた。隊員たちの自家用車が出てくる正門の、少し手前で足を止めた颯が、揚羽のほうを振り返った。
「ここまででいいよな」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな」と軽く片手を上げて、颯は踵を返した。立ち去ろうとした颯に一声かけて、揚羽は彼を呼びとめる。黒髪を揺らして、長い両足を地面に縫いつけた颯が振り向いた。
「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、ブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは、5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」
まったく自分はいったい何を言っているのだ。喋れば喋るほど墓穴を掘っているような気がする。ハニーベージュの髪を揺らして颯に一礼した揚羽は、正門を目指して駆けていく。団栗を見つけた栗鼠のように走っていく揚羽の背中を、颯は戸惑いを湛えた表情で見つめていた。もちろん揚羽は、颯が見つめていることは知らない。太陽が地平線に沈んで、薄明のカーテンがゆっくりと下りてくる。揚羽と颯。二人の距離は近づいたようでいて、実際にはまだ遠いようである。

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