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太陽の笑顔
青空の澪を白い雲の船舶がゆったりと流れていく。MAMORの取材が行われる第11飛行隊のエプロン地区は、言わずもがな大勢の見物客で混雑していた。まるで朝方の満員電車のような光景だ。尻込みする花菜の手を引いた揚羽は、人混みを掻き分けて最前列に移動した。
「おう、やっぱり来たかい。ドルフィンテール。佐倉のお嬢ちゃんも一緒か」
「……その呼び方、やめてくれません?」
揚羽と花菜に話しかけてきたのは、ダークブルーの部隊識別帽子を、前後逆に被った整備員だ。どことなく不良中年に見える彼の名前は、三舟勇1等空曹。第11飛行隊整備小隊の整備班長を務めている、この道一筋20年のベテラン整備員で、何度か通っているうちに顔見知りになったのである。
ちなみに「ドルフィンテール」とは揚羽の渾名だ。毎日欠かさずブルーインパルスを見にくることから、第11飛行隊の隊員たちは、いつからか揚羽をそう呼ぶようになったらしい。直訳するとイルカの尻尾になるが、イルカに尻尾はない。あれは尾鰭だから、正しくは「ドルフィンフィン」になると思うのだが。嘆息しながら揚羽はエプロンを見回す。T‐4は駐機されているが、肝心のパイロットの姿が見当たらなかった。
「鷲海1尉はまだ来ていないんですか?」
「ん? ああ、鷲海は救命装備室で着替え中だ。なんなら覗きにいってもいいぞ」
「いきません! からかわないでくださいよ!」
少しして颯がハンガーの救命装備室から出てきた。颯はいつも着ているオリーブグリーンのパイロットスーツではなく、タイトな作りのダークブルーのパイロットスーツを着ている。あれは展示飛行の時に着る、「展示服」というパイロットスーツだ。格好良すぎる颯の展示服姿に、不覚にも揚羽はドキドキしてしまう。男性隊員の嫉妬の眼差しと、女性隊員の熱い視線を気にする様子もなく、エプロンの中央に進んだ颯はMAMORの取材を始めた。
「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「はぁ……」
間髪入れずに颯が返す。肩を落として大きく嘆息したのは、東京都新宿区市ヶ谷の航空幕僚監部広報室広報班から派遣されてきた、雪村衛士2等空尉だ。だが困惑しているのは彼だけではない。バズーカ砲のようなカメラを構えた、男性カメラマンも困惑している。
二人が困惑するのも無理はない。なぜならばT‐4を背後に立つ颯は、無表情のままにこりとも笑わないのである。その眦も口角もまったく微動だにしない。強力な接着剤で固定されているのかと思ってしまいそうだ。雑誌記者は颯の緊張をほぐそうと会話を始めたが、やはり彼の端正な顔を凍てつかせている、硬い表情は溶けなかった。
「参ったな……噂には聞いていたけれど、まさかこんなに無愛想だとは知らなかったよ」
揚羽の隣にきた雪村2尉は、二回目の嘆息を吐いた。父親譲りの人好きがする顔は、思わず励ましの声をかけたくなるほど落胆している。落胆しているのは、雑誌記者とカメラマンも同じだ。敏腕編集長から「何がなんでも絶対にイケメンの笑顔を撮ってこーい!」と強く言われているのかもしれない。仏頂面の写真など持ち帰ったら、間違いなく叱責されるだろう。
「T‐4に乗ったら笑うんじゃないですか?」
「T‐4に?」
「T‐4に触ろうとした私に怒鳴ったくらいだから、飛行機が大好きな飛行機馬鹿なんだと思いますよ。誰だって好きな物を見たり、近くに行ったら自然と笑うじゃないですか。だからT‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって」
「――今なんて言った?」
揚羽と雪村2尉の会話に、風鈴のように涼やかな声が割り込んできた。雪村2尉の隣で撮影風景を見守っていた男性隊員が、切れ長の目を揚羽に向けている。「ひゃっ!」と声を上げた花菜が、顔を真っ赤に染めて揚羽の後ろに隠れた。
涼やかな目元と真っ直ぐ通った鼻梁。欧米人のような細い顎。ダークラベンダーアッシュの髪を左右に流して、額を露出させている。すらりと伸びた両脚は長くて腰の位置も高い。まさにハリウッド俳優のようなプロポーションの持ち主である。ブルーインパルスの飛行隊長で1番機のドルフィンライダー、TACネームは「ロータス」の、蓮華悠一2等空佐その人だ。
「えっ? 鷲海1尉は飛行機が大好きみたいだから、T‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって――」
「そうか、その手があったな。雪村2尉、すまないが一緒に来てくれないか?」
「はっ、はい!」
蓮華2佐は雪村2尉を引き連れて颯のところに歩いていった。蓮華2佐たちは雑誌記者とカメラマンを交えて、何やら会話している様子である。蓮華2佐に頷いた颯は、梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。颯の顔はカメラを意識するように傾けられている。ややあって颯は瞼を伏せると瞑目した。まさかこの状況下で居眠りをするつもりなのか。
だがそれは違った。閉ざしていた双眸を開いた颯は、さっきまでの仏頂面が嘘だったかのように、白い歯を見せて笑っていたのだ。まさかの全開の笑顔に、周囲から「おぉー」とどよめきの声が上げられた。奇跡の笑顔を逃すまいと、カメラマンは連続でシャッターを切っている。揚羽の隣では蓮華2佐と雪村2尉が驚きを露わにしていた。
(なによ、笑おうと思えば笑えるんじゃない! まったく素直じゃないんだから!)
揚羽は心の中で不平不満を口にする。それにしてもT‐4に乗っただけで簡単に笑うなんて、颯は心の底から空を飛ぶことが好きなのだろう。太陽の笑顔を浮かべた颯が、不意に揚羽のほうを振り向いた。颯は揚羽に笑いかけたのではない。颯は彼女の斜め前方にいるカメラマンに笑顔を向けているのだ。
それなのにどうしてだろう。快晴の空のように、明るくて、爽やかで、眩しい颯の笑顔は、揚羽の胸を熱くさせて、同時に鼓動を高く跳ねさせる。その音の大きさといったら、周りにいる人たちにまで、自分の心臓の音が聞こえてしまったのではないかと思ってしまったほどだ。本当はあの表情が颯の隠している本質なのではないかと感じた瞬間、揚羽の胸の中は切なく苦しくなってしまったのだった。

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