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MAMORがやってきました
炊きたての白米の甘い香りがふわりと漂ってくる。香りが鼻腔を走り回ると揚羽の腹の虫が鳴った。身体も頭も酷使した揚羽の胃袋は空っぽだ。隊員食堂の入口で石鹸と水で綺麗に手を洗い、揚羽は食堂に入った。食堂を進んで配膳カウンターのほうに向かう。うどん定食を大盛りで注文、ポケットからIDカードを取り出して、精算機のリーダーにかざす。精算を済ませた揚羽は、大盛りのうどん定食が乗ったトレイを受け取った。
「訓練お疲れさまです」
揚羽に声をかけてきたのは、第21飛行隊航空機整備員の佐倉花菜1等空曹だ。柔らかそうな黒髪。ぱっちりとした大きな双眸は綺麗に澄んでいる。なんだか栗鼠を思わせるような愛らしい外見は、世間で言う「癒し系女子」だろうか。年齢は揚羽より一つ上の24歳。基地外周をランニングしていた時、揚羽は同じくランニングしていた花菜と出会い、二言三言会話を交わしているうちに、意気投合して仲良くなったのだ。
「花菜ちゃんもお疲れさま。一緒に食べよっか」
「はい」
揚羽は花菜と一緒に席に着こうとしたのだが、突然目の前に現れた巨大な山が、彼女の進路を遮った。正確に言うとそれは山ではない。形よく均整美を保って隆起している女性の胸である。揚羽は視線を動かす。するとむっちりとした胸を、真っ直ぐに反らした女性が、眦を吊り上げて揚羽を見下ろしていた。
「聞きましたわよ。貴女、鷲海様と喧嘩したんですってね!」
彼女は大野木麗香1等空曹。揚羽と同じ第21飛行隊の学生パイロットである。いわゆる同じ釜の飯を食った者同士だが、何かと理由をつけて揚羽に突っかかってくるのだ。ウイングマークを取得して、F‐2戦闘機操縦課程に進んでからも、麗香は相変わらず揚羽を目の敵にしていた。相手が好きだから意地悪をするという俗説があるが、麗香にその俗説は当てはまらない。麗香は揚羽を不倶戴天の敵と認識してやまないのだ。トレイを花菜に預けた揚羽は、負けじと麗香を睨みつけた。
「鷲海様って……誰?」
首を傾げて揚羽が聞き返すと、麗香は前につんのめった。さながら関西で人気の某新喜劇芸人のようなリアクションだ。
「とぼけないでちょうだい! ブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海颯様のことよ! 私だってまだお話ししたことがないのに、よりによってどうして貴女みたいなちっぱい子が、鷲海様とお話しできるのよ! 私の鷲海様にエッチなことなんかしたら許しませんわよ!」
「エッチなことなんかするわけないじゃない! あんた馬鹿じゃないの!? てゆうか『ちっぱい』ってどういう意味よ!」
「自分の胸に手を当てて、よーく考えてみることね! とにかく今日の鷲海様は、MAMORの取材で忙しいんだから、ちょっかいを出さないでちょうだい!」
巨大な胸で揚羽を押し退けた麗香は、さながらステージを闊歩するファッションモデルのように歩いていった。去りゆく麗香の背中に揚羽は舌を突き出して反抗する。「私の鷲海様」だなんて、相変わらず思い込みの激しい女性だ。どうやら麗香の脳味噌は、颯をボーイフレンドと誤って認識しているらしい。颯にエッチなことなどするわけがない。むしろその逆である。揚羽は颯に胸を鷲掴みにされて、何度も揉まれたのだ。妙な言いがかりをつけるのはやめてほしい。
「なーにーよーあの爆乳女!! いつどこで何時何分何秒に、その鷲海颯様があんたの彼氏になったっていうのよ!! エッチなことをされたのは私のほうよ!! それにあんたの魂胆は見え見えなんだからね!! ブルーインパルスが見たくて、あわよくばドルフィンライダーの彼女になりたいから、あんたはF‐2を希望したんでしょーがああぁっ!!」
怒りを爆発させた揚羽は吼えた。食事を中断した隊員たちが、何事かといった様子で揚羽のほうを見る。
「あっ、あの、揚羽ちゃん、そろそろ席に座らない……?」
怒りが収まらない揚羽に、蚊の泣くような声で話しかけてきたのは花菜だ。左右の手にトレイを持つその姿は、中国雑技団を思わせる。よく見ると花菜の両手は小刻みに震えていた。どうやら花菜の上腕二頭筋は限界に近づいているらしい。おまけに花菜も半泣き状態である。揚羽は自分のトレイを受け取り、花菜を連れて窓際の席に腰掛けた。「いただきます」と手を合わせ、揚羽は熱々のうどんを一気に啜る。うどんも出汁で柔らかくなったかき揚げも美味しかった。
「今日MAMORの取材があるって、麗香は言ってたよね。いったいなんの取材で来るのかな」
自衛隊には防衛省が編集協力を唯一している広報誌がある。それがMAMORだ。毎月日本の防衛に関する旬な特集や、自衛隊の基礎知識、日本各地に展開する部隊の、活動・装備品の紹介などを、分かりやすい記事と迫力満点の写真で提供しており、特殊な装備の紹介や防衛政策よりも、自衛官に焦点を当てているのだ。
「『航空自衛隊のイケメン特集!』っていう記事の取材みたいですよ。なんでもブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海1尉が取材対象に選ばれたとか」
「ええっ!? あんな奴が選ばれたの!?」
松島基地第4航空団・第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海颯1等空尉。パイロットたちが部隊内だけで使うTACネームはゲイル。T‐4に触ろうとした揚羽を一喝して、観光ツアーでやって来た、ミリタリーマニアでコスプレ好きの男子中学生と間違え、挙げ句の果てに彼女の胸を鷲掴みにして、もみもみ揉んだ青年である。それにしても分からない。鷲海1尉より相応しいパイロットがいるであろうに、どうして彼が取材対象に選ばれたのか腑に落ちない。顔立ちが綺麗なのは認めるが性格は最悪だ。明らかに人選ミスだろう。
「ねえ、揚羽ちゃん。よっ、よかったらだけれど、私たちもMAMORの取材、見にいってみない?」
「えっ?」
揚羽の真正面に座る花菜は、頬を赤く染めてもじもじしている。――そうだった、花菜もドルフィンライダーの一人に憧れているのだ。花菜から見るドルフィンライダーは、まさに殿上人の如き存在。一人で見にいくのは心細いから、揚羽に一緒に来てほしいと、花菜は遠回しに言っているのだ。鷲海颯という人間に些か興味を覚え始めていたし断る理由もない。なので揚羽は花菜と連れ立って、MAMORの取材風景を見物しにいくことにした。

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