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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第1章 雲の湊、始まりの出会い

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最低最悪なリードソロ

 徹底的に指導してやると遠藤3佐に脅迫――ではなく言われたとおり、揚羽のフライトの振り返りをするデブリーフィングは散々だった。最低評価をつけられなかったのが、せめてもの幸いだと言えよう。遠藤3佐は触ると幸福を呼ぶという、ビリケンのような見た目をしているのに、どうして矢継ぎ早にえげつないことを言えるのだろうか。あれはビリケンさんじゃなくて地獄の閻魔大王だ。今まで何人の学生たちを地獄の大窯で茹でてきたのか訊いてみたい。しかしそれを訊いてしまったら最後、今度は揚羽が煮えたぎる大釜の中に投げ込まれてしまうだろう。

 デブリーフィングが終わって第21飛行隊隊舎を出た揚羽は、とある飛行隊の区画になっている基地東側に向かった。その飛行隊の名前は第11飛行隊ブルーインパルス。空自の飛行部隊で、唯一アクロバット飛行を専門としている飛行隊である。第11飛行隊の訓練風景を見にいくのが毎日の習慣になっているのだ。ブルーインパルスのアクロバット飛行を思い出した揚羽の胸はすっと軽くなる。いつの間にか鼻歌を歌えるまでに、揚羽の気持ちは回復していた。思い出すだけで心が軽くなるなんて不思議だ。きっとあの翼には、みんなを元気にさせる特別な魔法がかかっているのかもしれない。

 軽やかな足取りで歩いていくと、青色のラインが入れられた白壁の建物が見えてきた。漢字で書かれた「第十一飛行隊」の木製の看板が、玄関脇の柱に提げられている。ここが第11飛行隊の飛行隊舎だ。そのすぐ隣には緩やかなアーチ形状の建物があり、上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が、青色で大きく書かれていた。あの建物がT‐4などの航空機を収納している、ブルーインパルス専用の格納庫ハンガーである。そして格納庫のすぐ前に広がるエプロンに、駐機されている航空機を見つけた揚羽は、頬を紅潮させると子供のようにきらきらと目を輝かせたのだった。

 エプロンに駐機されているのは六機のT‐4中等練習機だ。機体上面は青と白のツートンカラー、裏面は上面のリバースパターンに塗装されている。T‐4中等練習機は、T‐33及びT‐1の後継用に開発されたこともあり、機体の大きさはそれら先輩機と、ほぼ同寸法となっている。その外見は全体的に角がとれて、丸みを帯びたものとなっているが、左右の胴体脇に置かれたエアインテークや尖った機首など、全体の印象はミニ戦闘機といった感じだ。滑らかな流線形のフォルムは、「ドルフィン」の愛称のとおり、愛らしいイルカを思わせる。ドルフィンキーパーと呼ばれる航空機整備員の姿はなかった。

(ちょっとだけ触ってみてもいいよね……)

 周囲を見回しながら、揚羽は日の光を照り返しているT‐4に近づく。手を伸ばした揚羽が、翼に触れようとした時だった。

「おい! ドルフィンに触るな!」

 突然飛んできた怒声が揚羽の耳朶を打った。振り向いてみれば、エプロンに立つ青年がこちらを睨んでいるではないか。航空自衛隊標準装備の低視認性を重視する、オリーブグリーンのパイロットスーツを着ているから、飛行隊のパイロットにちがいない。

 右胸に着けているのは、青い地球に六機のT‐4を表す金色の矢印、衝撃をイメージした赤色の縁取りの金色のストライプと翼のエンブレム。左肩には日の丸をイメージした、白い縁取りの赤色の円の中心に、T‐4と同じ配色の、イルカのキャラクターを置いたデザインの、ショルダーパッチを着けている。驚くことに彼はブルーインパルスのドルフィンライダーだった。いきなり怒声を浴びせられて驚く揚羽のところに、ドルフィンライダーの青年が早足でやってくる。大きな手に腕を掴まれた揚羽は、T‐4から乱暴に引き離された。

「いいか、ドルフィンは整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだってな、できるだけ機体を汚さないように気をつけてる。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」

「あの……ツアーって?」

 きょとんとした面持ちの揚羽が尋ねると青年は片方の眉毛を撥ね上げた。

「……お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」

 松島基地では事前に申し込めば、司令部監理部広報班の案内で基地見学をすることができる。どうやら彼は、揚羽を基地見学ツアーからはぐれた観光客と思いこんでいたようだ。だがそれにしても23歳の可憐な乙女を中学生と間違えるなんて失礼すぎる。揚羽は怒りを覚えたが、もとはと言えば機体に触ろうとしたこちらが悪いのだ。なのでここは穏やかに返すことにした。

「私は中学生じゃありません。まだ学生ですけれど、れっきとした空自パイロットです」

「学生ということは、第21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」

「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」

「なんだと!?」

「なんだとはなんですか!」

 揚羽の発言は彼の怒りの導火線に火を点けてしまったらしい。怒れる青年は一歩踏み出すと、揚羽の胸倉を掴み上げようとしたが、勢い余ってか手が滑ってしまい、なんと彼女の控えめな発育の胸を、がっしりと鷲掴みにしてしまった。揚羽の胸に食い込んだ青年の手は、あろうことか彼女の胸を揉んでいるではないか。今まで誰にも触らせたことのない胸を、見ず知らずの青年が無遠慮に揉みしだいている。耳まで真っ赤になった揚羽は石像のように硬直していたが、なんとか青年の手を振り払い、反撃の声を出すことができた。

「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」

「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて、掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」

「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりか、そんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が、国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」

「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」

 揚羽と男性の口論を断ち切ったのは、やや間延びした声だった。頭の上から大きな影がかぶさってくる。次いでいきなり襟首を掴み上げられ、揚羽と青年は軽々と引き離されてしまった。それでも睨み合う二人の間に、二人目のドルフィンライダーの男性が割り込んでくる。縦にも横にも大きい巨大な体躯の男性だ。

「まったく……いったい何をしているんですか。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」

「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」

「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」

 男性は微笑しているが目は笑っていなかった。静かなる迫力に気圧された青年は息を呑むと、渋々といった様子で揚羽に頭を下げてきた。

「……俺が悪かった」

 誠意など微塵も感じられない謝り方だったが、ここは謝罪を受け入れて怒りの矛を収めるべきであろう。揚羽は頷いて青年の謝罪を受け入れた。

「ほら、早くブリーフィングルームに行きなさい。隊長たちが待っていますよ」

 男性に促された青年は最後に揚羽を睨みつけると、第11飛行隊隊舎に入っていった。

(それにしても大きい人だなぁ……)

 まじまじと男性を仰ぎ見た揚羽は心の中で呟いた。縦にも横にも大きい体躯は、脂肪ではなく岩壁のような筋肉で隆起しているから、オリーブグリーンのパイロットスーツは今にも張り裂けそうだ。パイロットスーツの袖は二の腕まで捲り上げられていて、ジャングルのような剛毛が、びっしりと逞しい腕に生えていた。だが大振りの双眸はつぶらで綺麗に澄んでいる。日焼けした顔立ちは、どことなくテディベアに似ているような気がした。揚羽がおずおずと声をかけると彼はこちらを見下ろした。

「えっと、あの……」

「私は鬼熊薫おにくまかおる3等空佐、さっきの彼は鷲海颯わしみはやて1等空尉です。ゲイルが失礼な態度をとってすみません」

「第21飛行隊の燕揚羽1等空曹であります。謝るのは私のほうです。勝手にT‐4に触ろうとした私が悪いんです。申し訳ありませんでした」

 揚羽は鬼熊薫3等空佐に頭を下げる。すると鬼熊3佐は頭を下げた揚羽に、珍しい動物を見つけたような目を向けた。

「21飛行隊の女の子? では貴女が噂の――」

「えっ?」

「いえ、なんでもありません。プリブリーフィングがありますので、これで失礼します」

 揚羽に微笑んで見せた鬼熊3佐も、第11飛行隊隊舎に入っていった。ひとまず騒動が収まり肩の力を抜いた揚羽は息を吐く。カメラを構えた人たちがブルーインパルスを一目見ようと、ランウェイ07/25の北側にあたるフェンス沿いに集まってきている。揚羽の周りにも飛行訓練を見にきた隊員たちが続々とやってきた。第11飛行隊隊舎屋上の観覧席にいるのは、基地見学に訪れた観光客だろう。

 しばらく待っていると、プリブリーフィングを終えた第11飛行隊のパイロットたちが、飛行隊隊舎から出てきてエプロンに姿を見せた。七人全員が紺色の部隊識別帽子と、青と白のカラーでカスタムされたOAKLEYのFLACK JACKETのサングラス、オリーブグリーンのパイロットスーツという出で立ちで、救命胴衣や耐Gスーツは着けていない。メタリックブルーのヘルメット、救命胴衣と耐Gスーツとフライトグローブは、機体の横の梯子に掛けられている。

(やった! これから始まるのは飛行場訓練フィールドアクロだわ!)

 揚羽は喜んだ。ブルーインパルスの飛行訓練は、他の飛行部隊と同じく一日三回が基本。すべての飛行訓練で六機が揃って飛ぶわけではなく、訓練の内容や機体の整備状況によって機数は変更される。飛行場訓練と呼ばれる基地上空での訓練が行われるのは週三回程度で、ウォークダウンやナレーションなど、本番同様の一連の流れが、併せて演練されることがあるのだ。揚羽は期待に胸を高鳴らせながら、演練が始まるのを待った。

 エプロンの端に一列に並んだドルフィンライダーたちが、ウォークダウンで機体を目指して行進していく。手の振りも歩幅も見事に調和していて、ステップをカウントしているのは6番機のドルフィンライダーだ。順番に解散していったドルフィンライダーたちは、機付き整備員と敬礼を交わして、梯子に掛けられている装備を身に着けている。演練が順調に進んでいくなか、揚羽の視線は一人のドルフィンライダーに釘付けになっていた。

(嘘でしょ? あの人が5番機のパイロットだなんて――!)

 揚羽が凝視するのは5番機のドルフィンライダー。ヘルメットをかぶるため、紺色の識別帽子を脱いでサングラスを外したドルフィンライダーは、なんと驚くことに揚羽の胸を掴んで揉んだ青年だったのだ。揚羽は何かの間違いだと思いたかった。だが青年が頭にかぶった、ヘルメットのバイザーカバーに描かれた、逆さになった数字の5が確かな証拠。難易度の高い背面飛行が多い、リードソロを担当する5番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描き、その技量を誇っている。唖然とする揚羽が見ている前で、青年は5番機のコクピットに乗り込んだ。

 青と白のT‐4に搭乗したドルフィンライダーたちが、整備員と連携してエンジンを目覚めさせた。「ヒィィーン」と高い音が鳴り響き、ポジションナンバーの描かれた垂直尾翼のライトが点灯する。同時にジェット噴流に押し出されたスモークが空に昇っていった。敬礼する整備員が見送るなか、一列に並んだT‐4がタクシーアウトしていく。滑走路に進入した六機のT‐4は、双発のF3‐IHI‐30ターボファンエンジンを、誇らしげに轟かせると青空に飛翔していった。

 無礼極まりない青年が5番機を操縦するのだから、きっと目も当てられないほど酷い飛行だと揚羽は思っていた。だが次々とリードソロ課目を実施する5番機を見ていくうちに、揚羽は自分が間違っていたと思い知らされる。その軌跡は時には鋭く時には柔らかい。さながら一羽のツバメが優雅に空を飛んでいるようだ。

 憧れの5番機のパイロットは嫌な性格をした青年だ。それなのに彼が松島の空に描くアクロバットから、揚羽は目が離せない。なんだか悔しい思いを感じる揚羽の頭上を、ざまあみろと言わんばかりに、5番機がバーティカル・クライム・ロールを打ちながら、天高く昇っていった。
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