カジヒデキとゼスト
1987年、小山田圭吾は、バンドをやろうと誘われます。声をかけたのが井上由紀子。彼女は後にヴィーナス・ペーターを結成する沖野俊太郎も誘っていました。まさにこの頃から敏腕プロデューサーだったのです。そして彼女と小山田圭吾がふたりで始めたピーウィー60’sというユニットが、その後ロリポップ・ソニックと名を改めます。そこに小沢健二も合流し、バンドは小山田圭吾、小沢健二、井上由紀子、荒川康伸、吉田秀作という5人組として活動を始めます。
87年11月に行われた、2人時代のロリポップ・ソニックのデビューライブを目撃していたのがカジヒデキでした。
彼は、東京ネオアコシーンを形成していた人脈を結びつける役割を果たしていました。
高校時代にはハードコアやポジティブ・パンク、ゴスに傾倒していたカジヒデキは、ロリポップ・ソニックのライブを目撃したことをきっかけに音楽の嗜好もファッションも変わることになる。そして『英国音楽』の小出亜佐子やペニー・アーケードなどと友人関係を築くようになりました。
彼は86年に宇田川町のマンションの一室にオープンした輸入盤店、「ゼスト」でアルバイトをしていました。そのバイト仲間だったのが、エスカレーター・レコーズを主宰した仲真史。同じくクルーエル・レコーズを立ち上げた瀧見憲司とも知り合います。彼らが立ち上げたインディー・レーベルが、その後90年代の渋谷系の最前線を担うことになります。
アフター・パンクのロリポップ・ソニック
88年にロリポップ・ソニックがライブを行っていたのは、渋谷ラ・ママ、原宿クロコダイル、六本木インスティックなどの小さなライブハウスです。その頃に対バンしていたのがペニー・アーケード、バチェラーズ、オリジナル・ラブなどでした。
ロリポップ・ソニックはこの年「コーヒーミルク・クレイジー」「エキゾチック・ロリポップ」の2曲を『英国音楽』付録のソノシートに提供しています。そして限定のカセットテープ『フェイヴァリット・シャツ』を自主制作する。それがイギリスの音楽誌『レコード・ミラー』で紹介されたりもしていた。 こうして東京ネオアコシーンの小さなサークルに活動していたロリポップ・ソニックに、89年1月、僕は出会うことになったのです。
ロリポップ・ソニックが自主制作した『フェイバリット・シャツ』のカセットテープ(1988年)
彼らやその仲間たちの精神性は、「イカ天」(テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』)や「ホコ天」(原宿歩行者天国)など当時のバンドブームの渦中にいたバンドたちとは明らかに違っていた。それはパンクへの眼差しでした。
ロリポップ・ソニックもフリッパーズも、パンク以降の精神を根っ子に持っていました。彼らは80年代のイギリス、アフター・パンク世代のインディー・レーベルやその周辺のミュージシャンたちに憧れていました。そしてロリポップ・ソニックはアズテック・カメラやザ・スタイル・カウンシルを経由して60年代のポップスを見ていた。単に流行りの音楽に夢中になっていたわけではなく、その視線の先にポップスの歴史があった。「洋楽に影響を受けた」と言っても、そこの感性の違いは大きかったのです。
彼らの和光時代の先輩でもあった田島貴男は、フリッパーズのデビューにあたってこうコメントしています。
「僕は日本のパンク・バンドにあまりパンクを感じたことがないのだが、フリッパーズ・ギターには非常にそれを感じる」
彼は誰よりも先にそのことに気付いていました。その言葉を聞いて、僕は確信できた。パンクの反抗的な精神が流れ込んだ新たな都市型ポップスを形にしていたのがロリポップ・ソニックというバンドだったのです。
次回「フリッパーズ・ギターがいた時代、終わらない「夏休み」の日々」は7月7日更新!