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2017.07.05

[書評] プルーストと過ごす夏(アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他)

 ネットが興隆する前から、読むべき何冊の本、といったテーマの話題はあったものだが、ネットの興隆以降はさらに、その冊数に対して、その前提に何かしら、知識や読書経験というものが数量的に伝達できるかのような錯覚があるように感じられる。しかし、読書というのは、おそらく、読む、今読む、自分の人生をその読書の時間に費やす、そうした、その時の私とその一冊の本の関係のなかに、あたかも愛の行為というものがそうであるように、あるものだ。そこだけで言うなら、読むべき本などというものはなく、今読まれている本と繰り返し読み返される本しかない。それはいつも一冊の本として現れる。

 とはいえ、そうした一冊の本たり得る本は、人の経験というものを人々として広く見渡すなら、古典と呼ばれる書籍のなかで数冊となる。そうした数冊がなんであるかと考えるなら、循環して、読むべき数冊の本という幻影に捕らわれてしまうのもしかたがないことだ。
 ただし、それをより強く、先の愛の行為の比喩でいうなら、愛の言葉のように、言葉と自分の、読むという関わりのなかで見つめ直すなら、私たちの声を形づくる言葉の文学というものに行き着く。声だけではない、私たちの思いを形づくる言葉の文学でもある。それを近代の国民の言語と文学で問うとき、どのような文学が私たちにあるのだろうか。漱石の数点だろうか。樋口一葉の一冊だろうか。
 フランス文学で言うなら、バルザックもフローベルもあるだろう。だが、近代人としてのフランス人自身の言葉と思いというものに立ち返るときにまず現れるのは、『失われた時を求めて』であり、そしてそれはほぼ同義にプルーストだろう。その共有的な経験のあり方をちょうど恋文のように語りだすのが、本書『プルーストと過ごす夏』(参照)である。書き言葉に編集しなおされているが、元来はヴァカンスの夏の二か月の日々に放送された、八人へのインタビューを再構成したしものだ。ひとりひとりが、さまざまな側面でプルーストを語り出すと共に、プルーストがおそらく願ったようにそのひとりひとりの存在とその言葉という経験が開示される。
 例えば、クリステヴァは彼女の存在の秘密を明かすかのように語り始める。

 私は自分の生まれ故郷の国、ブルガリアでフランス語を学んだ。私のフランス語が十分に上達すると、先生は私にいくつかの重要なテクストを読ませてくれ、私は次の二つのフレーズを通して、プルーストを知ることになった。一つは「美しい書物は一種の外国語で書かれている」であり、もう一つは「作家の仕事、作家の使命とは、翻訳者のそれなのである」だった。
 この二つの言葉は、私の中で〈アルファベット祭り〉と奇妙に共鳴し合った。アルファベット祭りとは、ブルガリアで行われる、世界でも類を見ない独自のイベントである。毎年五月二十四日、小学生だけでなく知識人、教師や作家までもが、体にアルファベットの文字を一つつけて街を練り歩くのだ。私もブラウスにピンで文字を留め、一個の文字と化した。私は文字を持っていた。私の体の上に、自分の体の中に。言葉が自分の体となり、私の体が言葉となった。私は歌の中に、香りの中に溶けていた。沸き立つ喜びのなかに溶けていた。
 プルーストのこの二つの言葉を読みながら、私は、自分が経験したことのある何かをこの言葉が語ってくれているような気がした。それは、暗号で書かれた書物という肉体の中に入っていくかのように、自分自身の奥底へと入っていき、それを何かほかの本へと翻訳し、ほかの人にも読んでもらい、共有するという経験に通じる何かだった。つまり、それはテキストを解釈するということに他ならない。(後略)


 作家は、プルーストの考えによれば、最も秘めやかな自己の内部の官能性渦巻く宇宙の中に住んでいる。斬新な哲学と滋味あふれた、いつ果てるともしれないその長いセンテンスを通じて、プルーストは意味と感覚の揺らぎを、その多様性を印象づけることに成功している。プルーストのエクリチュールを特徴付けるこの万華鏡のような運動は、単なる記述的文学への抵抗を示していると同時に、勃興しつつあった映画術への流行への抵抗でもある。そうした万華鏡のような運動、内的体験に強く突き動かされていたプルーストは、線状的なものである映画は、本質を取り逃すと確信していた。ただ文学という芸術だけが、記憶と隠喩を戯れさせるあの長いセンテンスのおかげで、この本質を取り込むことができるのだ。(後略)

 もっと短い引用にしようと思っていたのに、クリステヴァの語りに引きづられてしまったし、その彼女を言葉の経験と批評の悦楽に引きだしたのはプルーストであった。言うまでもなく、すでにプルースト的な思惟の運動に取り込まれているのである。傷つきやすく見えるはずもない批評家の、大人の肉体がブルガリア人の少女に変容していく。プルーストの読者であることの呪術でもある。狡噛慎也もその一人だった。
 プルーストの読者であることについて、アドリアン・グーツはこう語る。

 マルセル・プルーストがフランス文学の偉大な「古典」となり、それどころかフランスでもっとも偉大な作家となるだろうとは、プルーストの埋葬された直後には誰一人思うものはいなかっただろう。彼は最高の地位にのぼりつめたいという野心を持っていたが、現実にそうなったと知ったら、さぞ驚いたに違いない。
 さて、それでは読者は? 畢竟、読者とは『失われた時を求めて』の中に作中人物として登場することのない唯一の参加者である。語り手は、この本の読者が最終的に一人一人自分自身を読む読者になってほしいと望んでいる。だからこそ、非常に多様な読者たちが、それぞれこの本は自分のために書かれたのだという感想を抱くのである。(後略)

 私とは何か、私という感覚は何か。それが言葉と読むという関係を介してどのように進化させられるのか。つまり、それが読書であり、プルーストという体験もであるのだろう。
 本書は、プルーストの入門書としても企画されている。『失われた時を求めて』が未読である人にとっても、まだ読み終えていない私のような人にも、抵抗感なく読み進められる。そして、読者について語り明かすことの無上の喜びに近いものが再確認できる。
 本書中の『失われた時を求めて』の引用は、既訳部分はすべて高遠弘美訳を取っている。本書が高遠訳と同じく光文社ということもあるのだろうが、本書の内容と高遠訳の美しさとの調和が感じられる。
 ついでにといってはなんだが、『失われた時を求めて』の入門書としては、岩波訳の吉川一義『プルーストの世界を読む』(参照)も面白かった。高遠氏はプルーストはなんの余談なく読み進めてほしいとしていたが、吉川氏の同書は、あえてその最初の「コンブレー」だけを取り上げ、プルースト文学の奥行きを精緻に取り上げていた。
 つまるところ、『失われた時を求めて』はその物語を知ればよいというものではない、ということの意味を、『プルーストと過ごす夏』と同時に上手に説明していた。もっと簡単に、ヴァカンスとはこのような読書の日々でもある。

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