当時は東欧諸国で民主化運動が起こっていた頃で、その動きは後にソ連、東欧諸国の崩壊へと向かわせることになった。ポーランドは民主化運動の最先頭に立っていた国である。そのポーランドの首都、ワルシャワからこの列車は出発していた。
それはこういうことだった。
当時の社会主義諸国では生活上必要な物資は、国家の手によって安く提供されていた。パンはその代表的なものである。その結果、国民にとってはパンを大事に食べる必要性がなくなっていた。
パンの多くがゴミにされ、この状況下でパン不足を招かないようにするために、国はパンの大量生産をしなければならなかった。
ところがそうやってつくられたパンはまずく、それが国民の怒りを買った。ますますゴミにされるパンはふえ、ますますパンはまずくなっていく。そういう負の連鎖が起こっていたのである。
チェコスロバキアなどでは、政府が国民に別荘を与える政策がすすんでいた。土地と狭い小屋をつくる組み立てキットを政府が提供し、小屋は自分でつくるというやり方だった。もっと広い建物がほしいのなら、それは自力でつくるという方法である。
この別荘を手に入れた人たちは、自分で敷地内にプールをつくることが多かった。それが水不足を招いた。水がただ同然のように安かったから、多くの人たちがプールの水を流しっぱなしにしたのである。そして水不足は、国に対する国民の怒りを高めていった。
同じようなことがルーマニアでも起こっていた。電気が安いこのから、誰も節電をしない。政府は不必要な電気は消すようにという指導をしていたが、多くの人たちがそれに従わなかった。それは電気不足を生み、しばしば起こる停電が国民の怒りを買った。
末期のソ連、東欧諸国で起こっていたのはそういう事態だったのである。
もちろん、だからといって私は政府に同情しているわけではない。そういう体制をつくり、国民が国家にぶら下がって生きる社会をつくったのは政権の側である。
その結果訪れた末期は、あまりにも悲劇的だった。もっとまともに提供しろという要求ばかりが国民のなかから巻き起こったのである。
ベルリンの壁が崩壊するひと月くらい前に、私は東ベルリンを訪れていた。
東ドイツが社会主義国であった時代から、東ベルリンは簡単には入れるところだった。まずは西ドイツの領内だった西ベルリンに向かう。そこから東ベルリンに行く高架鉄道などに乗る。
そうやって東ベルリンに入ると、駅でその日の24時まで有効なビザを売ってくれる。このビザで入れるのは東ベルリンだけなのだが、特に審査はなく切符を購入するような感じで売られていた。
滞在期間を延ばしたり東ベルリン以外の場所に行きたいときは、東ベルリンにあるインターナショナルツーリストビューローに行って、滞在先のホテルを予約する。ホテルの予約証をもって滞在申請をすると、2時間くらいでホテル予約がある範囲のビザを発給してくれる。そんな仕組みが東ベルリンにはあった。私は何度か東ベルリンに出かけたものだった。
東ドイツでも民主化運動が広がり、ベルリンの壁が崩壊するひと月前といえば、東ドイツの終焉が近づいていた頃である。その日も東ベルリンの広場で集会があり、私もその様子をみていた。
と、60歳くらいの男の人が話しかけてきた。
「日本人ですか」
「そうです」
そんな会話があり、彼は悲しそうに話しはじめた。