1987年の出会い
1987年にペニー・アーケードは下北沢屋根裏というライブハウスでステージに立ちます。
客は数十人。しかしそこにふたりの青年がいました。
和光中学時代の同級生だった小山田圭吾と小沢健二です。『英国音楽』を見て彼らはペニー・アーケードの存在を知り、そのライブにパステルズのバッヂを手作りして持ってきていました。
パステルズはグラスゴーのインディー・ポップ・バンドです。87年時点ではようやく1枚目のアルバムを出したばかり。一般的な知名度は決して高くない。それに、歌もギターも上手いわけではない。しかし、彼らの良さを認められるかどうかが、当時のネオアコ・ファンにとってのひとつの分水嶺になっていました。テクニック至上主義ではなく、演奏が下手でもセンスさえよければいい曲を作れるということの象徴でもあった。スコットランドの雪国出身でアノラックを着込んでいた彼らのような音楽は「アノラック・サウンド」と称されて徐々に愛好者を広めていきます。
パステルズのバッヂを見たら、ペニー・アーケードや『英国音楽』周辺の人たちはひと目で気付く。おそらく30人くらいしかいなかったその集まりが、そこから32人になる。ここで小山田圭吾と小沢健二はようやく自分の居場所を発見できた。これが87年の頃のことでした。
パイドパイパーハウスとピチカート・ファイヴ
ピチカート・ファイヴも青山学院大学から生まれたグループです。彼らの母体になったのは、サザンオールスターズを輩出したサークル「Better Days」。世代で言えば『英国音楽』の小出亜佐子よりも数年先輩にあたります。
当初のメンバーは小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の四人でした。彼らは学生時代からパイドパイパーハウスに通いつめていました。熱心に追いかけていたのがイギリス のコンパクト・オーガニゼーションというインディー・レーベル。そこにはニューウェイヴやテクノポップに加えて60年代のモッズやモータウンのリバイバルを追求するアーティストたちが所属していた。
そしてそのアートワークには、一貫してレトロポップなデザインが施されていました。
パイドパイパーハウスの長門芳郎は彼らのマニアックなセンスに惹かれ、世に送り出そうと思い立ちます。一方、小西康陽が高校時代に通っていた札幌の和田珈琲店のマスターが元はちみつぱい、高円寺のジャズ喫茶ムーヴィンの店主だった和田博巳だという繋がりもあった。
和田博巳から細野晴臣にデモテープが渡り、八五年、ピチカート・ファイヴは細野晴臣のプロデュースによってノン・スタンダードから12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビューすることになります。
僕は先行していた複数のグループを担当していたこともあり、ノン・スタンダード時代の彼らの制作にはほとんどタッチしていませんでした。
ノン・スタンダードからのピチカート・ファイヴの二枚目のシングル「イン・アクション」のときには、小西康陽はコンテムポラリー・プロダクションを設立したデザイナー、信藤三雄に声をかけます。信藤三雄は、それ以前、スクーターズというオールディーズのタッチとニューウェイブの音作りを融合させたバンドのメンバーとして活動していました。彼もコンパクト・オーガニゼーションのアートワークを愛好していて、だからこそ小西康陽と同じ価値観を持つ同士として深く結びついた。ふたりはその後長年にわたってタッグを組むことになります。
87年にピチカート・ファイヴは移籍したCBSソニーからファースト・アルバム『カップルズ』をリリースします。結果的にはこれが4人での最後の作品になり、次にグループはレッド・カーテン~オリジナル・ラブの田島貴男をヴォーカリストに迎えたアルバム『Bellissima!』を88年にリリースします。
しかしこの頃のピチカート・ファイヴの作品は、決して芳しいセールスをあげることはありませんでした。
次回「アフター・パンクのロリポップ・ソニック」は7月6日更新!