今回紹介する本はこちら。
京大工学部を卒業し、ニューラルネットワークの研究やブレインウェア(脳型コンピュータ)の開発に携わっている研究者が書いた、「人工知能に対する世間一般の誤解を解消する」本。
もくじ
なぜ人間は人工知能を作ろうとしているのか?
日本を代表する国民的な漫画「ドラえもん」は、その作品の中で、数々の「名言」を残してきた。その中で、準主人公の奨学生男子である「のび太くん」はの残したあるひと言が、設定上は小学生の何気ないひと言とはいえ、人類共通の願望を象徴しているように感じられる。
「勉強して発明するんだ。勉強しなくても、頭の良くなる機械を」
この台詞は、「のび太くん」が、勉強することの大事さを痛感した後につぶやいたひと言だった。この「のび太くん」のひと言は、世界中の多くの研究者が、人工知能を研究するモチベーションにきわめて近いのではないかと筆者は感じている。
これは人工知能に限った話ではないが、人間が技術を発展させたり、一生懸命働いたりするのは、「ラクをするため」である。
究極的な話をすれば、私たちはラクをしたいがためにラクではないことを一生懸命やっている生き物だといえる。
現在の人工知能は「弱い人工知能」である
本書によれば、現在の人工知能ブームは、歴史的に見れば3度目のものになるらしい。
そして、昨今は「人工知能によって職が奪われる」などという文言をよく目にする。しかし、これは著者に言わせれば、ちょっと的外れなようだ。
「人工知能が小説を書いた」
「人工知能が作曲をした」
「経営判断を下す人工知能」
「あなたの進路、人工知能に委ねませんか?」
こういった記事を毎日のように目にしていると、まるで「人工知能が私たちの社会を支配してしまうのではないか」という恐怖感を感じる人が少なくない現状も、理解できなくない。特に、ニュース記事というものは、読者の目を引くタイトルでなければ読んでもらえないということもあり、どうしても、期待感や恐怖感をあおるように書かざるを得ないというのも事実であろう。
その昌子に、これらのタイトルの記事が、もし、以下のように書いていたとしたら、どれくらいの人が注目するだろうか。
「日本語を確率的に並べ替える機械を使いながら、研究者が小説を書いた」
「作曲ツールを使って、人間が作曲した」
「経営判断に悩んでいて、ウェブで検索したら、ヒントが見つかった」
「希望する会社の条件をいくつか選択して検索したら、条件に合う会社がマッチした」
同じく最近読んだ以下の本にも同じようなことが書いてあったが、現在開発が進められている人工知能というのはコンピュータが独立した意思や感情を持っているのではなく、ある特定の分野において人間の手をあまり借りなくても自分で学習できるようになったということに過ぎない。つまり、まだツールなのだ。
超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト
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そのため、「人工知能が職を奪う」「人工知能が人間を支配する」という不安は、まだまだ当面は無用だといえる。
もう少し細かく言うと、人工知能は「強い人工知能(AI)」と「弱い人工知能(AI)」に大別できる。そして、過去から現在に至るまで、まだ実用段階に至ることができそうなのは前者の「弱い人工知能」でしかないのだ。
おもしろい逸話が書かれていたので引用する。
現在、将棋においても囲碁においても、コンピュータの力は人間を凌いでいるといわざるを得ないが、いまだつけ入る隙があり、「完全解明」とはいたっていない。だが、それが「完全解明」に至ったとすれば、棋士にとっての機器ではないかと普通は考える。しかしながら、こうした記者の質問に対し、羽生善治三冠が答えたインタビューの様子は以下の通りであったという。
記者によると、相手が強くなればなるほど、将棋が難しくなればなるほど決まって羽生は嬉しそうに見えるという。では、なぜ羽生三冠は強くなる一方のコンピュータに対して何も恐れないのだろうか。その答えは、記者の「将棋がコンピュータによって完全解明されてしまったらどうするんですか?」という質問に対する回答の中にあったという。
「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」
その瞬間に将棋は新しい命を与えられ、何もかもが一からやり直しになるということを、羽生三冠は理解しているのである。
羽生善治三冠の「ルールを変えればいい」という指摘は、まさに、コンピュータ(「弱い人工知能」)の本質を見事に突いているといえる。あくまで、人間にとっての「道具」である「弱い人工知能」は、それ単体では、自分の判断で動くことができない。すなわち、「ルールを自分で作り出す」ということができないのである。
なぜ、強い人工知能は生まれないのか?
では、強い人工知能が私たちが生きている間とかに誕生するリスク?はないのだろうか。
少なくともいまの段階では可能性は低い。というのも、そもそも「知能とは何か?」がまだ明らかにされていないからだ。
もう少し具体的に言うと、いまの人工知能は「自ら意味を作り出す」ことができない。
たとえば、人間にとって「椅子」とはなにかを考えてみよう。
一番最初に思いつくのは学校や会社にある椅子だが、ベンチや、ソファやリクライニングシートなどさまざまある。それだけではない。
脚立やテーブル、ちょっとしたヘリ、岩など、人間は「椅子の定義」にとらわれず、適当な高さやちょっとした平たさがあれば、どんなものでもすぐ「椅子」に変えてしまう。椅子ではなかったものに「椅子」という意味を見出してしまうのである。
「弱い人工知能」は、どうしてもこれができない。弱い人工知能が椅子を認識するためには、「椅子とは何か」を厳密にて意義付けなければならないからだ。
もっと深く考えると、人間がなぜ椅子に座るのかといえば、それは「疲れたから」「足が痛いから」「ゆっくりしたいから」などの目的がある。しかし、肉体的に疲労がないコンピュータには、そもそもこうした「目的」がない。だから、自ら椅子という意味を付与することができないのだ。
じつは、こうした意味の付与(本書内では「『物語』や『関係』を無限空間の中で自在に作り出す」と表現している)に関する研究はまだほとんど着手されていないので、現段階ではコンピュータがこうしたことをできるようになることは考えられないのである。
ニューラルネットワークについて
まだ実現には程遠そうな「強い人工知能」はひとまず置いておいて、現在、すごい勢いで研究が進んでいる「弱い人工知能」について理解するには、ニューラルネットワークの知識が欠かせない。
ニューラルネットワークというのは、簡単に言えば、人間脳脳細胞のネットワークを模倣したネットワークのことである。最近になってようやく人間の脳みそのネットワークの構造がわかってきたので、それをマネできるようになってきたのだ。
ニューラルネットワークを理解するには、まず人間の脳内ネットワークの仕組みを理解する必要がある。本書ではその説明もされているのだが、これまたすんごく簡単に述べると、
すごくたくさんの神経細胞(ニューロン)が複雑に結びつきあいながら、信号を受け取ってON/OFFを繰り返し、その組み合わせや順番によって物事を認識している
と考えていただければ、(たぶん)間違いはないと思う。
コンピュータがニューラルネットワークで学習する際、3つの問題点があると本書では述べられている。
1.線形分離可能なデータにしか用いることができない
2.特徴を人間が教えなければならない
3.精度を高めるには膨大な数のデータを学習する必要がある
グーグルは2012年に、ディープラーニングという手法でコンピュータが猫を認識できるようになったと発表したが、その際には100億個のニューラルネットワークと、ウェブ上にある猫の画像を使ったとされる。
つまり、科学技術の発達とビッグデータの蓄積により、2.と3.の問題がクリアできるようになってきたということなのだ。
ただ、問題は線形分離(コレは説明しようとすると結構難しくなるので、気になる人は調べて欲しい)できないことについてはなかなか学習させられない。これがニューラルネットワークの現在の限界とも言える。
そもそも「知能」ってなに?
本書では「人工知能の誤解を解消する」のも目的の一つだが、もうひとつの目的は「知能とは何か?」を読者に考えさせることだ。
知能を理解するには、次のようなことを知らなければならない。
・そもそも人間は世界をどのように知覚しているのか
・そもそも人間の脳は世界をどのように認識しているのか
・そもそも生命や意思はどのように区切られるのか
これらを知るには、理系の知識だけではなく、生物学や哲学など、もっと広範にわたる知識(最近よく言われるリベラルアーツ)が必要になってくる。現在の人工知能研究者は、逆にこれらに対する理解が欠けている(知能とは何かということに対する理解が足りない)からこそ、知能を作ることができないのである。
このように、単に人工知能について解説されているだけではなく、知能、知覚、生命、意思、感情など、人間を人間たらしめる要素についての深い見識による気づきを得られる一種哲学書のような側面もあるので、気になる人はぜひ読んでみていただきたい。
今日の一首
67
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
周防内侍
現代語訳:
短い春の夜の一時の夢のような手枕で
つまらないうわさが立ってしまったら、悔しいですわ
解説:
後記
最近思うのは、「深いものを浅くすることはできるが、その逆はできない」ということだ。
今回紹介した本は比較的読みやすいとはいえ、ちょっと数式が入ってくる部分があったり、堅苦しい部分があるので、万人に読みやすいとはいえない。しかし、それは書き方次第なので、同じような内容を寄り万人向けにサイズダウンすることは可能だろう。
しかし、その逆はできない。もともとも著者の持っている知識や経験が浅いと、深みを出そうとしてもそれは無理な話なのだ。
私は今後、実用書は「なにか深い専門分野を持って難しい論文を書ける人が、万人向けにわかりやすく書いた本じゃないと売れなくなる」ような気がしている。
現状では、いわゆる「ビジネス書作家」と呼ばれる人たちがいて、おおむねそうした人々の本は内容が薄かったりするのだが、そうした本はもう売れなくなるだろう。もっと本当の専門家で、本人に書かせると難しくなっちゃうけど、ライターや編集者の力でそれを解きほぐす本が価値を持つように感じている。
なので、売れているビジネス書もチェックするが、今後はこういう、固くて普通の人がなかなか手に取らない人を探していこうかと考えている次第。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。