ダースレイダーの視点で語る私的MCバトルの証言「MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門」

MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門

リズムと音に乗りながら、まるで歌詞のような即興で言葉を繰り出し韻を踏む人たち。なぜ我々は魅せられるのか? そこに秘められた歴史とは? 日本語ラップを読み解く決定版の一冊!

フリースタイルダンジョン(以下、FSD)によって盛り上がるMCバトル(及びラップ)ブーム。
そういう盛り上がりの中、シーンを身近で見てきたダースレイダーが書いたのは私的日本ラップバトル史。
非常に面白かった。



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ルール次第

今や当たり前になった格闘技の世界。

ルールがまだ定まっていなかった黎明期は、各団体が手探りで最適のルールを探っていた。

たとえばグラウンドでの顔面パンチの有無やオープンフィンガーグローブの是非。
倒れた相手へのケリ、アキレス腱固めの禁止。
何分戦うのか、そもそも関節技はありかなしか、リングを覆うのはロープか金網か。
ルールや環境ひとつの有無で試合結果が変わる可能性がある。

よくPOUND FOR POUND*1というが、たとえ選手の体重を据えて均一にして戦ったとしても団体ごとにルールが違うのだから、ルール次第で強さはどうとでもなる。
メイウェザーとパッキャオとデ・ラ・ホーヤとワルーエフとタイソンとクリチコが全員全盛期だとして、その環境で戦い誰が勝ったとしても、それはそのルールに最も適応した選手だったから勝った。違うルールなら結果は違うかもしれない*2

POUND FOR POUND

さて、MCバトルとはそもそもなにか。
これは即興も含むラップによるバトルということになります。いまでこそMCバトルがどういうものかをイメージするのも容易になりましたが、日本においてそこに至る道とはどんなものだったのか。

本書は、まだ若かりしダースレイダーがライブのあとに行われていたフリーマイク(ライブ終わりに飛び入り参加できるMCバトル)に参戦してはボコボコにやられた黒歴史やラップバトル黎明期の思い出から始まる。

まだシーンが整っていなかった時代からB-BOY PARKが起き崩壊し、UMBが始まり、KOK、高校生ラップ選手権があり、FSDの放送、MCバトルがアンダーグラウンドからお茶の間へと登場し、遂にはMステに爪痕を残すに至る。

そんなMCバトルの歴史を見てきたダースレイダーは、自身の視点からその裏側や自身の経験を語る。
隅々に人のよさがにじみ出ていたり、インテリジェントが感じられるのにオープンマイクに飛び込んでボコボコにされるのはなんかイメージが違うな~とか思ったりするが(自分もライブではモッシュで暴れてたタイプだからそういうものか)。

ヒップホップ的なるもの

本書で「ヒップホップ的なるもの」に対するダースレイダーのこだわりが、隅々に感じられるところも興味深い。
これこそが本書の根っこかもしれない。

UMB*3の知名度が上がり、参加MC人口が増えてきた下りから以下。

それこそDVDやネット配信などでバトルに興味を持って予選大会に出るようになった人というのは、地元のシーンと切断されています。すると、予選では、その地域のヒップホップの現場にいない新しい人と、ずっと活動していた古い人が対戦するようになりますし、もちろん新しい人同士で当たることもありえます。
このように、それこそ「初めまして」同士のラッパーが対決すると、普段の活動を背景にした形での言いたいことというものがなくなってしまいます。そうすると、バトルのテクニックしか判断するポイントがなくなってしまいます。しかも、観客にも新しい人が増えていきます。すると、観客の側でもプロップス=地元への貢献度を判断するという尺度がなくなっていきます。
こういう観点から、よくも悪くも、バトルのテクニックを純粋に追求するというバトルMCのスタイルが生まれてきます。

今やFSDなど、テレビ用になったMCバトルは、コンプライアンス(放送禁止)で守られたものであったり、技巧などを競い合うスポーツライクなスタイル。
その根本にあった「バトルを戦う個人のコンテクスト」を持ち込むかどうか、そこにリアリティを持ち込むかどうか、というところの是非がある。
テレビ向けのエンタメとしての戦いの是非というか。

判定員として、司会として試合を側で見てきたダースレイダーだからの煩悶こそといえるかもしれない。

さらにFSDで行われた漢vs言xTHEANSWERを挙げて

言xTHEANSWERに代表させるのも申し訳ない話ですが、「言葉の重み」以前に、よし悪しは別として、若手ラッパーたちが「ステージと現実は別」という新興バトルMC的な感覚を体現しているところにポイントがあります。いわゆる無礼講と近いですが、会社の無礼講を真に受けて社長の頭をいきなり殴ったりしたら大変なことになってしまいます(笑)。
リアルMCの感覚として、これが試合前後でも同じ態度を通していれば、生意気なやつだということで一貫性があるのですが、若いバトルMCは試合以外では非常に礼儀正しい。
(中略)
評価されるのは荒々しさそのものというよりは、そういう表現をするうえでの必要性や一貫性です。ヒップホップという価値観から離れることでこうした背景は必ずしも重要視されなくなりました。

と語る。

「バトルはあくまでバトルであって現実を持ち込まない」というスポーツライクなMCバトルにある「スポーツ競技的なるもの」と、その生き様や背景や関係性を持ち込むリアル系のバトルの「ヒップホップ的なるもの」の合間の呻吟。
人口が増えるのは嬉しいが、それで全体の質が落ちる、変化することに対する危機感も同時にある。

どこかのブログで
「ラップが流行るのは嬉しいけど、ヒップホップってのはそーじゃねぇんだよなー」
と書いている人を見かけたことがあるが、根本は近いかもしれない。

これが格闘技であれば、選手に歴史や背景があろうが、要は肉体が勝ち負けを絶対的に支配をする。
野球なら、にわか広島ファンが増えても、試合の結果は明確に出るし、選手はどこまでもプロ。
競技人口の増減でコンテクストが変化するわけではない。
にわか広島ファンが増えてもホームランはホームラン。
スポーツは明文化された明確なルールがあるからこそ、どこでも同じ競技が行え、どれだけ離れた国のチームでも対戦できる。

対して、MCバトルの場合は元々がスポーツライクなものでない。
それが、現在人口が増えることで旧来的なコンテクストが断絶し、技巧を競うスポーツライクなものになりつつある。

MCバトルにおいて、コンテクストの有無は戦いの中に大きく影響する。
だがコンテクストはルールに出来ない。

「母親や親類縁者のことは話題にしてはいけない」
「過去の因縁は戦いに持ち込んではいけない」
「○○は☓☓とこういう事件があったが当事者でないなら言ってはいけない」

こういったことに代表されるコンテクストレベルの概念は、ルールに出来ず、MCの環境や年齢、知識によってその考え方や捉え方は異なるのもまた当然。
倫理観や捉え方、姿勢でどうとでも変わるし、観客によっても変わる。

MCバトルは、肉体や年齢を問う格闘技と違いどんな年齢でも戦えるし、どんな経歴でも勝てる可能性がある。
同じルールで戦っているように見えても、ルールで決められるのはあくまで大まかな概要。

勝ち負けに関しても審査員や観客が必ずしも同じパラダイム(価値観)を共有しているとも限らない。
明文化できなからこそ難しい。

ひとつのワードに対して良しとするMCと良くないというMCが戦えば自然とそこに差ができる。
それが自分の曲を作るだけならどんな価値観でも問われないが、それによって勝敗を決めるとなれば話が変わる。

にわか

だが人口が増えていけば当然のごとく明文化しなければ伝わらない部分は増えていくのは自然なこと。
仮にスポーツライクなMCバトル(ローコンテクスト)を否定して個人の背景などを重視したリアル系(ハイコンテクスト)のMCバトルのみに固執するならMCバトル人口がこれ以上増えることなく衰退していく、もしくは「ラップ的なるもの」の是非によって分裂する可能性も出てくる。

MC漢 vs 鎮座。
こんなラオウvsジュウザみたいな戦いをどこの部分で判定するのか、と。
最初が漢の勝ちだったのに「延長だな」って言いだしておかしな感じ。
こうなると戦いもスポーツライクではなく、すっかりエキシビジョン。
「まぁ、楽しいからいいや―」ってスポーツではない話ですし。


MCバトルは観客の判定(歓声)で決まることも多い。

「昔の観客はよかった」「見る目があった」

コアで「ヒップホップ的なるもの」を共有できる観客相手だからそんな観客の「見る目」で成立していたわけだが、「延長戦を見たい」と判定が割れる場合もあるし、上の漢vs鎮座のように後半で追い上げて鎮座が勝ってしまうともはや勝利がよくわからない。
そもそも観客の声で優劣が決まってしまうという曖昧さはコンテクストを共有する限定的なコミュニティでしか成立し得ない。

だからといってスポーツライクにルールで固めて「ヒップホップ的なるもの」を拒否するのも違う。
本来的であるか否か。


FSDによってにわかファンが一気に増えた。
自分も古くからラップを聴いていたわけでもなく、FSDの数年前から聞き始めた程度なのでにわかに入るだろう*4
なので「ヒップホップ的なるもの」を完全に理解できているかいないかといえば疑問もある。

とはいえ、にわかファンは、今はにわかでも、ファンを続けていればやがて本当のファンになっていく可能性を持つ。
それを昔からのファンが「にわかは消えろ」と排他すれば、そのジャンルは衰退するしかない。
「お前はBiSHばっか聴いてんだからラップは聴かなくていいよ」とラップ界隈の方が言うなら、勝手に内輪でやってろよと言うしかない。

ジャンルを腐らせるのは古参、とはよく言ったもの。


明文化の難しい「ヒップホップ的なるもの」が果たしてどこまで広くに共有できるのか。
古参がにわかを受け入れ、その価値観を共有し誘導できるのか。

ラップに興味を持つ競技MC人口、リスナー人口が増えてきたとき、必ずパラダイムは変化していく。
果たしてそれをどこまで許容できるか。

将棋の奨励会のように、狭き門を据えてエリート教育のピラミッドによるプロ制を敷いているジャンルであれば「ヒップホップ的なるものを持っていなければMCではない」ということも可能かもしれないが、広く門戸を開いているならそれもまた難しい。
ひとが増えればその中で新たなコンテクストが産まれ、旧来のコンテクストとぶつかるのも必然。
明文化できないからこそ変化するし、変化するからこそ面白い。

今は「ヒップホップ的なるもの」の分水嶺なのかもしれない。
この本を読んでそう思った。

MCバトルに少しでも興味があるなら読んでおくと楽しみ方が深くなるダースレイダーの真摯なラップ愛溢れる一冊。
FSDの副読本としても間違いなく見方が変わるのでオススメ。

MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門
KADOKAWA / 中経出版 (2017-06-22)
売り上げランキング: 4,942

*1:体重差などの条件をなくし単純な強さだけを比べた時の最強

*2:なんだかんだタイソンが勝ちそう

*3:ULTIMATE MC BATTLE。2005年から行われているMCバトル大会

*4:RATMとかBECKとか、いわゆるミクスチャーしか聴いてなかった