目次
1章:君でないひと
2章:グリーティング・カードとイコン
3章:四人称
4章:濃厚な個人
5章:共振
6章:擬似同化
7章:なぜ「君」と書かれるか
8章:ゼロ人称
9章:短歌が本質的に抱える違和感1
10章:短歌が本質的に抱える違和感2
1章:君でないひと
塗り絵のように暮れてゆく冬 君でないひとの喉仏がうつくしい 大森静佳『てのひらを燃やす』
君じゃない人と歩けば降りそそぐこれは祝福の桜じゃないな 千種創一『砂丘律』
君でなきひとに会うにもバス停にひかり浴びつつ待たねばならぬ 染野太朗『人魚』
「君でないひと」「君じゃない人」「君でなきひと」……短歌でこのような表現を見るたびに違和感を覚えます。意味が通らないというわけでもなければ、短歌の表現としてまずいということでもないのです。むしろ短歌の表現として至極まっとうだからこそ、短歌というものが本質的に抱える違和感をあぶりだしているようなそんな感じがするのです。
それがどんな違和感かというと、この「君」は本来ならば三人称で把握されるべきではないのかと思ってしまう、というものです。
「君でないひと」を見ている時の私にとって「君」は第三者です。「君」は二人称ではなく三人称で呼ばれるべきではないでしょうか。
確かにそうはならないケースは存在します。「君」に対してそれを報告している場合です。それならば一首の言葉全体が「君」に向けられているわけですから、呼称が「君」となることに何ら問題はありません。けれど一首目の大森歌はやや微妙なのですが(私は呼びかけとは思いませんが)、千種歌と染野歌は独白の可能性がかなり高い。特に千種歌の結句であるところの語尾「じゃないな」は明らかに「君」には向けられていません。
言葉の向かう先でないにもかかわらず「君」と呼ばれるということ。これは引用した三首だけに見られるものではありません。たとえば大森の同歌集から別の歌を引いてみましょう。
もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
もし「君と見に行ったね」などなら「君」に呼びかけているわけですから、「君」でいいのですが、この場合は単に事実を記述しているのみです。だから適切なのは以下ではないでしょうか。
もみの木はきれいな棺になるということ 電飾をA[彼、彼女、特定の人物の呼称]と見に行く
これは小説の地の文で考えると分かりやすいのではないかと思います。一人称小説で視点人物以外の登場人物が走った場合、一般的に「君は走った」とは書かずに「Aは走った」と書きます。もちろん三人称小説でもそうなります。二人称小説の主人公が走った場合は、確かに「君は走った」ですが、少なくとも現代日本では二人称小説自体が例外的と言えます。
けれど肝心なのは適切な方がよいとは限らないということです。これまで引用した歌はすべて「A」と書かれるより「君」と書かれている方が、何となくしっくりきます。なぜでしょうか。
解答例:短歌では「君」とあったら恋人と受け取るのが半ばお約束のようになっている。だから恋人であることを示すために(冒頭に引用した三首はすべて、少なくとも染野歌以外の二首の「君」は、恋人で間違いないだろう)、「君」と書いた。人称なんてどうでもいいことではないか。
上記の解答を間違いとは思いません。むしろそれくらいに考えて割り切ってしまう方が、いいような気がします。けれどここは敢えて少し回り道をして考えてみたいと思います。以下の議論はそもそもこんなことを考える意味が分からないという方には、全くの蛇足以外の何物でもないかも知れません。
2章:グリーティング・カードとイコン
前章で「君」についての違和感について述べましたが、私は「君」について、もう一つ別の違和感を持っています。それは「君って誰だよ」ということであり、もっと言うなら「君って私じゃないの」と言いたくなる思いです。
これはむしろ前章で引いたような歌ではなく、正しく「君」に呼びかけている歌でこそ生じうる違和感です。
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子『森のやうに獣のやうに』
これが私宛に投函された手紙の本文中にあったら、基本的には「君」=手紙の読者、すなわち私ということになります。けれど短歌ではそうならない気がする。ならない気がするが、ならなければならない気も一方でしてそれが気持ち悪い。でもやはりならないと思う。
なぜならないと思うのか。なぜ「君」=私、「君」=読者ではないのか。
小説家・橋本治は著作『風雅の虎の巻』で、短歌についてこんなことを書いています。
短歌っていうのはグリーティング・カードですね。贈ったり贈られたりする。貴族っていう、儀式、様式の中に所属する、関係だけで人生を演じていたものが作り上げた社交芸術ですよね。だから短歌というものは、それが流通する社会がなければ成立しない。(橋本:二五八頁)
橋本は古典に造詣の深い書き手で、だからここまでは古典和歌を意識した記述と取れます。古典期において短歌は本質の部分でグリーティング・カードであったということです。つまりある程度、手紙のように明確な受け手がいたということになります。
つまり「君」=読者は、かつてはありえたし、むしろそれが中心だった、というわけです。
さて肝心なのはこの続きです。
だから、お城や御殿がなくなって、それが流通する場を失ってしまった現代短歌というものは、グリーティング・カードであることが不可能になって〝聖画(イコン)〟になるしかない。どんどん個人的な深まりだけを見せて、言葉に濃厚な意味がこめられるようなっちゃったけど、でもそのかわり、そんなに濃厚になってしまった個人とわざわざ日常的な関わりを持とうとする社会なんて、〝結社〟の他にはない。だから、作者の呪詛は作品の中で清められて聖画(イコン)になっちゃった。(橋本:二五八-二五九頁)
「聖画」という語の内、シニカルなニュアンスで用いられている「聖」の部分はひとまず脇に置いておきましょう。注目したいのは「画」です。イコンは絵です。かつてカードの受け取り手だった読者は、現代においては絵画の鑑賞者に変貌を遂げたのです。
たとえば暑中見舞いを例にとって考えます。それに切手を貼って投函した場合はグリーティング・カードとして機能しますが、額縁に入れて壁に掲示してしまえば鑑賞を目的としたアート作品となります。壁に「暑中見舞い展」とでも書いておけば、やがて客がやってくることでしょう。グリーティング・カードからイコンへの転換とは、贈ることから掲示することへの転換であると言えます(※)。
グリーティング・カードは送り手と受け手を架け渡す橋のようなもので、それを通じて送り手と受け手の間には関係性が生じます。けれどイコンの場合、送り手から伸びる橋は途中で途切れます。川に突き出した桟橋のようなものです。読者は川の向こう岸からその桟橋を眺めることしかできません。もちろんコミュニケーションを取ることはできますが、その取り方は、グリーティング・カードの場合とは全く違ったものになることでしょう。
※:当然のことながら、グリーティング・カード→イコンという流れをそのまま短歌史の流れとして受け取る短絡は避けられなければなりません。けれど本論ではその辺りのことは問題ではなく、短歌にはグリーティング・カード的な受容のされ方と、イコン的な受容のされ方の二通りがあるということ、そのことを確認できれば十分です。
3章:四人称
読者は、作品、書物の世界を、外からのぞき見ていることになる。ことばも、自分に向けられていることが実感されないで、立ち聞きに近いものとして了解される。人間の理性がこうした困難な伝達に興味をいだくようになっているらしいから、読者は一般の聴者以上の知的満足、感銘を受けることが可能になる。その興味は、表現されている事柄とは、多くの場合さほど関係がない。(外山:五六頁)
この文章は『思考の整理学』などの著作で有名な英文学者、外山滋比古のエッセイ『第四人称』から引用しました。その名の通り、四人称というものの存在について言及した著作です。四人称とは何でしょう。
第一人称、第二人称、第三人称のコンテクストから独立した表現の受容者である。読者も第四人称であるし、話を又聞きする人もそうである。非当事者がことばの伝達にかかわる場合、すべて、第四人称的性格を帯びている。(外山:三-四頁)
たとえば私が喫茶店でくつろいでいるとします。隣のテーブルに二人組がいます。Aが主な話し手で、向かい合うBに対し、その場にいないCという人物の愚痴を延々と言い続けています。私はその話にいつしか耳を傾けています。この時、Aを語り手=一人称とするなら、Bが二人称、Cが三人称で、私が四人称となるというわけです。
イコンの鑑賞者である現代短歌の読者も、この四人称の位置にいることは間違いないでしょう。そう考えると、「君」=読者が成り立たない理由がはっきりします。読者(鑑賞者)は非当事者です。むしろ非当事者であることが保障されることによって、読者が生まれるのだと言ってもいい。
読者の立ち位置については、日記や手紙で考えると分かりやすいと思います。日記は読まれることを前提としませんし、手紙は対象を限定して書くもので、見えない読者なるものを想定して書くものではありません。けれど第三者が日記や手紙を盗み見してしまうことは十分にありえます。もしかしたら現代短歌はそのようなものとして理解できるかも知れません。読者はけして自分には向けられていない日記や手紙を盗み読むのです。
盗み読みする日記や手紙は面白い。けれど実際に盗み読みする機会は滅多にないし、下手をすれば犯罪にもなりかねない行為です。だから公然と盗み読みを体験できる装置として現代短歌がある。作者はあたかも読者のことなど想像もしないかのようなそぶりをして、私(日記)や君(手紙)に向けて言葉を紡ぐ。読者はそれを読んで盗み読みの欲求をみたす。作者はより強く読者の興味を引くように様々な技法を駆使し、内容を捻ったりもするが、あくまでも盗み読まれるのが目的だから、読者を意識しているそぶりは見せないようにする。
確かに短歌にはそのような側面がある気がします。しかし読者にとっての短歌の本質はそこでしょうか。そうだとしたら自分と関係のない人物が発信するミニブログやSNSのようなものと、本質的には何ら変わりのないものになってしまうのではないでしょうか。
4章:濃厚な個人
先ほど「聖画」の話をした際、「聖」の部分は検討から外しました。今度はそれについて考えたいと思います。
橋本は「濃厚になってしまった個人」と言っていますが、この「濃厚」とは何か。
小説家の保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』で小説について書いているものが、実は非常に現代短歌的だと思うのでそれを引いてみたいと思います。
小説とは、〝個〟が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会
化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかという
ことで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人
から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。(保坂:一六頁)
社会化という言葉が出てきましたが、すべての人間関係は社会関係と言えます。家族間であってもそこには社会性が生まれます。だから頭に浮かんだことをすべて言うようなことはありえないし、いくら関係が近くてもいや近いからこそ口に出さないようなこともある。たとえば「感情」というのがそれでしょう。そこに生じても口にすることが許されない感情、ないことにされる感情。たとえば結婚式の最中に新郎の友人のことを「ちょっといいな」と思ってもそれを口にする新婦はいないでしょう。それは社会的に捨象される、なかったことにされる感情です。
あるいは自分独自の認知。「夕日がきれい」は共感されても「夕日に照らされたエアコンの室外機がきれい」は共感してもらえるか分からない。口に出したら変に思われるかも知れないので黙っておこうと思う。
このように短歌が、社会性が邪魔して口に出せず、放っておけばそのまま消えてしまうようなことがらを口にするための器であるということは、それがすべてではないにせよ、かなりの程度言えるような気がします。
「濃厚」とはつまり、社会化の段階で捨象されてしまうような感情や認知が露になっている、ということではないでしょうか(※)。
短歌に相聞歌が多いのも説明がつきます。「君が好きです」は無暗やたらに口に出すわけにはいかず、しかるべき状況ではないと言えない言葉だからです。それは日常生活に潜在的に存在しながら、ないことにされている言葉の筆頭格です。
5章:共振
短歌作者は、濃厚なもの、すなわち社会化の段階で捨象されてしまうような感情や認知を書く。読者はそれを読む。どのように読むか。 先の外山の議論を踏まえるなら、それを覗き見して好奇心を満たすということになるでしょうが、恐らくそれだけではない。
橋本の「濃厚になってしまった個人とわざわざ日常的な関わりを持とうとする社会なんて、〝結社〟の他にはない。」という記述を思い出しましょう。これは短歌作者の濃厚についてのみでなく、それに関わろうとする結社の奇特さについても言及しています。ちなみに橋本の文章は八〇年代後半に書かれたものです、今の短歌社会は結社だけが主流ではないので、結社はもっと広い語で言い換えていいと思います。短歌読者で構成される社会です。なぜ彼らは奇特なのか。
短歌読者に短歌作者が多いことを考えれば、答えは簡単に導き出されます。短歌読者もまた短歌作者同様に濃厚な個人(※)だからでしょう。だから短歌においては、濃厚な個人が濃厚な個人を読むわけです。だから「読者とは非当事者である」という定義と矛盾するようようですが、他人事でありながら他人事としては読まないのではないかと思います。読み手と書き手が距離を隔てながらも共振するような作用が起こるのではないでしょうか。
もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く 大森静佳
先ほど「君」を「A」に変える操作だけを行い、読解はしなかった歌ですが、少し読みます。
クリスマスの歌だと思います。「君」は恋人でしょう。
恋愛関係はそれ自体が祝祭的なものです。祭りのようによろこびに満ちた日々。幸福な日常の時間の背後には、しかし人生の時間が流れており、木が切り倒されて棺になるように、私たちの未来にも死が待っている。その死は本当の死でもあるでしょうし、私たちの破局というものの予感も含んでいる。
それから「電飾」も見逃せない。木を見に行くのではなく電飾を見に行くのです。祝祭を祝祭たらしめているのは、木ではなく所詮電飾なのだ。その本質を見定める目は、諦念と表裏です。電飾が取り外されてしまえば祭りは終わるのだ。私たちの関係も……。
それから韻律的に注目すべき点は句またがりです。これにより「きれいな棺に/なるということ」の八/七音で歌が最高潮に達したような印象があり、「電飾を君と見に行く」の八/四音をとても静かに読み流せてしまいます。楽しいデートのようなのにどこか葬式のようなムードです。
もちろん作中主体は表向きは明るくふるまったのでしょう。恋人に「楽しいね」と聞かれれば「楽しいよ」と答えただろうし、実際楽しかったことは間違いないでしょう。けれどその楽しかった中にも死や別れの予感、諦めのようなものを感じ取ってしまった。これはとても恋人の前では口にできないことです。
以上で読解は終わりです。ここで大事なのは、この読みが客観的に妥当かどうかということではありません。むしろ客観的に妥当かどうかが問われうるということです。なぜ妥当かどうかが問われうるかといえば、読むことが非常に個人的な行為だからです。読む際に私は私自身をある程度作中主体に投影しています。読みとは常に主観的なものなのです。
極端なことを言うなら、読むことは私がかりそめに作中主体になることなのです。つまりイコンであるところの現代短歌においては、「君」=読者は成り立たなくても、「われ」=読者は限定的にですが成り立ちうるのです。そしてある意味、「われ」=読者は、「われ」=作者よりも強固な結びつきを持つのではないかと思うのです。書かれたものは書いたものの手を離れますが、読むものは何度もそれと出会い、読みを深めていけるのですから。
なぜ読者は「われ」と自身を重ねることができるのか。秘密は短歌の一人称性にありそうです。
※:こう書くと、「濃厚な人とそうではない人がいて、濃厚な人が短歌をやる」という風に読めてしまいますが、これは便宜上そのように書いたまでです。人は誰もが濃厚さを抱えていきていますが、濃厚さとのかかわり方は千差万別です。完全に見て見ぬふりをして生きていける場合もあれば、それが制御できずに社会と折り合いをつけられない場合もあるでしょう。短歌はその濃厚さと付き合うための手段の一形式であると言えます。ただこの形式を選んだということは、自分自身の濃厚さを受け入れることを選んだわけです。この選択は誰もが行うものではありません。
6章:擬似同化
短歌というのは定型の器に入った言葉の配列ですが、ここで定型を四角い箱だと考えてみましょう。作品はその六面体の箱の内側の面に書かれています。さてその場合、作品を見るためには箱に穴をあける必要があります。箱の六面の内、一面を取り外すことにします。これで覗き穴ができました。読者が作品を眺めることができるようになりました。
その代わり、取り外した面の裏側に何が書かれているか読者には見ることができなくなりました。覗き穴を得たと同時に、読者は作品の一部が閲覧不能になったのです。閲覧不能な部分に何が書かれているかは、他の部分から予想するしかありません。
この失われた一面には何が書かれていたか、それは作中主体、つまり短歌の「われ」です。というよりもむしろ取り外した一面だと思っていたのは、作中主体の顔だったのです。
短歌は、すべての短歌がそうではありませんが、一般的には「われ」の視点から書かれます。「われ」の視点から書くということは、「われ」についての客観的な情報が欠けるということと同義です。そして欠けている以上、読者は読む行為を通してその欠落を補おうとします。だから短歌の読みは自然と「われ」への言及に向かっていくのです。たとえば「われ」の人物像、性格や気質、その時の気分や感情、その場の状況や雰囲気などです。
「われ」がさっきまで顔を置いていた場所に、今あるのは読者の顔です。だから探究した結果「われ」が浮かび上がってくるのは読者の位置であると言えます。短歌の一人称性とは、一人称の作中主体と四人称の読者を重ねるための仕掛けにほかならないのです。
前章の読解において、句またがりから私は「お葬式ムード」を導き出しました。これは作中主体の心情にかかわる部分であり、「われ」についての情報であると言えます。
これは作品に書かれていた情報ではなく、私が読み取った情報です。本当はただ句またがりがあるだけです。けれど私はその句またがりに「お葬式ムード」を勝手に読み取り、その上で読み取ったことがらを、作品にあらかじめ書かれていたことであるかのように語りました。ねつ造と言われても仕方のないような行為です。けれどこの行為を通してしか短歌は読めません。
作品を読むというのは作品から受け取った情報を、作品に投げ返す行為なのです。「作品に」は「作中主体に」とも言い換えられます。読者は「われ」を探っているのですから。つまり読者は「私が感じたこと」を「作中主体が感じたこと」として投げ返すのです。逆にいえば「さみしい」と作中に書いてあっても、読者がほんとうにそれを読んでさみしさを感じなければ、さみしさを帯びた作中主体は立ち現われません。書いてあることそのままが投げ返されるのではなく、いったん読者を経由するのです。
投げ返しによって、作品は読者の前にあらたな姿を現します。あらたな対峙はあらたな投げ返しを生みます。投げ返した部分には読者の主観が当然のことながら張り付いています。だから投げ返しを繰り返すたびに、「われ」は読者に染まっていきます。それにより、あくまで限定的にではありますが、「われ」=読者が成り立つのです。
短歌とは、そのような擬似同化を体験するための装置なのです(※)。
※:短歌定型の存在はこの擬似同化には欠かせない装置であると考えます。
短歌をある程度読み慣れた読者は五七五七七のリズムを内在化します。そして短歌を読む際には、そのリズムを基準として読みます。それはすなわち五七五七七の無音です。読者は韻律の面においては個々の短歌を、この五七五七七無音という標準値からの偏差として受け取ります。完全定型歌であっても、音を持つ時点で偏差が生じていると言えますし(A音はAへの、O音はOへの偏りなのです)、切れのこともあります(ちなみに標準値の韻律を切れ無しとするのか、上の句と下の句の間で切れていると考えるのかには、議論の余地があります)。
そして標準値からのずれの印象を作品の雰囲気や意味に置き換え、作品に投げ返すのです(先の「お葬式ムード」がこの一例です)。重要なのは、ずれを感受する基準であるところの標準値が、読者に内在されたものであることです。つまり短歌の読解は韻律の面においては、おのれの外にあるもの(個々の短歌作品)をおのれの内にあるもの(定型の韻律)に重ねるというところから始まるのです。このことは標準値の韻律を読者の皮膚、個々の短歌作品を衣服のように考えると分かりやすいのではないでしょうか。短歌を読むことは、服を着るようなものなのです。
7章:なぜ「君」と書かれるか
現代短歌の読者は四人称的につまり非当事者として短歌作品にかかわりますが、単なる窃視者ではありません。作中主体の位置から作品世界を覗くことで、作中主体と重ね合わせられ、投げ返しによって作中主体と限定的ながら同化を成します。
さてここまでくれば、1章の「君」の問題は解けているものも同然です。「君」という言葉は親愛のニュアンスを含みますが、なぜ「君」は恋人なのでしょう。実は人称の近さが理由なのではないでしょうか。
「君」という言葉は相手が近くにいるように思わせます。これを「彼」や「彼女」や「A」と呼んでしまうと、読者は遠さのニュアンスを、心理的距離をそこに見てしまう。短歌においては、「A」と書かれた途端に読者が遠さのニュアンスを敏感にかぎつけ、「心理的距離があるから、この人物は恋人ではない」という推測を作品の方に投げ返してしまう。その結果「A」=非恋人となる。
これは「恋人」と書くことによっても起こりうることです。「恋人」という風に第三者的に呼ばれることにより、「事実上の関係としての恋人ではあるかも知れないが、今この瞬間にはさほど愛おしさの情を感じているわけではない」という風に投げ返される可能性を持ちます。
反対に「君」と書けば、作者がどう思っていようが、「君」=愛おしさの情を感じている恋人という情報が作品に投げ返されることが多いわけです。だから恋人について書こうと思ったら相手がどの位置(人称)にいようと「君」というのは有効な戦略なわけなのです。
8章:ゼロ人称
ところで、外山の『第四人称』にはこのような記述があります。
俳句や短歌に第一人称が文字化されていることはすくないが、やはり、ゼロ人称の表現としてよい。(外山:五三頁)
最初この文章を見た時、私は書き誤りなのではないかと思いました。短歌を知らないからこのようなことが言えるのだと。しかしよく考えるとそうではないことが分かってきました。
このゼロ人称とは何か。
日本語では、ひとりごと、日記などに限らず、第一人称の主語のない表現がすこしも珍しくない。それは、第一人称の主語が落ちているというより、ゼロ形式の主語であると考えた方がわかりやすい。(外山:二頁)
このゼロ形式の主語のことを、外山はゼロ人称と呼んでいます。
短歌はなぜゼロ人称なのか。答えを探ってみたところ以下の文章に見つけました。日記についての記述ですが、短歌にもそのまま当てはまると思います。
日記にあらわれる第一人称は、一応は、書き手と同一人であると解されるけれども、やかましく考えると、日記を書いている〝私〟と、日記の中に出てくる〝私〟とは同一ではない。文字になった〝私〟が第一人称ならば、日記を書いている〝私〟はゼロ人称と言った別の呼び方が妥当であるように考えられる。(外山:五二頁)
作中主体は一人称で、読者は四人称ですが、作者はゼロ人称なのです。
作中主体は「君」に呼びかけたり、前述した複雑な仕掛けによって読者と同一化したりしますが、作者の次元には、作中主体も読者も存在しません。だから作者から見ると短歌の一人称性なんてものはフィクションです。短歌には作者のゼロ人称だけがあります。作者は誰とも関係を持ちません。関係を持つ相手がいるとしたら、それは言葉だけです。
読者が作者に言及するというのは、一歩引いた目で見るということです。作中主体が生きられる場として作品を見るのではなく、「作中主体が生きられる場」として設計された場として、つまり言葉として作品を捉えた時に見えてくるのが作者です。
作中主体=読者はありえますが、作中主体=作者もありえますが、作者=読者はけしてありえません。むしろ限定的な「作中主体=読者」の中の「作中主体≠読者」の部分、どこまで近づいてもけして縮まらない距離、絶対的な断絶、これが作者であるとさえ言えるかも知れません。作者は作品において絶対的な他者として見出されます。
「作者の意図は…」という形での理解は、純粋な感受ではなく理屈を含みます。私にはそう思えないのだが、この人にとってはそうなのだろう、というような隔たりを持ちます。
短歌を読むという行為は、おそらく作中主体=読者と作者≠読者を行ったり来たりする経験なのだろうと思います。ですから短歌は限定的な擬似同化の装置でありつつも、擬似同化の限界点に他者を見出すための装置にもなりうるのです。
そうなってくると、以下の文章も見逃せないものとなります。
「ここへは駐車しないでください」という掲示では、第一人称も第二人称も文字ずら(原文ママ)には表われてはいないが、ゼロ人称が、第二ゼロ人称に向けて発したことばであると見ることができる。(外山:五三頁)
この第二ゼロ人称が何なのか外山は特に説明していませんが、呼びかけの形式を取ったひとりごとが向けられる先という風に考えればいいと思います。「ここへは駐車しないでください」はそれを見た人に向けられているようで、向けられていません。誰かに呼びかけているようで、実は誰にも呼びかけてはいないのです。ただ形式が呼びかけである以上、便宜上、呼びかけの向かい先のようなものが必要なだけで。
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子
この歌の「君」が読者でない理由は、2章で短歌がもはやグリーティング・カードでないことから説明しました。読者はイコンとなった短歌を覗き見る第四人称的な存在であり、作中の「われ」と同化することはあっても、「君」との同化は原則的にありえません。
ではこの「君」とは何か。作中主体である一人称からすると、呼びかけの相手である二人称ということになりますが、作者であるゼロ人称からすると、第二ゼロ人称ということにならないでしょうか。というよりも、作者の次元から見ると「君」は本当は呼びかけの対象ではないのではないか。
少しややこしいですが、この歌の構図を作中主体の次元から見た場合は、
①「1われ→(たとへば君…)→2君」
となるかと思います。算用数字は人称です。1が2に()内のメッセージを伝達するという構図です。これに読者を含めると、
②4読者→「1われ→(たとへば君…)→2君」
となります。1が2に()内のメッセージを伝達する構図を4が1の方向から覗いています。
作者の次元だとこうなるのではないでしょうか。
③「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」
つまり作中主体の行為がまるまる{}にくくられるわけです。読者の位置は同じです。
④4読者→「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」
となります。これがもし短歌でなければ、
⑤「0作者→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」→4読者
となることもあるでしょう。「ここへは駐車しないでください」はこちらになるケースでしょうか。
それはさておき、「君」という二人称に向けられているように思えた言葉は、実は誰でもない第二ゼロ人称に向けられており、だから「君」=読者は、二重に否定されます。「君」と読者との同化がありえないという理由とは別に、そもそも「君」にも向けられていない、という理由でも否定されるのです。
作者の次元から考える限りでは、「われ」は厳密には呼びかけの主体ではないし、「君」も厳密には呼びかけの対象ではない。ということは厳密には「われ」は一人称ではないし、「君」は二人称ではないということを意味します。そうなると、「われ」や「君」は、「われ」や「君」という名で呼ばれる作中人物であるということになり、つまりは三人称です。
変なたとえをしますが、短歌を一行の掌編小説だとするなら、実はそれは「われ」を一人称とした一人称小説ではなく、作者を神の視点とした三人称小説だったのです。1章や7章で見てきた三人称的に「君」が用いられるケースも、そもそもにおいて「君」は三人称なのだ、という風に考えると謎はなくなります。
9章:短歌が本質的に抱える違和感1
前章の構図ですが、厳密に考えると不正確なのではないかと思います。「1われ→(たとへば君…)→2君」という構図は、「われ」が「君」に言葉を発していることになりますが、実際にはこれは心の声のようなものなのではないでしょうか。
そう思う根拠は4章の議論です。この歌のメッセージは、日常において口にすることができないからこそ、短歌のかたちをとってはじめて口に出されたのだと思うのです。この歌の背後には、歌のメッセージの「言えなさ」があるように思います。君に対しての沈黙が。
もちろんこれは一つの読みの投げ返しに過ぎず、直接の発話を歌にした可能性もあります。けれどそうでないとした場合、構図は以下のように変形します。
⑥「0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先」
作中主体の思いの次元と発話の次元を分けました。君に向けて直接発話している構図を想像しつつ、その発話を心の声としてどこでもない場所に向けているという構図です。
⑦4読者→「0作者→[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)]→0言葉の向かう先(作外)」
作者の次元、読者の次元を含めるとこうなります。非常に複雑な構図です。読者が読む際、こんなややこしい構図を意識するでしょうか。
「0言葉の向かう先(作中)」と「0言葉の向かう先(作外)」は厳密には別の第二ゼロ人称です。けれどある意味似たようなものです。似たようなものをわざわざ区別するでしょうか。
「2君」と「0言葉の向かう先(作中)」もそうです。独白であっても、本当は言えていなくても、想像上は「君」に向けられた言葉なのだから言葉は同じ方向を向いています。ここも区別はしないのではないか。
そうなると構図は以下のように変形します。
⑧4読者→「0作者=0われ=1われ→(たとへば君…)→2君=0言葉の向かう先(作中)=0言葉の向かう先(作外)」
そしてこの「=」もいちいち考えないでしょう。何人称なのかいちいち考えるのも煩わしいことです。また自分の立ち位置を考えながら読む読者というのは空想的な存在に思えます。だから以下のように単純化されます。
⑨「われ→(たとへば君…)→君」
いや、それすらも考えないかも知れません。
⑩「たとへば君…」
構図など考えず、ただ言葉があるだけと考えるかも知れません。
その方が正しいような気もします。実際にはただ言葉があるのみであり、作者とか作中主体とか一人称とかゼロ人称とかそんな妄想は切り捨てて、歌の言葉それ自体に向き合った方が得るものが多いのではないか。
1章で私はこのように書きました。「むしろ短歌の表現として至極まっとうだからこそ、短歌というものが本質的に抱える違和感をあぶりだしているようなそんな感じがする」と。この短歌というものが本質的に抱える違和感というのは、少なくとも読む際の便宜としては⑩や⑨でいいところを、わざわざ⑦のような煩雑な構図を見てしまう、ということと何か深い関係があるのではないでしょうか。
本論冒頭の三首の内から、また大森歌を例にとって考えましょう。
塗り絵のように暮れてゆく冬 君でないひとの喉仏がうつくしい 大森静佳『ての ひらを燃やす』
この歌の構図は以下のようになります。
①「0われ→{1われ→「塗り絵の…」→2君}→0言葉の向かう先(作中)」
読者の次元と作者の次元は省きます。ここまでは河野歌と全く同様の構図です。けれど河野歌の⑧と対応させてみると異なる相貌を見せます。
②「0われ=1われ→「塗り絵の…」→2君≠0言葉の向かう先(作中)」
思いの次元では「君」が意識されていますが、発話の次元ではそれは「君」に向けられてはいないように思います。想像の上でも言葉は「君」の方を向いていません。それでいて「君」に聞かれることは意識している。だから読者が⑨のように読もうとした際にこのような構図になります。
③「われ→「塗り絵…」→君and言葉の向かう先」
言葉を「君」に向けていると同時に向けていない、という構図です。このような構図は別に不可解なものではありません。「他人を意識したひとりごと」というものも私たちはコミュニケーションの方法の一つとして行うからです。
けれどこの③の構図にとどめておけばいいものを、それをつぶさに見つめてしまうと、②が見えてきます。ここで煩雑さが露呈します。作者の次元、作中主体の発話と思いの次元、この三層にわたって構図が一貫している河野歌は各層の同一視がしやすいのに対し、ここが一貫していない大森歌は同一視が不安定になりやすいという特徴を持っています。もちろんこれは歌の優劣とは別問題です。
10章:短歌が本質的に抱える違和感2
けれど実を言うと、河野歌の方にも違和感がないわけではありません。河野歌の「2君」と「0作中主体(作中)」と「0作中主体(作外)」は大体同じようなものです。だから同一視されます。どの次元においても「君」です。そうなると現実に「君」に向けた発話に近くなります。
けれど作者の現実としてはどうであれ、読者の現実に「君」はいないわけです。読者自身が「君」なわけでもない。作中のどの次元でも「君」に向けられているのに、その「君」がどこにもいないことによって、読者の次元で虚空に向けられることになる言葉。これは「対象の不在」です。
そうなった時、立ち返るのは先に述べた、歌の言葉の「言えなさ」のことです。河野歌において実際に起こったのは、そのような発話ではなく、そのような発話の不可能性です。歌はそのように「言えなかった」ことによって形成されたのです。こちらは「メッセージの不在」です。
このように考えた場合、河野歌は、作中主体あるいは作者の次元における「メッセージの不在」を、読者の次元における「対象の不在」に仮託して表現した作品ということになります。読者は「対象の不在」を、言葉がむなしく響くさまを体感することによって、そこから作中主体あるいは作者の「言えなさ」を理解します。
様々に姿を変える歌の構図は、読者の投げ返しによって変化するものです。このように投げ返す場合に、歌は読者にどのような構図を見せるか。
⑪「われ→「たとへば君…」→君or言葉の向かう先」
これは大森歌の③に似ていますが、意味はかなり違います。「たとへば君…」が「君」に向かう場合は、「言葉の向かう先」には向かわず、言葉は発せられない(「メッセージの不在」)。反対に「言葉の向かう先」に向かう場合は、言葉は発せられるが、「君」には届かない(「対象の不在」)という構図です。この構図をつぶさに見つめると以下のような煩雑な構図が見えてきます。
⑫「0作者→[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)] or[0われ→{1われ→(たとへば君…)→2君}→0言葉の向かう先(作中)]→0言葉の向かう先(作外)」
こんな煩雑な読みは少しもよい読みではありません。
だから読者はこのような読みをしないように、このような読みをしそうな部分からあえて目をそらそうと、耳をふさごうとする。メッセージの「言えなさ」を感じ取ることはしたとしても、それを構図に反映させる契機となる「対象の不在」、つまり「君」が現実の読者の次元においていないことについて気にしないふりをする。メッセージが虚空に響くむなしさをきかないでおこうとする。読みを抑圧するのです。
抑圧された読みが、完全に消し去られることのないまま心に沈殿しているさまが作品に投げ返される。あるいは短歌の違和感とは、抑圧された読み、読まれなかった読みの投げ返しによるものなのかも知れません。
もっともこれは私という読者における一つの事例の考察に過ぎません。どの程度普遍化可能かについては、この文章を読んだ皆さんに考えて頂けたらと思います。
引用出典
大森静佳『てのひらを燃やす』二〇一三,角川書店.
千種創一『砂丘律』二〇一五,青磁社.
染野太朗『人魚』二〇一六,角川書店.
河野裕子『森のやうに獣のやうに』一九七二,青磁社.
橋本治『風雅の虎の巻』一九八八,作品社.
外山滋比古『第四人称』二〇一〇,みすず書房.
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』二〇〇八,中央公論新社(中公文庫).