維新の立役者・西郷隆盛(1828~77)が唱えたと言われ、明治政府が割れる契機になったとされる、朝鮮出兵を前提とした「征韓論」。が、最初に唱えたのは西郷ではなく、西郷は平和的解決を目指していたとの説が注目されている。
一般に言われる「征韓論」は、武力をもって当時鎖国状態にあった朝鮮を開国させようとした政策のことだ。維新三傑の1人で、明治政府の参議・陸軍大将を務めた薩摩出身の西郷隆盛が唱えたとされる。
これに基づいて1873(明治6)年、朝鮮への西郷の使節派遣が閣議決定された。だが、欧州視察から帰国した大久保利通や木戸孝允ら、国内整備を優先する「内治派」が反対。政争に敗れた西郷や板垣退助、江藤新平らは政府の職を辞し、鹿児島で西郷らが蜂起する西南戦争(1877年)へ至る契機となった。「征韓論政変」「明治6年政変」とも呼ばれる。
だが、昨年亡くなった毛利敏彦・大阪市立大学名誉教授の『明治六年政変の研究』によれば、これらの通説は見直してみる必要がありそうだ。
同書によると、「(朝鮮の)居…
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