集合団地の狭い社宅から、戸建てに移住して15年ほどになります。
憧れのマイホームなはずなのに、アレコレ思うモノが出てきましたよ。住居空間の広さは、心の豊かさと結びつくものでは無いなと思うのです。
ガラクタの為に借金を増やさない
先日、
さんの記事を拝読させて頂きました。「3人子持ち 働く母の モノを減らして 家事や家計をラクにする方法」という本の紹介と、その思いをつづった記事です。
▼こちらです
これからの暮らしで「何にお金をかけるのか」「何を持つのか」という事に触れた記事内容に、改めて我が身を振り返りました。中でも私がドキッとしたのは以下2つ。
・ガラクタの為に借金を増やさないということ
・減らした分 働かなくてもよいという選択肢。
広い家を購入しても、要らないものを置いている場合はどうでしょう。
不要なモノを置くスペースのために、借金して働くのは無駄ですよということ。
それよりも、必要なモノだけが置ける小さい家に住みかえて、ローン地獄から解放された方がいいという内容です。
私はまさに今、この状態を感じていたのです。
せっかく戸建てを購入したのに、生かせていない空間が沢山あるんですよ。
起きて半畳寝て一畳
そんな事を思う時、思い浮かぶのが「起きて半畳寝て一畳」という言葉。
起きて半畳寝て一畳(おきてはんじょうねていちじょう )
人は必要以上の富貴を望むべきではなく、満足することが大切であるという教え。
(中略)
どんなに大きな家に住んでいようと、人一人が占める場所は、起きているときは半畳、寝るときは一畳あれば充分足りることから。
どんな家に住んでも、衣食住の行動パターンは同じような気がしてきました。
広い空間でも、狭い空間でも。幸せ度は心が決めるのかなと思えてきました。
広い空間で狭く暮らす
私は約30年間、 小さな二軒長屋に住んでいました。
二軒長屋というのは1つの建物に2つの家族が住めるもの。細長い建物の中央に小さなお風呂が1つあって、両サイドにそれぞれ1つずつ玄関がある構造でしたよ。
その時の居住スペースはかなりの狭さで、台所は2人入ると方向転換も厳しい感じ。
家族4人の布団を敷くと、歩く場所もありません。広さは仕方ないにしても、喧嘩したり叱られたりした時、逃げ場がない暮しが嫌でしたよ。
そんな長屋に一緒に住んでいたお隣さんは、叔父(母の兄)たち。
今思えば、身内だったから同じ建物の中に住めたんだと思います。
叔父が50代中頃になったある日。
東京都内で、区画整理された一戸建購入に踏み切りました。庭付き、有線付き、セキュリティ付きという立派な新築。あぁ~なんて素敵!いいな!いいな!とワクワクしてお邪魔したのですが・・・。
隅っこに今までの家具を並べて、コタツで食事していました。
空間を生かさず、手を伸ばせば何でも届くスタイルにしていたのです。
今までと何にも変わってない暮らしぶり。隅っこのコタツに2人で入ってニコニコしている姿に拍子抜けしてしまいました。子供たち2人は、あっという間に別所帯を持って出てしまい、叔父たち夫婦2人暮らしです。
このご夫婦はとっても仲良しなんですよ。狭い暮しでも幸せだったはず。
「こんな広い家にしなくても良かったね」と笑っています。
今は2階建で使っていない部屋が2つあり、そこは子供たちの物置になっています。足腰が弱くなり、屋根裏部屋のモノも思うように降ろせないようです。
住居空間の広さは、心の豊かさと関係ないのではないでしょうか。
狭い空間で広い「気持ち」で暮らす
こんなことをモヤモヤと思っていた時。
さんの以下の記事を拝読させて頂きました。
▼こちらです
必要最低限の持ち物で、居住スペースもコンパクトに暮らすという考え方です。
実際出来るかどうかは別として、この考え方がとても良いなと思ったのです。
これは日本で言うところの「茶室」の精神じゃないでしょうか。
最小の空間の中に豊かな広がりを持つという考え方がとても似ています。
お茶といえば、千利休が有名ですが・・・利休は茶室を独自の構想で一畳、三畳の狭い空間をあえて作り「直心の交(じきしんのまじわり)*」をしてきました。
空間を狭くすることで心が通い合う事を知っていたのですね。
*亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざすこと。
なんて自由で可能性に満ちているんだろう!って思うのですよ。
起きて半畳寝て一畳。
モノはいつか形が無くなります。
ただ、戸建てが無駄だと言っているわけではありませんよ。
これから年齢を重ねて行くことを考えた時、今住んでいる空間をどう楽しむか、どう暮らしたいのかも考えてみたいと思います。