なぜ、すべて否定から考えるのだろう
なんでも、はじめに否定しないと気が済まない人と同じ空間にいるとしんどくなる。
— ぬん@はてなブログ (@nunkoro01) 2017年7月1日
珍しく、このようにまともにTwitterを使った。
価値観っていうのは人それぞれで、もちろん「否定からの人」と一緒にいるのは苦にならないし気にもならない、という人はいるだろうし、それを否定するわけではないけれど、僕はつらい。
なぜなら、自分の存在自体を否定されているように感じるから。
これは、ある意味ネガティブで、被害妄想のかたまりのようにも思われなくもない発言である。
それでも声を大にして言いたいのは、「そう思う人もいる」ということ。
「否定からの人」は、
それはリスクをとることにならないのか?
という問いをして、考えた上でNoと言っているのかもしれない。
だとすれば、それは
「相手のことを考えてくれている思いやりのある人である」
と思ってしまうかもしれないが、果たして本当にそうだろうか。
気軽な発言ではなくて、きちんとプランニングされた先にある発言についても穴をつついて否定する。
リスクばかりを見て、挑戦を応援してくれない。
失敗した時のことを真っ先に考える。
このようなことは、発言者への冒涜とならないのだろうか。
僕は、これまでの人生の大事な選択を自分で考え抜いて決めてきた自負があるし、これからもそうでありたいと思っている。
「否定からの人」は、相手のことを考えているようにみえて、
「何のリスクもない、味気のない道」を歩ませようとしているとしか僕は思えない。
人生の主人公は自分。
あなたのための人生ではない。
だから、僕は「否定からの人」といるのはしんどい。
「それ、面白そうだね、」
とフットワークの軽い大人になっていきたいと強く思う。