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グロ中尉について解説するスレ


1名無しさん@おーぷん:2017/06/30(金)20:55:56 ID:sW1()

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グロ中尉[First Lieutenant Gros]
   (1932~ アメリカ)

1932年にジョージア州で生まれる。
父のダミアン・グロが陸軍将校であったためか、幼い頃から軍隊に対して強い憧れを抱いていた。
1953年にはノース・ジョージア州立大学のROTCを修了、陸軍少尉に任命される。
しかしその翌年には父が他界し、母も三年後に他界するなど、トーマスにとって不幸な出来事が続いた。



2名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:56:24 ID:sW1()

1965年にベトナム戦争が始まると、トーマス少尉は第23歩兵師団第11軽歩兵旅団、第20歩兵連隊第1大隊C中隊の第2小隊に配属、南ベトナムに駐留し、ベトコンらと激しい戦闘を繰り広げた。


4名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:57:01 ID:sW1()

だが昼夜問わず行われるゲリラの攻勢を受けてトーマスは心身ともに疲弊していった。
そんな彼は敵兵から鹵獲したカメラで、殺害した兵士を撮影するようになった。
もっともそれは小隊の見ていない場所でしか行われてなかったので、彼は部下にとっても上官にとっても「優秀」な少尉のままであった。


5名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:57:29 ID:sW1()

ある日、少尉の率いる第2小隊はウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊と共に、ベトナムのある村にたどり着いた。第1小隊の兵士たちは集落の一つを襲撃し、住民を虐殺。これが後に有名なソンミ村虐殺事件である。


6名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:58:09 ID:sW1()

虐殺の報を聞いたトーマス少尉は集落へ急行し、部下に生存者確認の命令を出す一方、自らは彼らが虐殺した死体を回収して撮影を行った。
彼にしてみればその村は「被写体」の宝庫であったろうことは想像に難くない。
この時撮影されたとされる写真の多くは、内臓が露出している、頭が割れている、四肢が欠損しているものが多く、より残虐的趣向が強まっていることが分かる。


7名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:58:39 ID:sW1()

その後、中尉に昇進した彼だったがPTSDを発症し退役。数多の写真を収めたカメラと共に帰国した。カメラは自宅に注意深く隠され、家族もその存在を知ることはなかった。


8名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:59:11 ID:sW1()

写真の存在が明らかになったのはソンミ村事件の裁判が行われた時である。事件の全容に関して、中尉は自ら証拠品としていくつかの写真を提出。
それらの写真は凄惨な現場を克明にとらえており、審議に重要な役割を与えた。
この裁判に関してグロ中尉は「二度とこのような事件を起こしてはならない。私もあの大きな戦争の被害者だった。」と語っている。


9名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)20:59:35 ID:sW1()

だが、彼のメッセージとは裏腹に裁判はほとんどの兵士が証拠不十分で無罪となり首謀者もわずかな刑期に服しただけで仮釈放となった。同時に証拠品であった彼のフィルムも時代の闇へと消えて行った。


10名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:00:10 ID:sW1()

2000年代前半、アメリカのアングラ系サイトに「トーマス・グロ中尉の写真」(The Photos of 1st Lieutenant Thomas Gros)として数枚の写真が掲載された。
これらの写真は大きな反響を呼び、有志によって多くの写真が提供された(これらの写真は必ずしもトーマス中尉のものでないものも含まれるとされる)。


11名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:00:40 ID:sW1()

この影響は海を越えて日本にも伝わり、「マイクラ」(マインドクラッシャー、精神的ブラクラ)の始まりともなった。ここからネットユーザーの間で「マイクラ」のことを「グロ中尉の写真」、さらに略されて「グロ中尉」と呼ばれるようになった。

われわれは忘れてはならない―トーマス・グロ中尉の存在を―


14名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:05:27 ID:sW1()

次は偉大な思想家クグレカスについて解説します


15名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:07:17 ID:sW1()

        ,.-─ ─-、─-、
      , イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
      ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii /  Λ
    ,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
   ノ/,/ミ三ニヲ´        ゙、ノi!
  {V /ミ三二,イ , -─        Yソ
  レ'/三二彡イ  .:ィこラ   ;:こラ  j{
  V;;;::. ;ヲヾ!V    ー '′ i ー ' ソ
   Vニミ( 入 、      r  j  ,′
   ヾミ、`ゝ  ` ー–‐'ゞニ<‐-イ
     ヽ ヽ     -''ニニ‐  /
        |  `、     ⌒  ,/
       |    > —- r‐'´
      ヽ_         |
         ヽ _ _ 」

ググレカス(英:Gugrecus、羅:Gugrecus、希:Γουγρεκος)
        (紀元一世紀頃)


16名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:08:02 ID:sW1()

古代ローマ帝国の元老院議員。ウァッロ以降のローマの図書館行政に深く関与し、その豊富な知識によりローマ時代有数の知識人と讃えられた。
幼少期から好奇心が旺盛で、些細なことでも気になったことは質問して解決するという積極的な性格であった。大人たちは彼のあまりの質問の多さに辟易していたという。
このことからググレカスの名前は「気になった事柄は自分の力で調べるのが良い」と言う意味の諺として用いられるようになった。 詩人のテラワロスとは竹馬の友だったことでも知られている。


17名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:08:32 ID:sW1()

古代ローマのある都市に、分からないことや疑問に思ったことは何事もすぐに人に質問して解決しようとするググレカスという名の少年がいた。現在で言う教えて君のような者である。
彼の質問といえば「愛とは何か」「人生とは何か」といったような哲学的な難しいものではなく、「塩と砂糖のどちらが甘いか」「レモンと梅干のどちらが酸っぱいか」「九九の一の段」といった調べればすぐに分かるようなものばかりであったと伝えられる。


21名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:09:15 ID:sW1()

少しぐらいであれば周囲も我慢できたが、この少年は朝に目が覚めてから夜に寝るまでの間、約30秒間隔で次々と質問をしていたという。
とにかく質問ばかりしていたので、やがて、その都市の誰もが彼を鬱陶しく思うようになった。そんな時、近所に住んでいた職人は、彼に質問されたらどんな内容でも「図書館に行って調べるべし」と答えることを思いついた。
少年は何でも質問するという空気を読めない性格ではあったが、幸いとても素直な性格でもあったので、言われるがままに図書館で調べものをするようになった。


22名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:09:43 ID:sW1()

彼の疑問は常に尽きず、次から次へと、それも大量の疑問を解決するために素晴らしい速さで調べものを続けたために、いつしか図書館の司書ですらかなわない調べものの達人となり、また同じ都市に住む誰よりも豊富な知識を持つようになった。
そのお陰で、彼はその後ローマ帝国皇帝カンリニヌスの下、執政官にまで上りつめた。


23名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:10:16 ID:sW1()

こうした逸話を知った親たちは、このググレカスの立身出世にあやかろうと、子供に何か質問されたときは「ググレカスのように自ら調べなさい」と言うようになった。
これがいつしか縮められて「ググレ」などと言われるようになったとされる。また近年ネット上では GGRKS という表記も行われるようである。


24名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:10:41 ID:sW1()

その後、隣国のシリトググルが、ググレカスとその友人達を自国に引き入れるために大軍を率いて攻め入ったが、ググレカスらは共に人海戦術を使い籠城し、シリトググルの侵攻の後も何事も無かった様に自国で執務していた。


25名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:11:50 ID:sW1()

そして、このググレカスに関しては実在論争が起きている。
逸話はプリニウスの書簡集にのみ確認されるものであり、彼が実在の人物かどうかは現在も論争が続いている。
ローマ帝国崩壊後、資料が散逸する中で、彼と同じ名を持つググルカスと混同されてしまい、その業績がどちらのものだったのかすらはっきりしないのである。


26名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:12:23 ID:sW1()

ルネサンス期にググレカスの再評価が、モノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾによってなされたとき、彼は、便宜上、ググレカスを大ググレカス、ググルカスを小ググレカスと呼ぶこととした。
これにより、一応両者の区別はつくことになったが、より精確な史料の判読が進むにつれて、そのほとんどがググルカスについて書かれたものであるということが判明し、ググレカスの実在が疑われる結果となってしまった。


27名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:13:16 ID:sW1()

ナポレオン軍のエジプト遠征の折、アレキサンドリア図書館の廃墟にて近衛連隊の騎兵少尉が石版を発見した。この石版にはいわゆるヒエログリフで文章が刻まれており、本国へ持ち帰られ解読が進むと、プトレマイオス朝時代に刻まれたものと判明。
その文章中にユリウス・カエサルと共にググレカスについての記述があり、彼について祖先をカエサルと同じく名門ユリウス家に持ち、さらに遡ればローマ建国の祖ロムルス(英語名ロムる)へつながると紹介されていた。
しかし19世紀後半になり考古学が発達すると、その石版に書かれた文章は当時のフランス総裁政府がロゼッタ・ストーン発見に便乗してフランス軍によるエジプト遠征をカエサルによるエジプト遠征になぞらえて正当化しようとする中で創作されたものだと判明。
ググレカスの実在の信憑性を失わせる決定的事件となった。


28名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:13:52 ID:sW1()

ただ、3世紀の歴史家カッシウス・ディオは、ググルカスの逸話として、「物知りで有名だったググレカス」にあやかってその名をつけられたと書いているため、現在では散逸してしまった何らかの史料は、彼の生涯を詳しく語っていたものと思われる。


29名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:14:33 ID:sW1()

ググレカスは時として信仰の対象であったりする。信者はお祈りを捧げる儀式として毎朝、日の出時に北西の方角を向いて逆立ちをし、足の裏を合わせている。
尚、日本ではAKB48の石田晴香がググレカス教の熱心な信者として知られている。また、歴史上の人物では夏目漱石、大塩平八郎も信者であったと言われている。


30名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:15:29 ID:sW1()

ググレカス教とは
gugulrkasu.gugulekasuと日本でいうお経にあたる物を唱える宗教。教祖は第39世ググレカス。


31名無しさん@おーぷん :2017/06/30(金)21:17:47 ID:sW1()

以上になります


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