考古学者・シュリーマンも驚いた 明治期、日本庶民の混浴の真実とは?
ただでさえ公衆浴場という文化のない西洋人たちが明治期、日本に旅行にやってきて最もカルチャーショックを受けたのは「混浴」だったと言われています。
「裸を恥ずかしげもなくさらすのはどうしたものか」と、非難する人も多かったようです。しかし、そう言いながらも、この写真のような女性の入浴シーンの彩色写真は西洋人旅行者のお土産として飛ぶように売れていたいうから、どこか矛盾を感じます。
そんな混浴にドギマギしつつも、興味を抱いてた西洋人たちに対して、日本の庶民たちは、「あまりにもくだらない話だ」と笑っていました。当時、庶民たちにとって、混浴とはどんな存在だったのでしょうか? 大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。
西洋人が驚愕した「裸をさらす人々」
幕末から明治初期にかけて、来日した西洋人のほとんどが驚きをもって記録している日本独特の風俗がある。それは、「庶民の混浴文化」である。
男性と女性が、同じ浴槽に裸で浸かっている姿。祭礼など特別な機会ではなく、何の変哲もない日常にそれが見られることに、西洋人たちは驚愕した。まさに、カルチャーショック以外の何物でもない。
トロイア遺跡を発掘したことで歴史に名を残すドイツの考古学者、ハインリッヒ・シュリーマン(1822〜1890年)は、1865(慶応1)年、中国に続いて日本を訪問した。その際、彼が横浜にある公衆浴場の前で、「驚愕の事件」に遭遇している。その詳細は、次の通りである。
「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。
―ハインリッヒ・シュリーマン著、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)
シュリーマンが驚いたのは、「裸に対して羞恥心がないこと」と「裸をさらすのが礼儀作法に触れるものではないということ」の二点だった。ただし、浴場から飛び出して、自分のアクセサリーを見にきた人々に、彼は悪い印象を抱くことはなかったようである。
このような受け止め方は、当時日本にやってきた西洋人の多くに共通するものだったのだろうか。実は、それは全く違う。大半の西洋人は、日本の庶民の混浴文化を、恥知らずで後進的なものと、強烈に「非難」したのである。
彼らが混浴文化を快く思わなかった理由は、明快だった。自身の持つキリスト教的なモラルに適合しなかったこと、これだけである。当時来日した多くの西洋人は、はっきりと文明国の必要条件としてキリスト教を挙げていた。
冒頭に掲げた「入浴」写真は、大都市では混浴文化が廃れつつあった明治中期に撮影されたものである。スタジオでモデルを使って再現し、撮られている。
日本の混浴文化は西洋人たちからのクレームにさらされたが、「入浴」をテーマにした彩色写真は、当時数多く作られた。そして、そこに写るのは「裸の女性」ばかりだった。それはなぜか。理由は至極簡単、西洋人の男性にこの類の写真が大変よく売れたからである。
「庶民の混浴文化」の真実
ここに示した写真は、同じく明治中期に撮影されたもので、箱根温泉の旅館にある浴場の様子である。趣向の凝らされた美麗な浴場の作りに目を奪われるが、ここにも男性の姿はなく、女性が二人と、子どもが一人写っている。当時、温泉の多くはまだ混浴だったものの、このような写真の多くに、男性の姿は見られない。彩色写真が、日本の文化・風俗を伝えるものだと考えると、これら写真には違和感がある。
もはや付言するまでもないだろう。混浴文化をテーマにした写真は、西洋人男性の性的な好奇心を満たす「商品」だったのである。混浴文化を批判しながら、こういった写真を喜んで買い求めることは二枚舌のようにも思えるが、そもそも人間の本性とはそういったものと解するべきかも知れない。
ところで、この混浴文化、特に江戸時代のそれは、今も大いに誤解されているようだ。特に、以下の三点について、正しく理解されていないように思われる。
まず、江戸時代のほとんどの期間、混浴は「公認」されていなかったという事実がある。実際に、幕府は繰り返し混浴禁止の触れを出した。特に、寛政、天保の両改革時、幕府は混浴を厳しく禁じている。しかし、経費の問題から、湯屋としては男女の浴室を分けることが難しかった。混浴は、経済的な理由で継続されていたのである。
そして二点目は、混浴文化はあくまで庶民、つまり経済的には中流以下の階層に限ったものだった、ということである。上級武士はもちろん、富商などにとっても、混浴は縁遠いものだった。
最後の三点目は、「当時の庶民は裸に対して羞恥心がなかった」という誤認である。シュリーマンの前に飛び出してきた庶民は、羞恥心より好奇心が勝ってしまった特殊例であって、当時の庶民が裸を晒すことに抵抗がなかったなどという事実は一切ない。むしろ、外国人による見聞録をよく読めば、庶民が今と大きくは変わらない羞恥心を持っていたことがわかる。
しかし、このような庶民の混浴文化も、明治に入って、主に外国人(特に宣教師)たちからのクレームによって、都市部を中心として徐々に廃止されていく。「西洋化=文明化」であると深く信じていた明治政府の首脳部は、西洋人が「奇異」と感じる文化・風俗を続々と禁じていった。それは、江戸時代の触れとは違い、高い実効性を持つものだった。
それでは、かつての「庶民の混浴文化」を、我々はどう考えればよいのだろうか。最後に、明治期に来日した外国人の中では、最も冷静かつ客観的に日本を記録した米国人紀行作家、エリザ・R・シドモア(1856〜1928年)の言葉を引用しておきたい。
ある日、変な外人が風呂場に侵入したため、子供以外全員、深く湯船につかったままになりました。そのとき、自然で当たり前のことを観察する異人の気取った理解しがたいやり方は、はっきりと軽蔑されました。無着衣の裸体に対し、欧州人があれこれ妙な不快感を示し誤解している点を、日本人は「あまりにもくだらない話だ」と笑っています。
―エリザ・R・シドモア著、外崎克久訳『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫)、217〜218ページ
かつての「庶民の混浴文化」は、経済的余裕はないものの、可能な限り清潔に過ごしたいと思う人々の気持ちで成立していた。恥ずかしいけど、きれいになるため、我慢して混浴していたのである。勝手にやって来て、自らの価値観だけで「道徳的に問題があるから、裸を晒すのは止めろ」などと言い立てた「変な外人たち」に、当時の庶民層は翻弄されたのだった。
(大阪学院大学経済学部教授 森田健司)