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玉置真人さん
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玉置真人さん
不合格取り消し訴訟の記録を読み返す玉置真人さんの父義彦さん(右)と母常美さん。後ろの仏壇には、学生時代の真人さんの写真が置いてある=尼崎市立花町4
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不合格取り消し訴訟の記録を読み返す玉置真人さんの父義彦さん(右)と母常美さん。後ろの仏壇には、学生時代の真人さんの写真が置いてある=尼崎市立花町4
神戸地裁判決を受け、両親とともに会見する玉置真人さん=1992年3月13日、神戸市中央区
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神戸地裁判決を受け、両親とともに会見する玉置真人さん=1992年3月13日、神戸市中央区

 障害を理由に入試を不合格とした1991年の尼崎市立尼崎高校処分取り消し訴訟で、原告だった玉置真人(たまき・まさと)さんが3月23日、慢性呼吸不全などのため大阪府豊中市内の病院で40歳で亡くなった。全身の筋肉が衰える進行性の「筋ジストロフィー」と闘いながら、宇宙物理学を志し、自分自身の存在と向き合い続けた生涯を両親が振り返った。

(小川 晶)

 1991年3月、市立尼崎高校の合格発表。不合格を知り、家族とともに中学校に戻ってきた玉置さんの大きな瞳から涙がこぼれた。校長に「これで君の全人格が否定されたわけではないから」と言われた直後だったという。

 小学校から大学院まで、介助が必要な玉置さんと一緒に登下校し、寄り添い続けた母常美さん(65)の記憶では、筋ジストロフィーと診断された4歳のとき、投薬を嫌がって泣いて以来の涙だった。小学4年で車いす生活になり、進行性の病気であることを知り、それでも感情的にならず、家族が不思議がるほど淡々としていた玉置さんが、自宅への帰り道で漏らした。

 「僕にとっては、全人格を否定されたようなものだ」

 自分で決めたことはやり抜く性格。中学校でも学習意欲は衰えず、自宅近くで通いやすく、友人らも志望すると選んだ市立尼崎高校の受験でも、内申点を含めた自己採点では十分に合格ラインに達していた。

 その後、実際に上位10%に入る入試成績だったこと、障害のため卒業に必要な課程を履修できる見込みがないとして不合格になったことが明らかになる。同年6月、入学の許可権限を持つ同校の校長と尼崎市を相手取り、不合格処分の取り消しなどを求め神戸地裁に提訴。支援の輪が広がり、参議院本会議で取り上げられるなど全国的な問題となったが、玉置さんはいつも通りの冷静な姿に戻っていた。

 翌92年3月、神戸地裁は「教育を受ける権利を侵害した」などとして、玉置さんの主張を全面的に認める判決を言い渡す。記者会見で涙ぐむ父義彦さん(73)と対照的に、落ち着いた表情で言葉を選ぶように質問に応じた。

 「一人の人間としての権利を認めてもらえたことがうれしい」「判決がきっかけとなって、障害を持つ者でも自由に普通高校に入れるようになれば」

 校長側は控訴を断念し、1年遅れの合格通知が届いたが、別に受験、合格していた関西学院高等部への入学を決める。エレベーターや身障者用のトイレなど設備が整っていたことが主な理由だった。

 教師や友人に恵まれた。鉄道研究部に所属し、仲間たちとともに駅のバリアフリーの現状や問題点を調べた。不合格問題を進んで振り返ることはなかったが、ある時、両親にこう打ち明けたという。

 「あの時の僕は偶像や。大した存在ではない」

 関西学院大理学部に内部進学し、宇宙物理学を専攻する。きっかけは、小学校の図書の時間に読んだ本に載っていた、青白い輝きを放つプレアデス星団の写真。「宇宙の成り立ちや生命の起源について勉強し、この地球で僕たちが生きている理由を探っていきたい」と考えていた。

 同大大学院に進み、研究を続けたが、人工呼吸器が手放せなくなるなど病状が悪化。文字を書くのも難しくなり、修士論文は常美さんが口述筆記で仕上げた。

 2002年、博士課程への進学を見送り、自宅で過ごす時間が増えた。在宅で可能な研究の手伝いを求められたこともあったが、体力的な理由で断った。パソコンの画面を眺める生活が続いた。

 3年ほど前、自力での呼吸が難しくなり、気管を切開して空気を送り込むようになった。言葉を失い、寝たきりになった。ある日、常美さんは玉置さんが何かを訴えているのに気付き、読(どく)唇(しん)で聞き取った。

 「僕は、何のために生まれてきたんだろう。生きてきた意味は何なんだろう」

 言葉に詰まった常美さんは、とっさに「神様から愛されるために生まれてきたのよ」と言った。「愛されているとは思えない」との返事。「そうとしか言えないわ」と答えた。

 玉置さんは、後悔の念を吐露するようにもなった。「みんなに親切にしてもらってるのに、大学を出てから何もしてこなかった」

 体をほとんど動かせなくなり、入退院を頻繁に繰り返すようになった。今年1月、40歳の誕生日を迎えた玉置さんが家族に伝えた。

 「筋ジストロフィーの子どもは20歳までしか生きられないって言われてたけど、その倍まできた。後はおまけやな」

 3月15日に自宅に戻ってきた玉置さん。23日未明に容体が悪化し、搬送先の病院で集中治療室(ICU)に入った。いったん落ち着いたように見えたが、夕方に急変した。涙を見せたのは、15歳の春が最後だった。

 義彦さんは、大切に置いていたプラスチックケースを取り出した。入っているのは、不合格問題のときに、市民ら数万人が寄せてくれた支援署名の関係書類。その一部を、息子のひつぎに入れた。

 「多くの人に支えてもらった人生の象徴のように感じたんです。精いっぱい頑張った真人の最期を、善意にくるんで見送ってあげたかった」。義彦さんはそう振り返る。

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