Photos : Maruyama Gonzalez

歌舞伎町をつくったのは誰か?

その答えは「台湾人」である。断言してしまうと大げさかもしれない。だが、今の歌舞伎町の原型を形造るうえで、彼らが大きな影響力を持っていたのは事実である。その軌跡を示すかのように、歌舞伎町には今なお台湾の痕跡が残っている。今回はそれらを紹介するとともに、歌舞伎町と台湾の黒社会との関係についても考えてみたい。

まず、簡単に経緯を振り返る。現在の歌舞伎町の基礎になったのは、太平洋戦争後の闇市である。元々は内藤新宿として宿場町ベースで発展していたので、マーケットとしてのポテンシャルは高かった。しかし、空襲で焼け野原になってしまったため、戦後まもなく新宿復興計画が始まった。

この復興計画では、現在の新宿バルト9、世界堂のある新宿3丁目から甲州街道沿いの南新宿~西新宿エリアが中心になる予定だったという。それもそのはずで、街道沿いのほうが発展していたし商売人も多く集まっていた。要は、既得権益が発生していたのだ。儲けにつながる特権を手放すような商売人は少ないので、当然の展開ではある。

しかし、その計画にストップをかけた人物がいた。鈴木喜兵衛氏である。いきなり個人名を出されてもわからないだろうが、歌舞伎町を語るうえで欠かせない人物だ。とはいえ、何か大きな権力があったわけではなく、当時は、町内会の指導者的なポジションだったという。

鈴木氏は新宿を再編するにあたって、既得権益の保護よりも、未来の発展のために新しい場所を中心にすべきだ、という持論で周囲を説得した。氏の意見を新宿の人々は受け入れたのだから、氏の果たした役割は大きかったのだ。

そして生まれたのが〈歌舞伎町〉である。新しい文化をもたらす街の名前として復興計画課長だった石川栄耀氏が提唱したものだ。

その後、様々な企業が次々と歌舞伎町に施設を建設するようになった。

ここまでの流れに台湾がまったく絡んでいないのは、歌舞伎町史の表側をなぞってきたからだ。台湾人たちは歴史の裏に入り込んでいた。

「華僑」とは、中国から世界各地に移住した中国人のことである。そのなかでも、1978年に実施された、中国の改革開放政策以前に日本に移住してきた華僑を「老華僑」と呼ぶ(対して、改革開放政策以後に新たに来日した人々は「新華僑」と呼ばれている)。

日本の敗戦以前、台湾は日本であった。日本が併合していた歴史についてはここでは割愛するが、ともかく台湾とは戦前から人の往来があったのだ。そのため、歌舞伎町では、一定数の台湾人華僑が勢力を持っていた。

表立ったまっとうな権力、というよりも、裏社会に通じた権力であったのは、戦後の新宿に闇市があった、という事実からもおわかりいただけるだろう(もちろんすべての台湾人が裏社会と関係していたわけではなく、そういう勢力が目立っていたということである)。

当時と現在で圧倒的に異なることがある。それは「中国人」に対する認識だ。日中の国交正常化は1972年。それより前は、中国人や中国系のマフィアといえば老華僑だった。彼らの果たした役割は、台湾と日本の架け橋になること。それも裏社会のパイプである。

1984年に台湾で「一清専案」という黒社会の一斉取り締まりが実施され、黒社会のメンバーが台湾から逃亡した。その際、日本で彼らの受け入れ体制を整えたのも老華僑であった。彼らが歌舞伎町に台湾マフィアを呼び込んだからこそ、歌舞伎町を舞台にした抗争事件なども勃発した。

台湾マフィアが跋扈した時代も、今となっては、遠い昔のように思えるだろう。実際、台湾マフィアが、拠点としての軸を日本から外して約30年近くが経過している。だが、台湾的なものがすべて歌舞伎町から消え去ったわけではない。老華僑と呼ばれた台湾人たちの痕跡は、今の歌舞伎町でも見つけられる。

歌舞伎町のモニュメントとして知られる風林会館。有名喫茶パリジェンヌが入店しており、ビルの前はキャッチ、ホスト、スカウト、待ち合わせの人などで時間帯を問わずに賑わっている。このビルのオーナーは台湾人だ。ビル名に入った「林」は、彼の名前からきている。また、ホストクラブ密集区にある〈LEEビル〉の所有者が台湾人なのも、歌舞伎町の住人には知られたことである。

さらには「ゴリラのところ」といえば大抵の人が知っているあのビルの名称も、〈台湾同郷協同組合ビル〉であるから、関係性はいうまでもないだろう。

ほかにも、知り合いが入店するビルのオーナーが台湾人、というケースは以前から耳にしていたし、歌舞伎町であればそれほど珍しくもない。口の悪い人は「戦後のどさくさに紛れて勝手にビルを建てたんだ」などというが、現在に至るまで経営し管理しているところからも、それぞれのオーナーが苦労を重ねて歌舞伎町発展への貢献は、疑う必要もないだろう。

ただし、歌舞伎町の歴史をつくった台湾人オーナーのビルも、いまでは減りつつあるという。

この取材を始めた当初、歌舞伎町に毎日のように入り浸る友人に、「台湾人オーナーのビルを探している」と伝えたところ、「K観光?」と聞かれた。

調べてみると、池袋や新宿でカラオケを経営している韓国系の企業だった。ビルも見たことがある。その旨を友人に伝えたところ、別の人を紹介された。

「歌舞伎町のビルの話について調べるなら、区役所の裏あたりにある〈F〉ってバーの店長が詳しいかもよ」

伝手を頼って〈F〉を訪ね、話を聞いてみると、50代の店長は事情通であった。

「歌舞伎町のことで調べているんですが」

台湾の黒社会の歴史を調べていること、台湾人オーナーのビルを探していることをまとめて話すと、「ざっくりとでいいなら」と前置きして、現在の歌舞伎町の実態について教えてくれた。

「歌舞伎町にあるビルの4、5割は韓国人がオーナーだね。あとは日本人。台湾人はだいぶ減ったんじゃないかな。でも、古いビルのオーナーさんなんかはいまでも台湾人が多いよ」

「歌舞伎町のビルは権利関係がごちゃごちゃしているっていうじゃないですか」

「それは又貸ししている人たちの間で、ってことだと思う。フロアごとにオーナーみたいになって又貸しする人もいることはいるから。でもビルを所有するとなると、そういうわけにはいかない。ビルの運営のために日本で法人化している人も多いんだよ。ただ、全オーナーの2割程しか町内会に加入してないから、俺も全部の人を把握しているわけじゃないけどね」

「でも詳しいですね」

「歌舞伎町の町内会活動に参加しているからね」

歌舞伎町に町内会があるのにも驚いたが、現在の歌舞伎町で台湾華僑の占める割合がそれほど大きくはないのは把握できた。もちろん今でも力を持っている老華僑はいるのだろうが、かつてのように裏社会とのパイプ役になったり、巨大な企業を経営して、街の実権を握る、といった類ではないだろう。そういう意味でも時代の流れを感じざるを得ない。

最後に、歌舞伎町のもつ独特のカオス感とでもいうべき雰囲気だが、これは、細かく区切られた敷地に建てられた小規模ビル群が生み出しているのだ。歌舞伎町の小さな通りを歩くと、建物に視界が遮られるはずだ。実は、復興計画でT字路を多用したからだ。

では、なぜそんな面倒な街づくりをしたのか。

それは、一回で飽きない街にするためだったという。つまり、都市のなかでも〈闇〉の部分にあたる、見えにくい空間を意図的につくり出し、来訪者を飽きさせないよう、迷宮のような街づくりを心がけたのだ。そのブロックを形成していたビルを所有していたのが台湾人がオーナーだったとなると、歌舞伎町は、路地奥がどこまで続いているのかわからない台北の黒社会が根付く萬華地区のような街ともいえるのかもしれない。

歌舞伎町と台湾、その奇縁は、現在の台湾ブームと結びつかないだろう。しかし、日本人として、日台の奇縁について知っておくのは、決してマイナスにはならないはずだ。歌舞伎町の生み出す独特のカオス感。そのいっ端を台湾人たちが担っていた時代があった。そう意識しながら歩いてみると、歌舞伎町の見え方も少し変わってくるかもしれない。

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【台灣黑社會】
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