片野 勧の衝撃レポート⑧「戦争と平和」の戦後史⑧ 『残留日本人孤児と中国養父母』<下>『「中国語、とても上手ですね」劇的な出会い』●『国家賠償集団訴訟を東京地裁に提訴』●『残留孤児問題はまだ終わっていない』●『自伝『この生あるは―中国残留孤児がつづる』★『日本へ帰ったら、日中友好のために』
片野 勧の衝撃レポート⑧「戦争と平和」の戦後史⑧
『残留日本人孤児と中国養父母』<下>
片野 勧(フリージャーナリスト)
■「中国語、とても上手ですね」劇的な出会い
「今村明子」の名で13年間、日本で生活した後、池田さんにまたも劇的な転機が訪れた。1994年12月4日――。代々木のオリンピックセンターで中国残留孤児の訪日調査が行われた。通訳を務めた池田さんは終了後、会場内の喫茶店に入った。窓側に座ってパンとお茶で食事をとっていた。
「ここに座っていいですか?」 顔を上げると、60代ぐらいの女性2人が立っていた。そのうちの1人が池田さんに話しかけてきた。
「あなた、中国語、とても上手ですね」「私は中国語しかできないんです」
「どうしてですか?」「私は50年前、中国に残された残留孤児なんです」
「そうですか……。私の妹も50年前、中国に残されました」
「あなたの住まいはどこですか?」「黒竜江省です」 「
黒竜江省のどこですか?」「牡丹江市です」
「あなたの名前は何ですか?」「徐明です」
1時間以上、話をした。しかし、話をすればするほど、3人の会話は通じ合った。
「あなたは誰の家に預けられたか覚えていますか?」 「あっ、わかっています。李です」
地図を書いて、ここが難民収容所、ここが李さんの家……と説明。 「李さんの仕事は?」「大工です」
姉妹であることは間違いない、と思った。しかし、一度、失敗しただけに2回目の人違いだけは避けたい――。
池田さんは河合弁護士に相談して、厚生省にDNA鑑定を依頼した。
しかし、結果は待っても、待ってもこない。あきらめかけていたところ、1年7カ月後にきたのだ。それは忘れもしない1996年7月31日だった。99・999%の確率で姉妹であることが認められたのだ。
池田澄江――。50年かかって辿り着いた4つ目の名前に、やっと自分が誰だかがわかった。日本名もわかった。満州で生き別れた姉たちと抱き合い、池田さんはうれし涙に暮れた。
しかし、池田さんにはどうしても会いたい人がいた。実の母親である。しかし、その母は半年前に亡くなっていたという。姉の話――「お母さんは最後まで澄江ちゃんを捜していたんだよ」。
池田家は茨城県の土浦だった。車なら、わずか1時間ほどの距離。池田さんは日本にきてから13年も、こんな近くにいたのに……。たった一度でいいから、母の口から「澄江ちゃん」と呼んでほしかった、と今も悔やんでやまない。
池田さんはもちろん、父親にも会いたかった。父は1948年、帰還したものの、1960年代に亡くなっていた。ついに生きて、お父さん、お母さんに会うことは叶わなかったのである。
■国家賠償集団訴訟を東京地裁に提訴
多くの残留孤児が日本に帰ってきたのは40歳、50歳を過ぎてからだ。
しかし、せっかく祖国の土を踏んだのに、言葉が通じない。そのために低賃金の重労働に追いやられた人は少なくない。 また当時、6割を超える残留孤児は生活保護を受けていた。そのために老後の生活保障などを求めて署名活動や国会請願も行った。しかし、厚生労働省も国会も動かなかった。
国の孤児政策を変えるには裁判しかない――。
池田さんらは2002年12月20日、629人による国家賠償集団訴訟を東京地裁に起こした。東京を皮切りに鹿児島、名古屋、京都、広島……へと広がり、最終的には全国15地裁で集団訴訟を起こしたのである。原告は永住帰国者の約9割の2210人余。
しかし、彼ら・彼女らが本当に求めているのは損害賠償ではなく、国の孤児政策の転換だ。残留孤児の人権の回復であり、人間としての尊厳を取り戻すこと。晩年を心やすらかに暮らす権利であり、自由だった。
「中国残留孤児」の人間回復を求める100万人署名も行った。
こうした中、新しい支援策を盛り込んだ改正案が2007年11月、国会で可決・成立。これと引き換えに原告側は訴訟を取り下げた。先に触れたように、私がネットで目にしたのは、取り下げ時の「意見陳述書」だった。
■残留孤児問題はまだ終わっていない
しかし、新支援策を盛り込んだ改正案ですべて決着したのではない。池田さんの話。 「支援金をもらって、『ハイ!さよなら』ではなく、支援金を受けることができたのは国民が応援してくれたからということを忘れないでほしい。それと中国の養父母がいたから、今の私たちがいることも感謝しなければなりません」
さらに池田さんは言葉を継ぐ。
「これで残留孤児問題は終わった訳ではありません。肉親が見つかっていない人も、まだたくさんいます。1000人以上は自分の名前は分からない。生年月日も……」 他人のことを気にせず、本当に自分と向き合ったことはあったのか?
考えながら私は会議室を出て、失礼しようと思った。ところが、「ちょっと覗いてみませんか」と池田さん。案内されたのは地下1階にあるリハーサル用のスペースだった。
「ここでほぼ毎日、中国帰国者向けに日本語、舞踊、歌、楽器、ダンス、太極拳などの無料教室を開いています。こうして帰国者は親睦を図っているのです」
教える先生は中国帰国者であったり、ボランティアの日本人であったり、さまざま。40人から50人が「中国残留孤児の家」にやってきて、仲間との時間を楽しんでいるのだ。
帰国の身元引受人、国籍取得の申し立て、日本語教育、就職の手伝い……。
そして裁判闘争へ。しかし、日本の対応は冷たかった。裁判も敗訴に次ぐ敗訴。だが、池田さんはあきらめない。いや、強い贖罪意識と冷たい日本社会への憤りは、ますます高まった。
2006年12月、画期的な神戸地裁の勝訴判決も出た。
中国残留孤児に国の責任を認め、賠償を命じる初の司法判断である。判決の中に注目すべきは、「少なくとも北朝鮮による拉致被害者と同等の権利があるはず」の1節だった。
「私たちは日本人です。日本人は恩を忘れない。恩返しをしたい」
私は、日本の国策によった苦しみながらも、日本に恩返ししようとする池田さんの言葉を聞いていて、戦争とは何か、国家とは何か、そして人間とは? 自問しながら私は「中国残留孤児の家」を後にした。
■自伝『この生あるは――中国残留孤児がつづる』
もう一人の呼びかけ人、中島幼(よう)八(はち)さんは、昨年、自分の半生をつづった自伝『この生あるは――中国残留孤児がつづる』を自費出版した。ここには瀕死の幼い命を救った善良な中国の人々の姿が描かれている。なぜ、今、出されたのですか。私は尋ねた。2016年10月14日午前11時、世田谷区の二子玉川公園のベンチで。
「戦後70年、中国残留孤児なんて、片隅に押し込まれて、段々記憶の中から忘れられていくのではないのか、という心配があって書きました」
中島さんは現在74歳。一生を振り返った時、自分の今あるのは中国の養父母のおかげだということをつくづく思う。 中島さんは東京・三田の生まれ。1歳のとき、クリーニング店に勤めていた父・博司さんに連れられ、母と姉の4人で開拓団員として、中国東北部(旧満州)に渡った。今の黒竜江省寧安県だ。
それは1943年10月ごろだった。新潟港から出た船は「白山丸」といった。入植したところは小さな集落。冬になればマイナス35度にもなる山間地で、日本人も中国人も一緒に住んでいた。大きな夢を抱いて満州に入り、開墾に従事していた父に出征命令の赤紙が来た。
■開拓団500人の約3割は死亡
45年7月26日、父は家族と別れて、戦争に駆り出され、音信不通になった。敗戦の3週間前だった。8・15敗戦後、約500人の開拓団員たちの逃避行が始まった。その中に当時3歳の中島さん、8歳の姉、妊娠6カ月の母・キヨさんがいた。
しかし、食糧難と厳しい寒さ。それに収容所に蔓延する疫病(チフス)……。開拓団員たちの約3割は亡くなった。そんな極限状況の中で子どもの首に手をかける母親もいた。
中島さんの妹も、生まれてすぐに栄養失調で死んだ。このままでは幼八も死んでしまう――。そう考えたキヨさんは旧知の中国人に「だれかいい人がいたら幼八を預けてくれませんか」と頼み込み、泣く泣く幼八を手放した。
「この幼い命を私が育てます」――。
手を挙げたのが、のちに養母となる孫振(スンジェン)琴(チン)さんだ。中島さんには「来福」という名がつけられた。福が来るようにとの願いが込められていた。中国人の養母は中島さんのお腹をさすり、食べ物をかみ砕いて口移して食べさせ、根気よく死の淵から育て上げたのである。
1946年の秋、引き揚げが決まった実母が中島さんをめぐり養母と争いになった。そこで村の役人が調停に入った。約20メートルの距離を取って実母と養母2人を立たせた。「どっちのお母さんにつきたいかな?」。中島さんは日々を共に暮らしてきた養母のもとに駆け寄った。実母は姉と寂しそうに帰っていった。
1957年の、ある土曜日のことだった。雪はかなり積もっている真冬、七峰駅から大平溝駅へ帰る車中、小学校の恩師・梁志傑先生と向かい合って座った。
「君はたしか日本人だという話だったよな」「はい」「日本から連絡はあるのか」「はい、連絡はあります」「君は日本へ帰りたい気持ちはないのか」「ううん、僕はとくに帰りたいと思っていません」
こんな会話をくり返していた。さらに梁先生は突っ込んで聞いてきた。
「日本にはどういう人が居るんだい?」「母親が東京に居るようです。あとは知りません」
■日本へ帰ったら、日中友好のために
実の母親と別れて10年近くになる。しかし、中島さんには親と言えば、むしろ養母の方が親に近い。そのことを梁先生に率直に話したところ、返ってきた言葉は――。 「きみがそういう気持ちになるのは無理もない。物心がつく前からだものね。この現実こそ世の中においてもっとも悲しいことだ。血のつながる親子が、侵略戦争という異常な事態によって、無惨に引き裂かれたことがね」
さらに梁先生は語った。
「最近、日本と中国の関係はますます悪くなったようだ。……(中略)為政者たちは無惨な歴史をさらに繰り返そうとしている。憂うべき情勢だよ。……君が日本へ帰ったら、日中友好のために一所懸命やってくれると嬉しいなあ」 中島さんは梁先生に期待されていることを実感した。 「梁先生、僕、日本へ帰ります」(前掲書『この生あるは』)
1958年7月13日。中島さんらを乗せた最後の引き揚げ船「白山丸」が天津港を出て、京都・舞鶴港に着いた。黄色いのぼりが目に入った。「歓迎中島幼八君」――。この時、16歳だった。女性2人と男性3人が近づいてきた。その中の一人、中年女性が中島さんの腕を引き寄せ、目が潤んでいた。母親との再会を果たしたのである。
その後、中島さんは定時制高校で日本語を習得し、中国語の通訳として活躍。数多くの訪中団や平山郁夫画伯の楼蘭紀行に同道するなど日中交流に尽力した。
今、中島さんは振り返る。「日本は祖国だが、育ててくれた故郷は中国です。中国人は侵略者の日本の子と知りながら、養父母も先生も同級生も差別せず、接してくれました。今、私たちが生きているのは中国の養父母たちがいたからです。感謝しなければなりません」
養母を思うと、今も涙が込み上げるという。中島さんの話。
「中国を嫌う日本人は多い。とくに政治家が中国を仮想敵国にするのは悲しい。人と人とが心で触れ合えば、必ず好きになれるはずです」 中国残留孤児を描いたNHKドラマ「大地の子」に出演した俳優・仲代達也さんが「フォーラム」にメッセージを寄せた――。
「庶民は常に戦争の犠牲となるものだ。攻める側にも、攻められる側にも、戦争は決して幸福をもたらさない。日中間の戦争の傷痕は癒すことの出来ない過酷なものだが、その中でも、敵国日本の子どもを育て上げた中国人養父母の存在は、われわれ人間の未来に何かしら一条の光を投げかけるものではないだろうか」
もしも、自分が残留孤児だったら……。残留孤児の抱える苦悩と、少しの希望を想像しながら、私は中島さんと別れた。
(かたの・すすむ)
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