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 片野 勧の衝撃レポート⑦「戦争と平和」の戦後史⑦ ー 『残留日本人孤児と中国養父母』<上>』★『厳しい寒さと飢餓と伝染病に冒され』●『中国残留孤児問題フォーラム』●『生後10カ月で中国の養父母に預けられた』●『私の生みの親は誰なの?』

      2016/12/25

 片野 勧の衝撃レポート⑦ー「戦争と平和」の戦後史⑦

『残留日本人孤児と中国養父母』<上>

             片野 勧(フリージャーナリスト)

 

厳しい寒さと飢餓と伝染病に冒され

王道楽土と国をあげて喧伝した新天地には多くの民間人が移り住んでいった。開拓移民、駐在員、教師、公務員……。彼ら・彼女らは国策に煽られて異国に夢を抱いてやってきた。

終戦時、関東軍の手でつくられた「満州国」には敗戦当時、約155万人の日本人がいた。そのうち、約27万人は満蒙開拓青少年義勇軍を含めた開拓移民である。その中には貧農や路上生活者、戦災で焼け出された人たちもいた。  しかし、開拓とは名ばかりで、現地の人々から田畑を奪い、しかも関東軍によって主導された開拓団は、満鉄の防壁として計画された。

8・15「敗戦」直前の8月9日未明、ソ連軍が突如、北部国境から侵攻を開始した。そこから在満日本人の運命は一変する。国境には国策によって推進された「満蒙開拓団」が点在していたが、すでに日本軍は追い詰められ、開拓村はまたたくうちにソ連軍の戦車群に蹂躙された。

関東軍は在満の日本人男子を根こそぎ動員し、彼らのほとんどがソ連軍の手でシベリアへ送られたので、残されたのは老人と婦女子ばかりの集団で、逃げることもできずに襲われたり、餓死したり、集団自決に追い込まれたりした。

日本人男子は難民と化し、厳しい寒さと飢餓と伝染病に次々と倒れ、20万人余が死亡した。その遺体の多くは果てしなく続く中国の大平原に捨てられた。しかし、その中で生き延びた幼い子供たちや婦人たちがいた。辛酸をなめた婦女子たちは戦後、中国大陸に置き去りにされ、中国人の養父母に育てられたのである。

日中共同声明が出され、両国の国交正常化が実現するのは、戦後27年を経た昭和47年(1972)。それから6年後、ようやく日中平和友好条約が締結され、それを待ち構えたように、中国に残留していた婦女子たちが日本に里帰りしたのである。

しかし、そこで待っていたのは――。日本語が話せないために社会に溶け込めない子。生活習慣の違いから家庭内にいざこざが絶えない婦人。そして日本社会の「見て見ぬふり」の仕打ち……。

戦後71年。私は中国残留日本人孤児のその後を追い、彼ら・彼女らの思いを聞いて歩いた。

■中国残留孤児問題フォーラム

この日、会場は熱気に包まれていた。500人は入っていただろうか。「中国残留孤児問題フォーラム」。両国国技館の隣に位置する江戸東京博物館1階大ホール。イス席は満員。後ろには立ち見する人もいた。2016年10月2日――。空は晴れ渡っていた。

私は事前に入場料金をゆうちょ銀行に振り込んでいたために、幸運にも会場受付で入場券を手にすることができた。しかし、なかには入場できずに帰られた方も大勢いたらしい。  呼びかけ人の1人、池田澄江さん(71)は「開会あいさつ」でこう述べた。池田さんは「NPO法人中国帰国者・日中友好の会」(事務局・台東区)の理事長である。

「71年前、私たちは生まれたばかりの赤ちゃんから中学生ぐらいの子どもでした。

1945年、日本は戦争に負けたために、中国にいた約155万人の日本人の多くは避難民となりました。しかし、避難民の私たちを中国人のお母さんたちは助けてくれました。道端で、あるいは畑の中や川べりで拾ってくれて九死に一生を得ました」

そもそも「中国残留孤児」とは――。

旧厚生省のつけた定義によると、1945年8月9日のソ連の対日参戦時、旧満州国で肉親と離別し、身元の分からない12歳以下の日本人児童のことを指す。13歳以上の日本人は大半が女性であるため、「中国残留婦人等」と区分されてきた。

これまで日中両政府が日本人孤児と認めた数は、2818人。そのうち日本に永住帰国した孤児は、2555人。家族を含めた孤児の帰国総数は9374人。ただし、国が調査開始前に帰国した「自費帰国者」「20歳以上・既婚の2世」は含まれていないという(平井美帆『中国残留孤児 70年の孤独』集英社インターナショナル)

池田さんの話は続く。  「私たちはやさしい中国の養父母のことを決して忘れることはできません。貧しい中国の養父母たちは『日本のスパイ』と濡れ衣を着せられました。大変な精神的被害を受けながらも、周りの人々の白い目をくぐって、敵国の私たち日本人を命を賭して大切に守り育ててくれました」

池田さんは何かを訴えかけるかのように両手を動かす。「ところが……」といって、言葉を継ぐ。  「私たちはせっかく祖国日本に戻ってきても、日本語を話すことができません。日本名も分かりません。生年月日も分かりません。今も日本の社会に飛び込むことができずに、寂しい人生を送っている人もいます」

言葉の壁。生活習慣の違い。身元不明……。たとえ、親戚が見つかっても交流ができなかった悔しさをにじませた。

池田さんは最後にこう締めくくった。

「戦争によって私たちの人生はズタズタに破壊されました。もし、中国人の養父母がいなかったなら、私たちは死んでいます。私たちは中国の養父母たちに感謝します。また戦争に反対し、日中友好を子々孫々に続けていくことを誓います」  会場から大きな拍手が起こった。しばらく、鳴りやまなかった。私は、この拍手の音を聞いていて、思った――。

私たちは戦後、高度経済成長の中で幸福を享受してきた。でも、その幸福は何によってもたらされたのか。その陰で苦しみ続けてこられた残留孤児たちがいたからではないのか、と。

いや、孤児たちは我々の身代わりとして一身に負ってきたのではないのか、と。

■生後10カ月で中国の養父母に預けられた

1944年10月14日、黒竜江省で生まれた池田さんは、これまで4つの名前を持っていた。それはちょうど池田さんが中国の養父母に預けられ、その都度、名前が変わったことと深い関係があるからである。

私は「池田澄江」でネット検索したところ、意見陳述書を見つけた。それは中国「残留孤児」に対する新支援策が成立したため、訴えを取り下げた時の意見陳述書だった。その書き出し――。「原告1番の池田澄江です。全国2211名の原告団全国連絡会の代表です。この『池田澄江』という名前は、私が生まれた時、両親がつけてくれた名前です。でも、この名前は、私にとって4番目の名前です。この名前にたどり着くまでに、私は51年かかりました」

A4サイズにして4ページ。そう長い文章ではないが、そこには養父母に預けられてから今日に至るまでの彼女の人生が切々と綴られていた。その一言ひとことは私の胸を打つ。熱いものが込み上げてくる。この感動は一体、どこから来るのだろう。私は彼女に会って話を聞きたいと思った。

2016年10月9日午後1時――。

山手線・御徒町駅から歩いて7、8分の商業ビルに、池田さんが理事長を務める「NPO法人中国帰国者・日中友好の会」があった。「中国残留孤児の家」――。窓にはステッカーが貼られ、目印の看板が掲げられていた。  私は1階の会議室に通された。池田さんは語り始めた。池田さんの父は職業軍人。池田さんは5人兄姉の一番下で中国で生まれた。

「私はネ、生まれて10カ月後に終戦を迎えたの。父も母も知らないの。父はシベリアに連れて行かれてしまいました。母は1945年、生後10カ月の私を連れて避難しましたが、途中、栄養失調で乳が出なくなりました。食べ物もないし、このままでは私が死ぬと思って、中国人に預けられたのです」

1946年、母は兄と姉3人を連れて日本に帰国。残されたのは、生後10カ月の池田さんのみ。預けられたのは黒竜江省牡丹江の李という姓の中国人家庭だった。その後、徐さん夫妻に引き取られ、「徐(シュ)明(ミン)」と名づけられ、育てられた。池田さんは自分が日本人であることさえ知らなかった。

小学2年生になった、ある日のこと。抗日戦争を題材にした映画を観ていたら、日本兵が中国人を殺傷する光景が映し出された。と、その時、突然、同級生が池田さんを「小日本(シャオリーベン)」「小日本(シャオリーベン)鬼子(グイズ)」(日本人に対する蔑称)と責め立てたという。

これを見ていた担任の先生が、池田さんを責めた生徒に「映画の中の日本兵は悪い人。でも、池田さんはただの子ども」と説明。池田さんは、「この先生は弱い者を守る偉大な存在」と慕い、自分も大きくなったら教師になり、この先生のように他人を助けたいと思ったという。

「私の生みの親は誰なの?」

その後、池田さんは師範学校に入学。卒業後は山間部の小学校に配属され、幼少期の夢が実現した。この時、林業に携わる作業員と結婚し、3人の子どもにも恵まれた。しかし、池田さんにはただ1つ、気がかりなのがあった。自分を産んだのは誰なのか。自分の身分は何なのか――。

1972年、中日国交正常化の知らせが届いた。「生みの親に会える」――。池田さんは小躍りして喜んだ。その後、池田さんは牡丹江に転勤となった。池田さんは養母に自分の思いを伝えた。「私の生みの親は誰なの?」――。

養母は進んで最初に池田さんを引き取った李家に連れて行ってくれた。しかし、あいにく引っ越して手がかりが見つからない。  1980年、池田さんは牡丹江を訪問した日本代表団の記者に依頼し、日本の新聞報道を通して、親戚を探してもらった。北海道に住むYさんから、自分が中国に残してきた娘かも知れないという手紙をもらった。双方の描写にも類似点が多く、血液型も一致した。

1981年7月、生みの父親が見つかったと思いこんだ池田さんは6カ月の訪問ビザを申請。3人の子を連れて自費で訪日した。その時、36歳。Yさんは関係当局に出向き、家族である証明を取ろうとしたが、DNA鑑定の結果、2人は親子でないことが判明した。  「その時の絶望感といったら言葉に言い表せません。それに追い打ちをかけるように法務局から強制送還すると言い渡されました」

やるせない思いの中で、日本語の分からない池田さんは通訳事務所へ行く。日本にある中国領事館と連絡が取れ、領事館を訪問。そこから再び、肉親捜しが始まった。しかし、明らかに中国残留日本人孤児と分かっていても、日本政府は拒んだ。

そんなある日、中国残留経験のある弁護士に出合う。河合弘之弁護士である。池田さんは河合弁護士ら多くの人たちの支えがあって、1982年、池田さんは中国政府発行の孤児証明を根拠に就籍を東京家裁に申し立て、日本国籍を取得した。これは肉親がわからないまま孤児証明をもとに日本国籍を認められた第1号だった。

名前はかつて支援してくれた通訳者の苗字と中国の養父母がくれた名前を残して「今村明子」と改名した。自分にとって3番目の名前になった。  その後、池田さんは河合弁護士事務所で働く。試用期間1カ月からスタート。毎日、朝9時から夜8時まで、事務所の清掃から、コピーの手伝いなどできることは何でもやった。

2年後に正社員として迎えられ、業務は残留孤児の日本国籍取得サポート。以来、12年ほど就籍の事務をほぼ1人でこなした。  「私は1300人の書類を見ました。一人一人の書類を見るたびに涙があふれました。彼らは私よりももっと悲惨でした」――。いろいろな思いを巡らせながら必死にサポートした。

 

 - 戦争報道, 現代史研究

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