イギリスの戦史家J・F・C・フューラー少将は、「英米は、民族抹殺を強調した無条件降伏を主張したことにより、この大戦における聖戦の大義名分を失った」ことを認めている。
(ウェデマイヤー回想録より)
国際紛争解決の最終手段である戦争には目的がなければならない。国家と国家の主権がぶつかって交渉による合意が成立しなかったために起こるのが戦争だから、戦争には目的があるはずである。
米英は日独に対し、”無条件降伏要求”という条件提示の無い戦いを強いた。これでは戦争終結のための条件闘争が成立しないため、米英の目的がわからず戦争の出口も見えないまま日独は最後の一兵まで戦わざるを得なくなる。終着点が見えないまま感情に駆られてお互いに敵国人を殺戮すること自体が目的化してしまう。
事実、沖縄戦の後のポツダム宣言には「日本人を奴隷にしないし、日本国民を滅亡させない」と述べられている。そのような条件を入れなければ日本は降伏しない、日本側にそのような懸念があると連合国側が認識していた証拠です。アメリカ先住民を殺し尽くし、黒人を奴隷にしたアメリカが、カイロ宣言で「野蛮なる敵国(日独)に仮借ない弾圧を加える」と宣言して日本人を追い詰めたのです。
米英にとっての第二次世界大戦には公にできる目的、つまり大義がなかったのである。
「フセインが大量破壊兵器を隠しているという証拠がある」という”大義”でイラクを攻撃したのに、実はなかった。イラク戦争にも第二次世界大戦にも、決して公にはできない隠された目的があったということである。
ルーズベルトの戦争計画~真珠湾に誘い込まれた日本
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1943年1月14日~23日 カサブランカ会談
ローズヴェルトとチャーチルが枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針を確認
1943年11月 大東亜会議
史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議。当時の日本やその同盟国がイギリスやアメリカなどの旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた
1943年12月1日 「カイロ宣言」がメディア向けに発表
連合国は日本国が無条件降伏に同意するまで断固たる軍事的圧力をかけることを決意
『三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ』
(カイロ宣言より抜粋)
1944年6月29日 増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで潜水艦に撃沈され、将兵4,600人中約3,700人が犠牲
軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、疎開に対する不安を煽る結果となった
1944年7月7日 サイパン島が陥落
バンザイクリフでの自決者の数は1万人にのぼるとも言われる。
東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を疎開させることが決定され、沖縄県に通達
このころから特攻が本格的に検討されはじめた。
1944年8月22日 政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け対馬丸が沈没し、犠牲者数1,476名
1944年9月 最高戦争指導会議で広田弘毅を和平仲介のためソ連に派遣する決定を下したが、ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフによって特使受け入れは拒絶
1944年10月9日 ダンバートン・オークス提案が公表された
正式名は「一般的国際機構の設立に関する提案」で、後の国連憲章になる
1944年10月10日 沖縄大空襲
非軍事目標である市街地を狙って攻撃。本島全体では330人が死亡し、455人が負傷
この大空襲が県民の疎開を促進
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開
1944年10月21日 神風特別攻撃隊の初出撃
1945年2月 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
ドイツ敗戦90日後のソ連の対日参戦、国連安保理の評決方式(五大国の拒否権)などが決められた
1945年3月10日 東京大空襲
国際法を無視した無差別爆撃による死者数10万人以上
1945年3月15日 アメリカ軍が硫黄島の完全占領を発表
アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名
護衛戦闘機の直援を受けたB-29爆撃機による昼間の中高度以下の爆撃が可能に
1945年3月24日 沖縄本島南部に対する艦砲射撃
1945年4月1日 米軍が沖縄本島上陸
1945年4月12日 ルーズベルト大統領が死去、副大統領トルーマンが大統領に就任
1945年5月8日 ドイツ軍代表がフランスで降伏文書に調印し無条件降伏
1945年6月20日 天皇が東郷外相に戦争終結を急ぐように語り、22日には戦争指導会議の面々を呼び、戦争終結への「具体的研究」を勧めるように指示
日本側は駐日ソ連大使マリクを通じてソ連に仲介を頼んでも直接スターリンに依頼しても返事が無かったが、ソ連は8月9日に中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦。
アメリカ側はこの日本側の終戦工作を知っていた
1945年6月25日 大本営が沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表
アメリカ軍の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人
1945年6月26日 サンフランシスコ会議
国際連合憲章に51カ国が署名、国際連合設立が決定された
1945年7月26日 ポツダム宣言
「日本軍は無条件降伏だが日本国は有条件降伏」
この宣言の草案には当初、天皇の地位を保証する条項があったがトルーマン大統領によって削除され、発表前日に原爆投下命令が下された
のちにこれを日本側が受諾して終戦
『日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない』
(ポツダム宣言より抜粋)
1945年8月6日 広島に原爆投下
1945年8月9日 長崎に原爆投下、ソ連が日本に宣戦布告
1945年8月15日 玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の音読)
『日本本土への上陸作戦による米兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であった』
このような理由で原爆投下を正当化したアメリカですが、それならば沖縄上陸の前に日本側が受け入れ可能な条件を提示すれば良かったのです。沖縄戦が終わってからでも条件提示をして、日本側の返答を待てば良かったのです。わざわざウラン型とプルトニウム型を一回づつ一定規模の都市に落とす必要などなかったのですから、原爆投下の理由は「新型兵器を使ってみたかったから」だとしか考えられません。
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第一次世界大戦までの戦争は、日露戦争のように戦局の行方がはっきりしたら第三国に仲介を頼むなどして「講和会議」に持ち込むのが通例でした。「無条件降伏要求」のような傲慢で野蛮な要求は、アメリカ先住民に対する”民族抹殺”を彷彿とさせます。
『戦争は、目的を達成するためにとるべき最後の手段であり、また、そうでなければならない。だから、戦争は政策の代用物ではあり得ない。それなのに、ルーズベルトとチャーチルをはじめ、西側の戦勝計画者たちも戦争を政策の代用と考えていたように思われる。彼らは手段と目的とを混同し、政策に変えて全面的な勝利を求めたのである。そして彼らは文明社会の戦争目的を明確にし、その戦争目的を最小の代価で達成しようとするかわりに、また、一時的に嫌々ながら連合国側に荷担しているソ連に対して、我々は将来、どのような国防態勢をとらねばならないか、という批判検討を忘れて、彼らは敵に対して無条件降伏を要求した。明確な政治目標がない限り、戦争は、単なる目的のない殺戮、あるいは意味のない人殺しに過ぎない。いくらかでも軍事的専門知識を持っていると自負している軍人なら誰でも、戦争のこの事実をよく認識している。』
『ルーズベルト大統領は、第二次世界大戦の終結に当たり、何か計画を持っていたかと言えば、彼は三大国による懲罰的戦後処理を強行しようとしただけで、現実的で人道的な平和条約の諸条件を提案するかわり、無条件降伏を主張することによって、アメリカ自らヨーロッパとアジアにおいて、スターリンの勢力を増大させたのである。』
『我々の要求した無条件降伏が、敵の抗戦意思を増大させたことは言うまでもなく、ヒトラーにとって最悪の敵であったドイツ軍人たちにとってさえも、祖国を救うためには、戦争をやむなく強行するほか、取るべき策はなかった。死地に追い込まれたドイツ軍は、かえって決死の勇気を奮い起こして、最後まで英雄的に戦った。』
『カサブランカで、ある朝のアメリカ軍統合幕僚長会議で、マーシャル将軍は議事録に載せないように断り、無条件降伏の問題を持ち出した。ディーン統幕事務局長は、すでに私に対して、この問題について大きな関心を持っている、と話していた。彼は思慮分別に優れ、理知的で、真っ正直であった。彼は極めて優秀な軍人であったから、彼に接した誰からも信頼されていたのは当然であった。ディーンは私の部屋に入ってきて、無条件降伏に対する私の意見を求めた。無条件降伏はドイツ国民を、最後の一兵まで戦わせることになるのは間違いないであろう、と私は答えた。
このことは私を心配させた。というのは、ドイツにはヒトラーを倒そうとしている人々が多数いることを私は確信していたからであった。こうした人々は、連合国側が行う反ナチス宣伝のせいではなくて、ヒトラーの反ドイツ的性格から我々が想像していた以上に存在していた。だから、我々の無条件降伏の要求は、逆にドイツ国民を結束させるにすぎないだろう。ディーンは、枢軸側に対する無条件降伏の要求は戦争の終結を遅らし、ソ連の勢力を増大して、長期間にわたり悲惨な結果を招くことを無視しようとするものである、と心配していた』
「無条件降伏要求」は、ヨーロッパで繰り返された戦争で数え切れないほどの人命を犠牲にしてつかんだ”文明”を台無しにする蛮行です。
かつてアメリカ先住民を殺し尽くし、有色人種を奴隷にしていたアメリカ人。
そのアメリカ人が東京大空襲で非戦闘員を無差別に殺戮し、日本に対し無条件降伏を要求して沖縄に上陸してきた。
この事実だけで当時の沖縄の人々は「我々もアメリカ先住民や東京都民のように皆殺しにされる」と恐怖におびえることは想像に難くないでしょう。
沖縄戦で戦った元米兵『奴らは人間じゃない、下劣な獣だった』『我々は相手を人間とは見なしていませんでした』
沖縄の集団自決について未だにサヨクの連中は「自決命令があった」とか確認できないことを批難していますが、すでに述べたように、沖縄の住民たちは自分たちがアメリカ先住民と同じ道をたどるのかと将来を案じて自暴自棄になるのは当然です。沖縄の日本軍も、物量が乏しい中で迫ってくる米軍にまともに対抗できるはずも無く、かといって野蛮な米軍を信じることもできなかったはずです。「戦陣訓」なんてものは軍人としてとるべき行動規範であり、沖縄の一般市民には関係がありません。
大田実沖縄根拠地隊司令官が自決する直前の6月6日の電報
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
以上
いったい旧日本軍はどうすれば良かったのでしょうか?
「無条件降伏要求」なんてされたら最後まで戦うしかないでしょう?
「自決命令があった」とか確認できないことを批難するよりも、サヨクのみなさんは「無条件降伏要求」という”文明”を否定する蛮行を批難するべきではありませんか?
在日米軍の撤退を要求するのは結構ですが、沖縄戦でのアメリカを批判せずに旧日本軍だけを批判するのは”偽善”というものではありませんか?
自決命令はありませんでした。
『「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。 』
”特攻”という作戦には議論がありますが、米英から早期に条件提示がなされていたら、沖縄戦や”特攻”のような悲劇は生まれなかったのではないでしょうか。
小室直樹「日本国憲法の問題点」より
『日本人を絶滅、あるいは奴隷化する、こう書くと、読者の中には「それは筆者の思いすごし、想像にすぎない」と反論する人もあるだろう。民主主義のリーダーを自認するアメリカが、そんなことを考えたりするはずもない。そう思う人は少なくないはずである。もちろん現実には、アメリカは日本に対してそうした「解決策」を行使しなかったわけだが、そのプランが頭をよぎらなかったかといえば、そうではなかった。
その何よりの証拠が、かのポツダム宣言である。一九四五年七月二十六日、トルーマン(米)、チャーチル(英)、蒋介石(中華民国)の三者はベルリン郊外のポツダム宮に会合して、日本への降伏勧告を行なった。このポツダム宣言の中で、最も電要な項目は何かと間われれば、筆者はためらうことなく次の一節を挙げるだろう。
『吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。』(ポツダム宣言・第十項)
ポツダム宣言の急所はまさにここにある。戦争犯罪人を引き渡せば、「日本人を民族として奴隷化」もしないし、「国民として滅亡せしめ」る気もない。だから、安心して連合国に降伏せよ。ポツダム宣言を通じて、英米および中国は最大限の譲歩を示してみせたのである。
今さら歴史の講義をするまでもなく、過去において白人は世界中で「民族絶滅」、「民族の奴隷化」を行なってきた。ペルーにおいてインカ帝国は滅亡させられた。アフリカの諸民族は奴隷としてアメリカなどに売られた。中国人もまた、この点では白人と同様である。
有色人種は白人に負けたら、何をされても文句を言えないし、そうすることは「正義」に適うと思われていたのである。ましてや日本の場合、放っておけば、かならずや報復戦をしかけるに決まっている。日本を消滅させるのが英米にとっての国益である。しかるに、たとえ日本が降伏しても、それだけは勘弁してやることにした。これほど寛大な条件はあるまい。ポツダム宣言は、こう言っているのである。』
ルーズベルトの戦争計画~真珠湾に誘い込まれた日本
第一次世界大戦はなぜ起こったのか?
参考質問)