国立市公立小・中学校PTA連絡協議会の歩み

 

国立市の歴史背景

江戸時代から今の甲州街道を中心に民家が立ち並び、農業、養蚕を主として営まれ、街道沿いには商業、手工業を営む家もあった。明治221889年に、谷保村、青柳村、石田村の3村が合併し、国立町の前身の谷保村となり、明治261893年には、それまで属していた神奈川県から東京府へと移管される。 昭和20年代には戦争による疎開と戦後の住宅復興によって人口が急速に増える。昭和261951年、谷保村から国立町になる。また戦前に箱根土地(現在の国土開発)が学園都市をめざして開発しており、東京高等音楽学院(現国立音大)、東京商科大学(現一橋大)が誘致された。

 

戦後の住民運動

昭和25(1950)年、朝鮮戦争の勃発以降、立川基地からの米兵を相手にする簡易旅館や飲食店が国立にも出現し、悪化する環境を守ろうと浄化運動が住民や学生(一橋大学)の間に起こる。それは文教地区指定運動となり、昭和27(1952)年1月、建設省と東京都から文教地区の指定を受け、国立文教地区が誕生する。同年、国立町では教育委員選挙があり公選制の教育委員会が発足している。これらの運動は、住民が学校、行政と一体となって<開発>より<環境>の町づくりを選択したもので、その後の国立の町づくりの方向を大きく位置付けることとなった。浄化運動で活躍した人たちは、くにたち婦人の会や土曜会を作って文化活動を展開していたが、当時の町には集会施設がなく、廃止された自治体警察の建物を公民館にという運動がおきる。そして国立町公民館設置促進連合委員会(文教地区協会、くにたち婦人の会、土曜会、青年会、中央商工振興会、他が参加)が結成され、公民館設置の請願を町に提出する。また国立町町立PTA連合会も公民館設置の請願書と要望を町に提出する。そして昭和30(1955)年11月、公民館(初代館長、早坂禮吾)が誕生する。このことは住民運動の大きな成果として全国に知られることになる。また昭和29 (1954)年9月には町の予算を勉強する婦人達の会の火曜会が生まれているが、このように国立町の新興地域の住民には自分達の町は自分達で作っていこうという意識があった。

 

P連の誕生前後

昭和30(1955)年頃、北区の児童は警報機のない事故多発の踏み切りをわたって二小に通学していたが、立東母の会では踏み切り番を朝夕交代で行っていた。また他の団体とともに警報機、遮断機の設置を求めて国鉄に陳情などをした。そうした努力の末に、北区に二小の分校が設置され、昭和32(1957)年には国立第四小学校として独立する。またこのころ国立町の急激な人口増にともなって、昭和33(1958)年には国立第二中学校が開校する。昭和31(1956)年、教育委員会法改正に伴い教育委員は公選制から任命制に変わったが、国立町では公選の教育委員がそのままあらためて任命され、公選制の精神を生かそうという民主主義的な立場がとられた。昭和32(1957)年には国立町公立学校教職員地区協議会(国立地区協)が発足する。同年12月には国立町のPTAの父母や各団体の有志で、くにたち教育懇談会が結成された。同懇談会は毎月1回、子ども達の日常生活や教育の問題について話し合いをおこなった。国立の教育は以上のように民主的な教育委員会と教職員組合と父母の会の三者を中心に、発展・充実していった。

昭和32(1957)年12月、都道府県教育長協議会は公立学校教職員に対する勤務評定試案を作成、発表する。国立町教育委員会教育委員長の早坂禮吾は勤務評定の内容に疑問と異議を感じた。早坂氏は当時会長であった北多摩教育委員会連合会の理事会を招集し、「勤務評定に関する要望」を決定する。そしてこの要望はそのまま東京都教育委員会連合会の案となって、東京都に提出されたが東京都からの回答はなかった。一方、国立町では勤務評定に根本的な疑問をいだいているという点では校長もPTA会長も同様な意見であった。昭和33(1958)年2月8日、国立町町立小中学校PTA連合会は一中で早坂と朝日新聞論説委員の伊藤昇の講演会を開いた。また三小PTAでは勤務評定対策委員会を設けた。4月23日、都教育委員会は勤務評定規則を制定すると告示すると、都教職員組合3万5000名は反対運動を展開する事態となった。国立でも国立地区協やPTAをもとに反対運動がおきた。教育委員長早坂禮悟も反対声明を出し、町民一体の反対運動となっていった。

昭和33(1958)年7月28日、三小PTAの勤務評定対策委員会の呼びかけで、公民館に各校のPTA代表等28名が集まり、勤務評定に限らず広く教育に関するいろいろな問題も話しあって行こうということになった。8月13日の第2回目の会合にPTA代表38名が公民館に集まるり、勤務評定に対して会としての具体的な行動を起こすことが決められ、そこで会の名称が国立町公立学校PTA連絡協議会(P連)と決められた。そして8月27日にはP連として代表6名が都教育委員会委員長と面会し、声明書と要請書を提出・要望した。翌28日には国立市の教育長、教育委員長に同文のものを提出・要望した。P連はその後、4町懇談会や教育委員会、校長会、地区協との四者会談などを計画・実施した。

昭和33(1958)年8月30日、教育委員会は勤務評定実施延期の声明を発表した(提出しない町村は国立、清瀬、砂川、保谷の4町)。10月の国立町議会は満場一致で教育委員会の態度を支持の決議をする。また国立民主教育を守る会も教育委員会の方針を支持する。その後、都教育委員会は4町の教育委員会との話し合いを持つなどして事態の収拾につとめようとする。そして国立町教育委員会は最終的に4町独自の勤務評定で昭和34(1959)年3月に提出した。

このときPTAの全国組織としては日本PTA全国協議会があり、勤務評定の反対運動の闘争手段に対して反対していた。しかし国立のP連は日本PTA全国協議会には参加をしておらず、昭和33(1958)年9月15日の全国的な勤務評定反対の統一行動の時、国立では教職員約170人は学校でいつものとおりに授業を行い、代わりにお母さん達約170人がプラカードを持って立川の集会に参加した。国立のP連はその後も日本PTA全国協議会には参加せずに、独自の道を歩んでいった。 

 

その後の歩み

1960(昭和35)年頃、P連は活動の方向を模索していた。二小の校庭では安保阻止の町民大会などが開かれており、町民の政治的意識は高かった。1961(昭和36)年、P連は学力テストについての要望書を町教委に提出する。この頃からP連の活動に大きな変化がおきる。そして従来の一般的な取上げ方を改めて、町の教育予算の研究や各校PTA予算の研究と分析などを中心に、教育問題に対しての関心を深めていく方向をとりはじめていった。同年、一小で給食が自校方式で開始される。1962(昭和37)年度、P連は教育長、教育委員長と話し合いの会を持った(このときのテーマは学力テストの経過、学校施設の問題、高校増設問題など)。1965(昭和40)年度、P連と公民館との共催で学習会「こどもの教育とPTA活動のために」を開いた。また講師を招いての勉強会を3回行った。そして勉強会特集号としての『P連だより』を発行し内容を詳しく報告する。1967(昭和42)年度も同様な『P連だより』を発行する。1966(昭和41)年、町議会が二小の校内に給食センターを建てることを提案すると、二小のPTAは反対の署名運動を開始する。1968(昭和43)年9月、給食センターが富士見台に開所し給食が開始される。1969(昭和44)年、学童の通学の安全のためにと、大学通りに歩道橋建設を求める運動が三小PTAによって始められると、子どもの安全か景観か、人より車の優先かと建設推進派と建設反対派とに分かれての市民や市議会を巻き込んでの論争がおきた(歩道橋建設問題)。このことはマスコミにもたびたび取り上げられ世間の注目を浴びた。

 

1970年代

1970(昭和45)年度、P連は年間活動記録としては初めての『P連だより』を発行し、主催した3回の研修会の報告をする。1971(昭和46)年度、P連は目立った活動をしていなく、また二小がPTAを休会し、また五小や六小にはPTAがまだない状態であった。1972(昭和47)年度になるとP連の活動は活発になる。まず規約を一部改正して名称を「国立市PTA(準ずる会)連絡協議会」と変更し、PTAのない学校もP連に参加しやすいようにした。また月1回の事務局会と委員会(定例会)をおこなった。三中問題、日光移動教室校医派遣、交通問題、給食費問題、プール開放、などとさまざまな問題が委員会で話し合われ、1月には教育委員会事務局へ各校の要望事項をまとめて提出する。2月には市長との懇談会が行われ、PTA70名、市側10名が出席する。1973(昭和48)年度も前年度と同じように事務局会や定例会が毎月行われるようになり、以後P連の活動は日程的にも定例化していく。また事務局にあらたに渉外担当を設けて、物資納入委員や交通審議委員を置いた。また給食審議委員会にも参考人としてP連から出席する。1974(昭和49)年度はP連で給食委員会を発足させて、各校の給食委員とP連の渉外担当とで毎月給食委員会をもつ。各校の給食委員を集めての会合は次年度も続けられたが、この頃からP連は給食問題について、より継続的に取り組んでいった。また三中開校にともなう適正学区の設定に関して、教育委員会は三中校区設定委員会を結成すると、P連は要請されて9名の各校代表を送った。1975(昭和50)年度には高校問題がおきた1976(昭和51)年度には全国的な問題となっていたポルノ雑誌自動販売機撤去運動、給食センターからの牛乳配送時間の改善の要望、自衛隊機騒音問題、小学校区域問題、八小建設問題などを扱う。1977(昭和52)年1月の定例会ではポルノ雑誌等の自動販売機の条例による規制を提案した。また1978(昭和53)年度には第1回の家庭教育学習会が中学校単位で開催された。またこの年度は地区協よりの協力要請をうけて教育条件レべルダウン反対に関する運動として市議会や都議会への要請をおこなった。これは教職員削減等に反対しての運動であった。1978(昭和53)年度に夏季水泳教室検討委員会が設けられると、P連は渉外として小中学校から委員をだす。ここでの報告をもとに、指導員について等の要望を教育委員会にしている。この委員会は1983(昭和58)年度まで開かれた。1979(昭和54)年度、P連は「悪書追放運動」「ひと声運動」「良書のすすめ」を柱に「良い環境づくり」を年間活動の方針のひとつにするが、この背景には1970年代後半から全国の中学校で校内暴力が吹き荒れていたことがあった。

 

1980年代

1980(昭和55)年、二中の生徒増を心配した保護者達が新中学校建設を求めて署名運動をはじめると、P連でも四中対策委員会を発足させ、陳情要請をする。いわゆる市立第四中学校(仮称)建設問題がおきた。またファミリーコンサートやたこあげ大会などの後援を初めてした。1982(昭和57)年度にはゲームセンター問題がおきた。これは当時全国各地にゲームセンターが出来、P連でも市内の実態調査などをした。家庭用ゲーム機が各家庭に広まるにつれ、P連はその後、扱いを止めている。1983(昭和58)年10月、市の七小北側校庭貫通道路計画に対してPTAが建設反対を決議して建設中止の運動をはじめる(七小道路問題)。1985(昭和60)年度には、ホテル問題がもちあがる。また第1回こどもまつりが谷保第三公園で開催された。P連は第2回から後援する。12月の定例会で教育委員会の傍聴が提案され、1986(昭和61)年1月から傍聴(最初の担当は一小)をはじめる。1988(昭和63)年度には二小のアスベスト撤去工事についてPTAが長期休暇中にするように要請し、市側も休暇中へと延期する。アスベストは発がん性がある建築用素材で、全国の学校などでも使用されており問題となっていた。二小以外の他の数校でも使用されており、順次撤去工事がおこなわれた。なお1982(昭和57)年度に八小がP連に参加して現在の小中学校、計11校の体制になった。

 

1990年以降

1990年度は教育委員会事務局との懇談会を、年2回持った。これにより教育委員会との年2回の懇談会の形はこのとき作られ、以後継続されていった。同年度は教育コミュニティ構想について教育委員と懇談会をもった。またP連として芸小ホールを利用しての講師による「シンポジウム・子どもの権利条約」を開いた。1991年度、P連は各校PTAの担当者による通学路問題交流会を発足させた。同年度は新学習指導要領の実施をめぐって1992年3月、P連は教育委員会や校長会に、卒業式・入学式における「日の丸・君が代」についての要望書を提出した。新学習指導要領の「日の丸・君が代」義務づけで全国的に実施校が増えたが、1992年の卒業式・入学式では国立の公立小中学校では従来どおり実施しなかった。また1991年度には国語教科書問題がおきた。1992年度には学校五日制についての議論もおきた。1997年度から、それまで継続してきた署名協力(地区協、等)を止め、署名協力は各校PTAで扱うこととなった。1998年度には日光移動教室への医師派遣の問題が起き、市教委に要望をする。同年度は「今、親として、大人として何ができるか」をテーマに、2年間中断した「教育委員さんとの懇談」、初めての「校長先生方との懇談会」、「先生方との懇談会」、「民生児童委員さんとの懇談会」を開催した。またP連主催でPTAの会長会を開き、情報交換をした。またこの年度から市教育委員会に提出する教育環境条件整備の要望を市議会議員にも報告し、協力要請をするようになった。1999年度は、家庭と地域のつながりや子どもの居場所をテーマに、「上原市長・石井教育長との懇談会」(テーマ「教育」)、「校長先生方との懇談会」(テーマ「子どもの居場所」)、「先生方との懇談会」を行った。    

2000年度は、小中学生及び保護者を対象として、「家庭と地域との連携・子どもの居場所」というテーマでアンケートを実施して、次年度に集計をおこなった。また2000年の卒業式・入学式では国立の公立小・中学校全部に日の丸掲揚が実施されたが、二小の卒業式後の報告をめぐって二小の外で問題視され、また一部の新聞社や雑誌によって国立の教育批判がなされた。そして2000年度のP連は2001年の卒業式・入学式についての要望書を提出しなかった。2001年はまだいくつかの学校でフロア形式の卒業式・入学式であったが、2002年はすべて壇上式になり、君が代斉唱が実施された。この間、P連では対応をめぐって各校PTA内での話し合いを含め、学習会もなされた。また2001年度はP連主催の学習会の案内チラシの配布、まとめの配布などについて校長会と問題がおきた。また7月には2002年度から使用する中学校の教科書についての採択に関して、教育委員会に要望書を提出した。この年度はP連の活動自体に関して、P連内部で疑問の声があがり、活発な議論がなされた。

−以上、2001年度P連の活動まで−