以下の資料によると、伊藤は併合前年の1909年4月10日に賛成した。
小松緑「朝鮮併合之裏面」大正九年九月二十日発行
https://books.google.co.jp/books?id=sfAKMhM1xDgC&printsec=frontcover&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&f=false
第二章「霊南坂の三頭密議」p8~12、15~17
朝鮮併合の廟議は、何時確定したる乎といふに、それが、正式の閣議を経て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、此の時より約三箇月以前の四月十日に、当時の総理大臣桂太郎と、外務大臣小村寿太郎とが、相与に統監伊藤博文と赤坂霊南坂の官邸に会見し、朝鮮併合の実行方針を協議した時を以て、廟議が確実に決定したことゝ認むべきである。此の事実は、当時無論極秘に付せられてゐたから、従来世間に知られなかった。それ故へ、伊藤公が、若し哈爾賓に於て変死しなかったならば、朝鮮併合は、爾かく急速に実現しなかったであらうなどと言ふ人が、今尚ほ内外に少なくない。それは、全然誤解であるが、世間にかういふ感想を懐く者の少くないのは、必ずしも無理でない。桂首相や小村外相でさへも、霊南坂会見の時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固持して居られたやうに思ひ込んだのである。
此の隠れたる会見事情は、今日に於ける誤解を釈く為めにも、又後世史家の参考資料としても、精確に語る価値あるものと、吾輩は信ずる者である。
霊南坂会見の当日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辞職に先だつこと約二箇月、併合実行の時から一年四箇月以前になる。吾輩は、此の時京城に居ったので、此の会見の事を知らなかったから、其の内容と時日とを確むる為めに、其の後ち単に伊藤統監及小村外相から聞いた断片的の直話のみに満足せず、更に後日の確証を得て置きたいと思って、当時の政務局長後ちの外務次官倉知鉄吉から覚書を手に入れた。 此の覚書は、吾輩の私信に対する回答である上に、今日では、秘密文書の性質を失って、却って有力なる史料と認むべきものとなったから、其の全文を本章の末尾に添付することにした。其の中には、霊南坂会見の内容及時日のみならず、併合といふ文字を創作した苦心談も述べてある。
元来、朝鮮の併合は、独り内政上の重大事件なるのみならず、或は容易ならぬ外交問題の起るべき可能性を持ってゐたものである。随って要路の責任者中異論があっては、到底円滑に其の目的を達することができない。当時山縣有朋は、枢密院議長として、初から朝鮮併合の議に与かり、賛成者といふよりも、寧ろ主唱者であった。肝腎の伊藤統監は、由来温和主義の政治家で何時も急激の政策に反対する性格を持ってゐた。 故に朝鮮併合の提案に対し縦し主義に於て反対しないとしても、其の時機や、順序や、条件などに就ては、必ず種々の議論を持って居られるであらうとは、桂首相及小村外相が、心竊かに期待した所であった。そこで、両相が相携へて、当時恰も辞職の意を決して上京されてゐた伊藤統監を訪ふ時には、公と大議論を闘はす積りで朝鮮併合の万止むを得ざる理由及事情を立証すべき書類を充分に取り纏め、斯く問はれたらば、斯く答へむ、爾かく難詰せられたらば、爾かく弁明せんなどゝ、千々に心を砕いたといふことである。愈々伊藤統監に面会して、桂首相先づ口を開いて、朝鮮問題は、同国を我国に併合するより外に解決の途がない旨を告げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感ぢゃと言はれる。そこで、小村外相から、実行方針として、条約の締結や、王室の処分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聴し、説明も求めず、質問も発せず、其れも好し、此れも可也とて、悉く同意を表せられた。是に於て、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も抜けて、意外の感に打たれた。同じ拍子抜けでも、これは、失望ではなく、得意の方であったから両相は、伊藤公の大量に敬服して退出したといふことである。此の事実は、吾輩が小村外相より親しく聞いた所であり、又倉知次官の手記した覚書の語句に徴しても、誤りのないことが判る。・・・
(参照)
覚書
明治四十二年春曾禰子爵の伊藤公爵に代りて統監に任ぜらるる内議ある際右交迭に先ぢ韓国問題に●する我大方針を確立し且之を文書となし置くことを必要なりとし小村外相より自分(当時政務局長)に右文案の起●を命ぜられ且本件に関する外相の意見の大要を指示せられたり。自分が右指示に基き立案し更に同外相の意見に依り之に修正を加へ遂に確定草案となりたるもの即ち別紙第一号方針書及施設大綱書なり。
該案は三月三十日を以て外相より桂首相に提出せられたるも当時右は最機密として取扱はれ之に関し何等記録の残留するものなし。然れども小村外相の自分に語られたる所に依れば外相は右に対し桂首相の同意を得たる後相携へて伊藤公(当時統監)を訪問し本件に関する熟議を遂げんことを欲し四月初め毛利公爵邸園遊会の折同公と訪問の約をなし●て四月十日桂小村両相伊藤公に会見し意見を述べ窃かに或は同公より議論の出づべきことを期したるに公は以外にも右に対し同意の旨を明言せられ両相は格別の論議をなさずして同公邸を辞せたれたりと云ふ。
然るに該案は尚久しく之を極秘に付せられ同年七月六日に至り初めて之を閣議に付して各大臣の署名を得且同日陛下の御裁決を経たりと記憶す。
因に曰ふ当時我官民間に韓国併合の論少からざりしも併合の思想未だ十分明確ならず。或は日韓両国対等にて合一するが如き思想あり又或は墺匃国の如き種類の国家を作るの意味に解する者あり。従て文字も亦合邦或は合併等の字を用ゐたりしが自分は韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにすると同時に其語調の余りに過激ならざる文字を選まんと欲し種々苦慮したるも遂に適当の文字を発見すること能はず。依りて当時未だ一般に用ゐられ居らざる文字を選む方得策と認め併合なる文字を前記文書に用ゐたり。之より以後公文書には常に併合なる文字を用ゆることとなれり。乍序付記す。
・・・
以上
大正二年三月十日 倉知鉄吉
伊藤之雄「伊藤博文をめぐる日韓関係」
一九〇七年(明治四〇)三月二〇日、伊藤統監は四カ月ぶりで漢城(ソウル)に戻った。伊藤はすぐに韓国の政情が一変していることを知った。それは自強会・教育会・青年会・西友会や二、三紙の韓字新聞、英国人主宰の大韓毎日新聞などが、いたるところで韓国の内閣を攻撃していることであった。これは政府排撃に名を借りた排日の動きである。また国債報償会が各所で伊藤統監が斡旋した国債を償還しようと、募金活動を行っていた(31)。
伊藤は日本に帰っている間も、義兵を「匪賊」とし、日本の警察官十数名を派遣すればたちまち四散するもので、「盗賊的窮民の群」に種々の「小野心家」が流れ込んで「政治的運動の真似」をしていると見ており、それほど危険視していなかった。また韓国は長い間独立国だったので、一国という観念は強く、「猜疑の深き人民」であるので「日本が韓国を併呑」せんことを疑う者も多い、と自覚していた(32)。しかし伊藤の韓国統治は、韓国人が伊藤を信用して彼の構想を理解し、それに主体的に協力することを前提とするものだった。韓国人が自発的に協力する基盤が、一年経ってもほとんどできないばかりか、逆に排日の空気が強まっているのを知り、伊藤は自らの構想の前途に強い不安を感じた。この時伊藤は、韓国を併合せざるを得ない可能性もある、と考えたと思われる。(p42・43)
すでに述べたように、一九〇七年春以降、韓国内で反政府・排日の空気が強まったので、朴齊純参政(首相)は、再三にわたって辞任の意向を伊藤統監に申し出た。そこで伊藤は、学部大臣李完用を参政とする内閣を作り、韓国人を中心とした親日団体の一進会と連携して、昨年来の「施政改善」を勧めようと構想した。(p45)
義兵は、一九〇八年(明治四一)七月をピークとし、一九〇九年初めには全羅南北道・京畿道・黄海道など特定の地域に局限されるようになり、同年半ばにはおおむね平静の状況となっていく(52)。
義兵の活動がピークに近づいた一九〇八年六月一二日、伊藤統監は韓国駐箚軍の陸軍将校を招待し、(1)「韓国の暴徒」は決して内乱ではなく地方の「騒擾」にすぎないので、それを討伐する際に、「良民」に危害を加えないようにすべきである、(2)「一般の国民」は、その「脳裏に多少の排日思想を抱くも公然干戈を執りて日本に反抗するものにあらす」、(3)「良民を愛護して我に我に悦服せしめ、我か陛下の徳化に浴せしむるの責任あり(53)」、等と義兵鎮圧にあたっての注意を促した。統監として韓国に来て二年以上になっており、一般の韓国人も排日思想を持っていることを伊藤は認めざるを得なかったが、彼らを親日にする希望を捨てていなかった。(p75)
一進会は伊藤統監から解散するように求められており、その顧問の内田良平は、一進会に頼らずに韓国人の基盤を拡張しようとする南北巡幸に批判的であった。最初に行われた南韓の巡幸に対しても、杉山茂丸に次のように報じている。(1)内田の予想に異ならず、行きには大邱で人民は皇帝と統監を「同一に歓迎」したけれど、帰路には皇帝に万歳を唱えたが統監には唱えなかった、(2)「京城」(漢城)でも、南大門駅から皇帝が王宮に戻る際には歓迎した沿道の学校生徒が、次に統監が帰邸しようとすると、退散しようとして統監の帰路を乱しかけたので、巡査が制して事なきを得た、(3)釜山・馬山等でも、「愚蒙なる人民」は初めて皇帝がいることを知り、大いに気勢を上げた、(4)「役人共」は「悪影響」が少しも統監の耳に達しないようにして、統監を大成功のように喜ばせている(63)。
北韓国巡幸の失敗と併合論
北韓巡幸では、平壌、新義州、義州、開城等を訪れた。ところが厳重な警戒にもかかわらず、爆弾騒ぎや伊藤統監暗殺の計画など、排日運動が見られた。また、学校生徒に対し、日韓両国旗を持って迎えるようにという統監府からの指示にもかかわらず、韓国側は日本国旗を持たず、日本側は韓国国旗を持たずに出迎えた所も少なくなかった。行幸が通り過ぎた後、韓国人が韓国旗のみを持ち帰り、日本国旗を捨てていくこともあった(64)。このように、日本の統治への韓国人の反感が少なからず察知された。南韓巡幸と比べ北韓巡幸が不穏であったことは、在韓日本語新聞にすら報道された(65)。
伊藤統監は北韓巡幸に陪従した後、二月一〇日に漢城を出発し、一七日に大磯に戻った。おそらく、北韓巡幸後に韓国民が伊藤の統治策を積極的に支持していないことを知り、伊藤は韓国併合を止むを得ないと考えるようになっていったのであろう。
韓国の新聞『大韓毎日申報」は、北韓巡幸の後も、日韓の「親睦」を前提とする実力養成運動や、日本を中心とする東洋連帯論に批判を加える論説を掲載し続けた。しかし、それらは「忠君愛国」を前提としたものであった。日本の手によって皇帝の「文明化」が行なわれている以上、「忠君愛国」ではいまだ伊藤の「自治育成政策」を否定できない。ところが、一九〇九年八月になると、『大韓毎日申報』に、韓国人の「国家的精神」・「自国精神」が自明化された以上、日本に掌握された皇帝・皇室は必要がないとの論理を持った論説が登場するようになった(66)。
伊藤が併合をやむを得ないと考えるようになる頃から、日本の保護の下で韓国の近代化を達成し日本のみならず韓国も利益を得ようという伊藤構想を、韓国側が支持する論理が、崩壊し始めていったのである。(p79・80)