西部邁はかつて「村はずれの狂人」と呼んだ。
岡田斗司夫はかつて「貴族」と呼んだ。
誰のことをか?前者は「知識人」、後者は「オタク」のことだ。
それが実は等号で結ばれるのだ、と言ったのは宇野常寛だ。
オタクは常に「ムラ」から排除される存在だった。
しかしオタクの中にも、自分は特別な存在だ、だから排除されてもしょうがない、だって「君たちとはアタマの出来が違いすぎるんだもん」、という、「貴族意識」を持っていた。
岡田は「ノブレス・オブリージュ」とも言っている(「アニメ・イズ・デッド」)。
もちろん半分はやせ我慢、コンプレックスやルサンチマンも込められているのだが、その分だけオタク達は本気で、知性と教養を身に着けた「特別な存在」になろうとした。
僕らの世代は若干ニュアンスが違っていて、それは「理論武装」だった。
オタクを気味悪がる人間に対する理屈での論破、そうすることで自分を護ろうとしていた。
だからオタク達は互いに切磋琢磨し、一種の「武装集団」のように、社会やコミュニティの中で異彩を放っていた。
その意識がSNSと共に、消えた。
「オタク大陸」は沈んだ。
その原因は、皮肉にも「ムラ意識」の芽生えだ。
知性を戦わせ、議論し、自分を磨き上げる、一種の「原理主義武装民族」にも近しいと思われたオタクという文化民族に、「同調圧力」なるものの波が襲い掛かった。
そこから本当に、僕らの世代では信じられない言動が、オタクの中で支配的となった。
その最たる代表例は、
「ヤマカンはアニメ業界人なのに、どうしてアニメ業界を批判するんだ!?
多数派に乗らないんだ?
権威に屈さないんだ?
ムラから排除しろ!!村八分にしろ!!」
10年前では考えられないことだと、恐らく同世代のオタク達は、「まだ」共感してくれるのではなかろうか。
相互批判に基づく議論の成熟、知性の向上こそ、オタクの本懐、神髄だったはずだ。
それをこんなに早く忘れてしまったのかよ、「黒い目の魚たち」よ。
いやまぁ、排除も何も、もうこんな「ムラ」にいるのは体調に影響が出る程気持ち悪いんで、とっくに出ましたけどね。何度も言ってるんだがなぁ。
未だにいるもんだと勘違いしている、「知性」のないオタクどもがいるようだけど・・・。
今僕が大学生となってオタクサークルに入っても、きっと誰にも相手されないだろうな。
そういう時代だということです。
岡田斗司夫はかつて「貴族」と呼んだ。
誰のことをか?前者は「知識人」、後者は「オタク」のことだ。
それが実は等号で結ばれるのだ、と言ったのは宇野常寛だ。
オタクは常に「ムラ」から排除される存在だった。
しかしオタクの中にも、自分は特別な存在だ、だから排除されてもしょうがない、だって「君たちとはアタマの出来が違いすぎるんだもん」、という、「貴族意識」を持っていた。
岡田は「ノブレス・オブリージュ」とも言っている(「アニメ・イズ・デッド」)。
もちろん半分はやせ我慢、コンプレックスやルサンチマンも込められているのだが、その分だけオタク達は本気で、知性と教養を身に着けた「特別な存在」になろうとした。
僕らの世代は若干ニュアンスが違っていて、それは「理論武装」だった。
オタクを気味悪がる人間に対する理屈での論破、そうすることで自分を護ろうとしていた。
だからオタク達は互いに切磋琢磨し、一種の「武装集団」のように、社会やコミュニティの中で異彩を放っていた。
その意識がSNSと共に、消えた。
「オタク大陸」は沈んだ。
その原因は、皮肉にも「ムラ意識」の芽生えだ。
知性を戦わせ、議論し、自分を磨き上げる、一種の「原理主義武装民族」にも近しいと思われたオタクという文化民族に、「同調圧力」なるものの波が襲い掛かった。
そこから本当に、僕らの世代では信じられない言動が、オタクの中で支配的となった。
その最たる代表例は、
「ヤマカンはアニメ業界人なのに、どうしてアニメ業界を批判するんだ!?
多数派に乗らないんだ?
権威に屈さないんだ?
ムラから排除しろ!!村八分にしろ!!」
10年前では考えられないことだと、恐らく同世代のオタク達は、「まだ」共感してくれるのではなかろうか。
相互批判に基づく議論の成熟、知性の向上こそ、オタクの本懐、神髄だったはずだ。
それをこんなに早く忘れてしまったのかよ、「黒い目の魚たち」よ。
いやまぁ、排除も何も、もうこんな「ムラ」にいるのは体調に影響が出る程気持ち悪いんで、とっくに出ましたけどね。何度も言ってるんだがなぁ。
未だにいるもんだと勘違いしている、「知性」のないオタクどもがいるようだけど・・・。
今僕が大学生となってオタクサークルに入っても、きっと誰にも相手されないだろうな。
そういう時代だということです。