種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー vol.3
『種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー』第三回をアップ致します。
1985年12月21日、シングル「You’re The One」でCBSソニー(当時)からめでたくデビュー!
アーティストとアレンジャーという立場を超えた実り多い師弟関係を築くことになった武部聡志さんとのコラボレーションが冴えわたる初期の三作『いっしょに、ねっ。』『みんな愛のせいね。』『Che Che-Bye Bye』(+『ベクトルのかなたで待ってて』)に焦点を当てて、今回もざっくばらんに語っております。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。
構成:種ともこスタッフ
Chapter 1. 武部聡志さん。
— ようやくデビューが決まりました。続いて、レコーディングに向けたスタッフィングとなるわけですが、アレンジャーの武部聡志さんはデビュー・シングル「You’re The One」からでしたっけ?
種:最初からそうです。
— 武部さんとご一緒されることになったいきさつは?
種:ディレクターの推薦です。私は面識なかったし、それこそ、エピックでのデビュー話があった時に、井上鑑さんの名前が挙ってて…すごく有名じゃないですか。だから、「武部聡志って聞いたことない」って文句言ったの。そしたら、「君はこれからビッグになる人なんだから、これからビッグになる人と仕事をした方がいい」って言われて…。
― 武部さんは当時おいくつぐらいですか?
種:後で考えると、私とそんなに違わないんですよ。若手だったけど、もっと上の世代と仕事をしていたので、何か老成した雰囲気っていうか…。アレンジャーって、立場上、ミュージシャンを仕切って行かなきゃいけないじゃないですか。やっぱり「ナメられちゃいかん」っていうのが彼の中にきっとあって…。
― 種さんと同じメンタリティー?
種:(笑)。だから、すごく歳上に見えたし、私もそういう接し方をしてた。知識量も全然違うし。だけど、よく考えたら4歳か5歳ぐらいしか変わらないと思うんだよね。
― 武部さんの印象は?
種:超せっかち。いつも貧乏揺すりしてて、鉛筆で何か叩いてる感じ。私も貧乏揺すりが癖なんで、武部さんと2人でガタガタ…(笑)。
Chapter 2. 『いっしょに、ねっ。』― 記念すべきデビュー・アルバム。
― シングル「You’re The One」は(1985年)12月21日発売ですが、年末デビューって珍しかったんじゃないですか?
種:翌年の2月26日がアルバムの発売日で、シングルはその1ヶ月前になってたんですよ。ところが、その日にもっとデカい人が出すっていうことで、社内的な理由でシングルが前倒しになったっていう。
― タイアップ(1986年ANAスキーツアーキャンペーンソング)も関係してたんですかね?
種:そうかも知れないですね。
― シングルを先に録ったのでしょうか?それともアルバムと同時進行で?
種:アルバムとして録り始めました。レコーディングは夏ぐらいでしたね。スタッフで最初に決まったのは、エンジニアの助川(健)さんなんです。その後、「アレンジャーが武部さんに決まったよ」っていう順番で。私自身、音にこだわりがあったのと、エフェクトの処理やギミックが上手い人だったので、助川さんになったんじゃないかと思うんですけど。
― 前回のインタビューで、『いっしょに、ねっ。』はほぼ学生時代にやってた曲ばかり、みたいなお話がありましたが?
種:その通りです。だから、ある意味でアマチュア時代の総集編ですよね。
― 詞、曲、アレンジともに、ほぼ既成の形にならって?
種:そうですね。
― 先ほどおっしゃったように、ギミックが多いし、1曲の中に3曲分ぐらいの情報量が詰まってるとか…ちょっとやり過ぎに感じられる部分もありますね。
種:(笑)コテコテ。今聴いてみるとね。でも、オルフェっていうバンドがそういう傾向のサウンドだったんで…実は、デモテープとそんなに変わってないんです。
― 聴き返してみてどうですか?若かったなあ…とか、今だったらこうやるかも、とか。
種:いっぱいありますけど、意外とコンセプチュアルだな、っていう印象ですね。童話みたいなものがベースになっている曲が多かったり…。ただ、別にそういう方向でずっとやって行こうと思ってたわけではなく、一言で言えば模索なんですけど、その取っかかりとしてちょっとダークな童話っぽいものに当時は魅かれてたんだな、っていうことじゃないかと思います。
― ジャケットにもどことなく毒が感じられますね。そういったコンセプトとも関わってるんでしょうか?
種:それはありますね。「『よいこ』とか『めばえ』みたいなのがやりたい」って話すと、デザイナーがそれにノッて来て、現場で盛り上がって。でも、デザインが決まった後に会社に呼び出されて、「今なら間に合うよ、変えようよ」って言われたんです。
― 種さん主導で進んでたんですよね?
種:「こんな感じにしたい」って、自分で下絵まで描いて。そしたら、上層部から「これじゃあ駄目だろ」って言われて。「カリフォルニアの爽やかな風みたいな感じにしろよ」って。でも、最終的に「知らないからね」ってあきらめてくれたんですけど…実は、その年のアルバム・デザイン賞を獲ったんですよ。子供用レコードのコーナーに入れられたりとか、勘違いもされたけど。
― 「裏ジャケの写真を表にしたら?」ということなんでしょうか。
種:ちゃんと写真撮影までしたのに「何でこれなの?」みたいな(笑)。自分的には音楽業界に入ったら、やりたくないことをやらされる、っていうイメージがあったので、とにかく自分のやりたいことを…。
― それも「ナメられちゃいけない」の1つですよね。ジャケットから何から、自分の息のかかったものを提示したいと?
種:そう。
― 錚々たるミュージシャンが参加されてますね。
種:私がアマチュアの頃から、美久月千晴さん、青山純さん、鳥山雄司さんっていうのは“ザ・スタジオ・ミュージシャン”としてクレジットで見ていた方々だったので、そういう人達と一緒に出来るのは、本当にドキドキだったのと同時に、「ナメられちゃいかん」っていう…(笑)。
― セッションの様子はいかがでしたか?楽曲に対するミュージシャンの反応とか。
種:「君、面白いね」って美久月さんに言われたのは覚えてる。スタジオで演奏する前にデモを聴くじゃないですか。その時に「君が作ったの?」って聞かれたり。でも、今より全然下手だったので、ピアノを録音するのがすごくつらかった。クリックに合わせられないとか、スキルが全く追いついてなくて…「ピアノ下げてくれる?」とか、他のミュージシャンから言われるとさ(笑)。
― でも、自分でやりたい。
種:武部さんが弾いた方が絶対速かったと思うんだけど…実際、武部さんがやった曲もあって、上手いのは武部さんが弾いた曲(笑)。
― 後でダビングではなく、バンド編成で「せーの!」で録ってたんですね。
種:そうなんです。武部さんはよくそうしてくれたと思うんですけど。普通だったら、ピアノ下手だから後でダビングにして、ミュージシャンだけ先に終わらせた方がいいのに…。2枚目とか3枚目からは、武部さんが「僕は教育としてやってるから」って言うようになって。「君は自分でプロデュースして行く人なんだから、僕の背中を見て、スタジオワークを学んで下さい」って。他のミュージシャンからは「また武部の教育的いちゃもんが出た!」とか茶化されてたけど。だから、1人で仕事してる方が速かったのに、「種ちゃん、こういう時はこうするんだよ」とか教えてくれて…。例えば、「いいテイクが出そうだと思ったら、その前にチューニングを確認してもらうんだよ」って、それだけ取っても、ミュージシャンのやる気を削がない頼み方とか、円滑なスタジオワークがどれだけいい結果に繋がるかを教わりましたね。
― ただ、1枚目では、まだ種さんも武部さんもお互いに探りながらやってたみたいな?
種:そうですね。
Chapter 3. 慌ただしい日々。
― アルバムが完成した時はいかがでした?完成したものはあまり聴かないんでしたっけ?
種:その時は「やったー!」と思って聴くんですけど、すぐ飽きちゃうんです。
― 「記念すべき1枚目だ、バンザーイ!」みたいな感慨はなく、もう次作に向いてた?
種:って言うか、もう予定が立ってたんだと思う。だって、『みんな愛のせいね。』が(1986年)11月でしょ。
― ちなみに、1枚目の反応は種さんには伝わって来ました?
種:個性的とか…あとは声が独特とかいうのはよく聞いたかな。その頃、シンガー・ソングライターっていう存在があまりいなかったので…いわゆる、中島みゆきさんと松任谷由実さんとか、個性派だと戸川純さんとか、そういう人達と比べられちゃうんですよ。で、ピアノを弾いて歌うとなると、矢野顕子さんか谷山浩子さんみたいになって、取材で「君はどっちになりたいの?」みたいに言われて(笑)。
― 「私は私よ」と。話を戻すと、『みんな愛のせいね。』までの間、「マーメイド・イン・ブルー」が1986年5月、「10円でゴメンね」が6月にリリースされてます。
種:ええー、出し過ぎ。
― さらに「AiAi」が10月。すごいスピードですね。
種:ずっとスタジオにいた記憶があるんですよね。
― 「10円でゴメンね」の12インチっていうのはどういういきさつだったか覚えてますか?
種:分かんない。マキシ・シングルやリミックスが流行ってたからじゃないかな。
Chapter 4. 『みんな愛のせいね。』― 実質的なプロ1作目。
― 続きまして『みんな愛のせいね。』。
種:バンド時代から演ってた「チャンスをちょうだい」以外は上京してから作った曲ばかりだから、そういう意味では、このアルバムこそプロ1作目っていう気持ちが自分の中にありましたね。
― 大まかなサウンドの傾向は、個人的には前作の延長線上な印象でした。その後、3枚目でスパッと変わってるんじゃないかと…。
種:エンジニアが助川さんから梅津(達男)さんに代わったからですね。梅津さんは、楽器の音質そのものにこだわる人だったので、一個一個の音がものすごくよくなって、たくさん音を重ねる必要がなくなって来た、っていうのもあるんですよ。
― ジャケットは種さんのアイディアですか?
種:イラストレーターの鴨沢祐仁さんを紹介されて、気に入ったから描いていただきました。男の子が毎回出て来て、ちょっとシュールなところが気に入って。ご本人にもお会いしましたけど、本当に少年のような方で…もう亡くなられましたけど。
― オシャレですよね。
種:でも、鴨沢さんのイラストにも毒があるんですよ。男の子がタバコ吸ってるじゃない?で、ウサギも吸ってるでしょ?
― スパイスが効いてるわけですね。内容についてですが、スタッフィングは前作とほぼ同じ?
種:そうですね。とにかく最初の3枚は武部さんを中心に同じ方向で行こう、っていう感じだったんですよ。違いがあってもマイナー・チェンジ程度。
― ほとんどが新たに作った楽曲とのことですが、ご自身で手応えはありましたか?
種:うん。「片恋同盟」みたいな、わりと長くて、スケールが大きい楽曲にもトライしてみたかったし、自分としてはいろいろチャレンジしたつもりだったんですよね。
― 今も弾き語りで披露する曲が多いですね。「It Must Be Love」とか「下駄箱の怪事件」とか。本作にも童話じゃないけど…。
種:そういう面もまだありますね。
― 特に初期の作品というのは、恋愛とか自分の経験を曲にするというケースもよくありますけど、種さんの場合は、わりとフィクションというか…。
種:いや、自分のことがモチーフになってるんですけど、一回、登場人物を作り上げるっていうことをよくやってたんじゃないのかな。特に1枚目はオルフェでカナちゃんが歌うことを前提に作った曲がたくさんあったので。
― だから歌い方もそれ以降とどこか違うわけですね。
種:カナちゃんの曲を私が歌ってます、っていう感じが…。
― ちょっと言葉は悪いけど、過剰に感じられた部分が整理されて、シンガー・ソングライターとしての種ともこ像が鮮明になって来たように感じます。
種:2枚目は自分が歌う曲を、プロとして作って行きたい、っていう気持ちがすごく強かったので、作ってる時は楽しかったですよ。
― 自分なりの到達点はありましたか?
種:「あいのうた」は自分としてはものすごく完成度が高いと思ってる。
― 個人的には、リズム・パターンが面白いなと思ったんですよ。特にカッコいいなあ、と思ったのが「チャンスをちょうだい」。
種:これは武部さんが考えたの。バンドの頃から演ってた曲なんですけど、その時はロックン・ロールな感じで、全然違うアレンジだった。
― 「AiAi」とか、他にもリズムの絡み方が独特な曲が多いなあ、と思って。
種:それはもとから。「片恋同盟」とかもほとんどデモテープ通り。この頃には、宅録のスキルもだいぶ上げてましたよ。
Chapter 5. 『Che Che-Bye Bye』― 種ともこ第1期のまとめ。
― 次に行きますか。
種:いよいよ『Che Che-Bye Bye』(1987年10月)ですね。武部さんとのコラボも最後だから、「炸裂しようね!」っていうのがあって、もうやり倒しました。時間もかけて、アイディアも…デモテープを作ってる時から、例えば香港シリーズ(「相合傘の香港」?「ねぼけてChina Town」)をコーラスのエフェクトで繋ぐっていうのも決めてたんで。これをスタジオで武部さんと一緒にやったら絶対に面白くなる確信があったので…。
― 武部さんとの完成形を作り上げようと。
種:そうなんです。
― 『みんな愛のせいね。』を発売した後も、結構濃密な時間だったわけですよね?
種:そうですね。プライベートでは香港に旅行に行ったりして。とにかく、いろんなことをやり尽くそう、後悔しないように、っていうのがあったんですよね。
― 先ほどおっしゃったように、エンジニアの交代もあって、個々の楽器の音とか歌声とかに磨きがかかったソリッドなサウンドになってますね。
種:そうですね。でも、ギミカルなリズム構成とかも相変わらずやってるんですけど。
― キャッチコピーには「デジタル・エイジの“歌姫”」とありますが…。
種:よく分かんない(笑)。
― そういう印象だったんじゃないですかね。これまで以上に研ぎすまされた印象っていうんでしょうか。『Che Che-Bye Bye』は、曲名でもありますけど、ヴィジュアルも含めてアルバム全体のコンセプトにも感じられます。
種:本当にそうですね。「ありがとうございました。さよなら」っていう…。
― (笑)武部さんに向けて。
種:「武部学校、めでたく卒業します!ありがとう!」(笑)。第1期種ともこのまとめ!
― 同時に第2期のスタートでもある。
種:そうそう。例えば、アレンジに松浦(雅也)くんとか松本(晃彦)くんが参加してる。次に向けて、新しい人ともやってみたら?みたいなのもあったし。
― スタジオワークにも慣れて来て。
種:武部さんともこの頃には対等に話せるくらいになって来たりして。ミュージシャンへのリクエストも、自分から言えるようになると、もっと一体感みたいなものが出て来て。だから、メンツはそんなに変わってないんだけど、私の音楽により馴染んでくれたっていうか、そういうことも含めて密度が高くなってるのかも知れない。
― 同じスタッフィングで続けて来た成果ですね。完成した時の達成感は?
種:ありましたよ、これは。ミックスが終わって、もう朝だったんですけど、あまりの高揚感で、みんなで飲みに行って、私と梅津さんで手を繋いで踊ってたって(笑)。それぐらい「やった!」って感じだった。
― 関わったみんなが同じように感じてた?
種:そうそう。「夏・ハレーション」とか、これはもうサンプリング芸術ですけど、「ダンダンダンダン…」っていうの、実はバスケットボールのドリブルのサンプリングなんですよ。他にも、汽笛とかのサンプリングを組み合わせてディレイをかけてる。そのディレイのタイムをちょっとづつずらしてグルーヴを作ったりとか…梅津さん、そんなことをずっとやってたのね。そういう細かい部分にこだわり抜いて、ものすごい世界を作り上げてた。「これとこれとどっちがいい?種!」って聞かれたりしながら(笑)。
― でも、何となくハレーションって感じがしますよね。ディレイ音の消えて行く、目がくらむような感じ。そういう無駄のない遊びをスタジオでやってたわけですね。
種:そういうことですね。
― 迷いがないから、そういう部分に時間が割けるんでしょうね。レコーディングの充実ぶりが伝わるエピソードだと思います。
種:メッチャ楽しかったですよ。武部さんとはこれで最後だし、勉強するだけ勉強して、遊び倒すだけ遊び倒すっていう…。
― さらに納得行く仕上がりになっているわけですから、高揚感も当然ですね。ジャケットのイラストは、どのような発想なんですか?
種:全体的なコンセプトもあるので「水墨画がいいね」っていう話になって。「オシャレで可愛い水墨画描いてる人がいるよ」って上田みゆきさんを紹介してもらいました。すごく気に入ってます。
― タイトルも含めてマッチしてますよね。『Che Che-Bye Bye』っていうタイトルが、武部さんに対するオマージュというのも素敵ですね。武部さん、泣いちゃうんじゃないですか?
種:(笑)でも、あまりにもリクエストが多いから「もういい加減、自分でやって」っていうのもあったと思いますよ。
― 一緒に作業して行く過程で、「いい形で続けられるのは3枚までだろうな」って感じていらっしゃったんですかね?
種:あったかもね。そういう意味で、武部さんはすごく頭がいい人だなあ、と思ったし、3枚の中でやり切った感みたいなものを作ってくれたし…そういう意味では本当によき先生でした。
― 『Che-Che Bye Bye』が完成した時点で、種さんはもう「次からは自分でやろう」と切り替えてたわけですね?
種:レコーディングが終わってすぐに、ディレクターから食事に誘われて、「次からは自分でね」って。「Macを買ってあげるから、自分で打ち込みを勉強して」って言われて。
― 時代的には相当早いですよね?
種:そうですね。
Chapter 6. とにかく楽しいライヴを目指して。
― この頃のライヴはどんな感じだったんですか?写真とか見ると、結構作り込んでますね。
種:そうですね。みんなでアイディアを出し合って。その頃、シンコーミュージックに原さんっていうライヴ制作部門の人がいて、彼も「面白ければ何でもいいじゃん!」っていうタイプで…。だから、2人でよくブレストして、「こんなの面白くない?」「いいね!いいね!」みたいに盛り上がって…予算的に悩むのは別の人で、私達は出来るだけ…。
― 思いつきを形にしようと。
種:そうですね。手品みたいに、何が出て来るか想像出来ないものをやりたい、っていう。
― 写真を撮られるのは抵抗があったそうですけど、ライヴでは衣装とかメイクもガチガチに固めて、みたいな感じじゃないですか?
種:ライヴは別。見た目も含めてとにかく派手にしたくて。とにかく爆発したかった。
― 確かにライヴは、ポーズつけて写真を撮られる何年も前からやってたことですもんね。だから、学生の時にお金のことを考えたり、スタッフがいなくて不可能だったことをステージで実現出来るようになった、っていう…。
種:そういうことかも。「ウルトラマン出て来たら面白くない?」とかって言って…。
― 本当に出したんですか?
種:うん。「何の意味があるの?」って言ったらおしまいなんだけど、「いいじゃん!意味なんかなくても!」っていう。
― 「楽しければいいじゃん!」。ライヴでのサウンド作りもかなり凝ってたんですか?
種:シーケンスとかも使って、すごくこだわってやってました。
― 打ち込み音源をバンドと同期させて…っていうのは当たり前?
種:そうそう。だから、ライヴの前に、まず最初に打ち込み期間を設けて、レコーディング素材から引っ張って来る時もあれば、改めて打ち込み直しとかもして…。あと、南流石さんに振り付けを頼んだりもしてました。
― ダンサーとはっちゃけてる写真もありましたね。本当にエンタテインメントですよね。
種:演奏を見たり聴かせたりするだけでは落ち着いていられなかった(笑)。
― 誰かのライヴを見て…とか、きっかけがあったんですか?
種:月並みですけど、ユーミンがライヴでやってることはいいなあ、と思ったんですよね。「エンタメに徹します!」って感じで。
― 「夢を見て帰って下さいね!」みたいな。
種:そうそう。あと…バカバカしいことがしたかったの!(ツアー・パンフを見ながら)こういうのが本当に嫌だったの。撮影が(笑)。全然服を持ってなくて、スタイリストさんに一緒について来てもらって、買って帰るっていうのを何回かした記憶がありますね。放っとくと、事務所の人に「トンボ獲りに行くの?」みたいに言われて(笑)。Tシャツと短パンみたいなさ。
Chapter 7. 『ベクトルのかなたで待ってて』― こだわり満載のコンピレーション。
― 次のアルバムに行きましょうか。
種:『ベクトルのかなたで待ってて』はコンピレーションなんですよ。シングルとか、NHK「みんなのうた」とかをまとめて作りました。その間に「種ちゃんは早くコンピューターをマスターして、次のアルバムのレコーディングに入って」って言われてたんだけど、締切を守れず、『O・HA・YO』まで予定より半年も遅れてしまって…最初のスランプですね。
― 自分で全てやることに対するプレッシャーですか?
種:とにかくいろんなことが煮詰まっちゃって。みんなハラハラしてたと思いますよ。
― コンピレーションと言いながらも、こだわりのある素晴らしいジャケットですね。これは、どこの海岸ですか?
種:千葉です。早朝に行って撮りましたよ。
― ジャケットに対する反響はありましたか?
種:望遠鏡のオブジェは大反響でしたね。台の部分は木で、筒の部分は発泡スチロール製。ライヴでも使いました。スタッフのブーイングがすごかったけど。運びにくいし、傷がつきやすいんですよ。
― この中だと、「マーメイド・イン・ブルー」は1986年の…。
種:アニメ(フジテレビ系アニメ『サンゴ礁伝説 青い海のエルフィ』)ですね。「10円でゴメンね」はマキシでしょ。
― 「10円でゴメンね」だけこんなに別ミックスがあるのは、何か理由があるんですか?
種:特にないです。
― 「ラビリンス」もマキシに入ってたし。「ないしょLove Call」もシングルのリミックス。最初からコンセプトも共有して、選曲とか曲順とかも種さんが関わられて?
種:うん。
― タイトルも種さんの発案ですか?
種:はい。
― 『ベクトルのかなたで待ってて』って、分かるような、分からないような…。
種:特に意味はないです!
― でも、想像力を喚起させるタイトルですね。全曲ブランニュー・リミックスとオビにありますけど、種さんもミックスはチェックされて?
種:もちろん。
― 「キュウリ de Vacation」は『サマー・ラウンジ』(1987年のコンピレーション)から。杉真理さんとかいろんな人が入ってましたけど、どういういきさつでこういったコンピレーションに…何作か参加されてるじゃないですか?『はっぴいえんどに捧ぐ』(1993年)とか。ディレクターから声がかかって、みたいな?
種:そういうことだったと思います。その頃は特にナイアガラの人達と親しかったことはないので。
― 「Pumps Race Song」はセルフ・プロデュース第1弾という位置づけになるんですか?
種:そういう意味では、もう武部さんと一緒ではないよね。
― じゃあ、次へのステップに向けた第1弾。
種:そうですね。私とアレンジャーの松本晃彦さんとで話し合ってやってる感じですね。
― でも、布石という感じがしますね。勢いがあって、キラキラしてて…お行儀はよくない(笑)。
種:1枚目から3枚目はお行儀が悪い感じはしないってことですか?
― そうですね。1枚目は、はみ出してはいるけど、はみ出し方が頭の中で考えてる感じっていうんですか?あまりフィジカルな感じはしない。3枚目に向かうに従って、フィジカルな感じが見えて来て、ここまでたどり着いた、みたいな印象です。
種:何だか分かる気がします。武部さんっていう人が、ものすごく品のある音を作る人なので、「Pumps…」みたいなサウンドは武部さんと一緒では出来なかったかも。
― 「Fat Ma Is Clearnin’ The Room」とか?
種:そうですね。お行儀の悪い感じっていうのは、潜在意識の中でやりたかったことなんだと思います。
― ここから先を種ともこの音楽の一つの型として考えてる人は多いんじゃないかと思います。『O・HA・YO』とか『うれしいひとこと』…。
種:『音楽』とかね。その辺はセルフ・プロデュースで暴れるっていうのがポイントだったから、確かにそうかも知れない。
― 言葉が当てはまるかどうか分からないですけど、過保護に育てられた少女が、親の庇護を離れて開放的になってしまう…みたいな。
種:武部学校を卒業して、悪いことし放題みたいな(笑)。
― でも、こうやって聴いてみると、やっぱりコンピレーションって分かる気がしますね。絶妙なバラけ方というか…バラエティに富み方というか…。
種:バラバラ(笑)。
― 1988年4月発売。本当はその半年後ぐらいに次のオリジナルをリリースしたかったということですか?
種:そうそう。会社の戦略としては、『ベクトル…』で種ともこ市場が温まってるうちに「追い打ちをかけるよー!」って目論見だったのが、1年かかってしまいました。
― それでは、ここまでにしましょうか。最初のスランプから『O・HA・YO』が完成するまでは次回のお楽しみ、ということで…。
種:はい。