種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー vol.2

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種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー vol.2

先月からスタートしました『種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー』第二回をアップ致します。
今回は同志社大学入学後からデビュー直前まで、”アーティスト”種ともこにとって重要と思われる時代についてざっくばらんに語っております。
相変わらず、話題が各方面に飛躍しながらも、なかなか貴重かつ興味深い内容になっているのではないかと思います。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。

構成:種ともこスタッフ

vol.1はこちらから

Chapter 1. 大学生生活スタート

-大学(同志社大学文学部哲学科)には積極的に出席されていましたか?
種:最初は「哲学の教授になりたい!」と思ってたぐらい、意気込んでたんですけど、何かね、自分が思ってた世界と違った…っていうのも、ヘンな学生ばっかりで。バッサリ二分すると、教師になるための方策として学部を選んでる人達と、あとはおかしな人達(笑)。アングラ・ミュージックをやってるとか、怪しい劇団に入ってるとか、学生運動をやってるとか…。

-自然と授業に出なくなった?
種:入学してすぐ音楽サークルに入ってバンドを組んでたし…。

-どういった方向性のサークルだったんですか?
種:ロック、ソウル系が多かったかな。

-サークルではどんなバンドを組まれてたんですか?
種:プログレです。

-当時のプログレというと?
種:何やってたっけ…でも、インストでしたよ。ともかくバカテク集団だったんですけど、それが後にオルフェになって行くんですね。オルフェっていうのは、私がアマチュア時代に参加してたバンドなんですけど、その母体だったんです。

-自分の楽器を買ったのはいつ頃ですか?
種:大学1年の時、ローランドのジュピター4っていうシンセを買いました。でも、メチャクチャ高かったんで、学食で「すうどん(関東で言うかけうどん)」しか食べてなかったから「すうどんの種」って言われてたんですけど(笑)。

-節約のために(笑)。
種:バイトもワリがいいってことで、家庭教師をやってました。友達に紹介してもらって、最初の研修をメッチャ頑張って、時給が一番高い特Aクラスに入ったんです。

-貯めたお金でジュピター4を買ったと
種:楽器代とリハスタ代を稼ぐのも、今から考えれば相当なことでしたね(笑)。レコードもたくさん買ってたし。その頃、レンタル・レコード屋でもバイトを始めて。遅番だと流行ってる曲をかけなきゃいけないんで、早番に入らせてもらって。早番だとBGMはあまり言われないんで、お店のレコードで聴きたいやつを選んでかけて…。

Chapter 2. オルフェ結成

-バンドでは種さんのオリジナル曲をやってたんですか?
種:最初はコピーだったと思うなあ。でも、一緒にやってたギターの人が、自分が見つけて来たカナちゃんっていう女性シンガーと新しいバンドをやりたいと。で、「彼女のために曲を書いて欲しい」って誘われて始めたのがオルフェだったんです。

-編成は?
種:そのギタリストとカナちゃん、私がキーボード、あとはベース、ドラム。彼はとにかく上手いバンドをやりたいって言ってて。スキルを上げるためにコピーもやるけど、本当にやりたいのはオリジナルで歌もののポップ・ロックっていう。

-あくまでも歌を聴かせるバンドみたいな?
種:そうそう。カナちゃんは個性的な声を持ってる、例えて言えば…ケイト・ブッシュ系。可愛いし、デザイン系の大学に通ってて、ファッションもブッ飛んでたり、とにかくキャラクターが面白いから、彼女が映える曲をやって行こうっていう。

-本格的に曲を書き始めたのはいつ頃ですか?
種:高校の頃からずっと作ってましたよ。あ、中学校の音楽の授業で、とあるコンテスト用にみんなで曲を書きましょうっていうのがあって、提出したら、先生に「全国大会に出していい?」って言われて。「いいですよ」って答えたら、その曲が全国で2位になったこともあるんですけど。

-高校時代のオリジナル曲はどこかで発表するわけでもなく?
種:何となく作って、自分で歌って、録音して終わり。大学に入って、ギターの人にそれを聴かせたんだと思う。彼はプロデューサー的な立場でもあったので、とにかくカナちゃんが歌って、私が曲を作ることがバンドの最初のコンセプトだったんです。

-歌詞も種さんが?
種:私が書いてました。アレンジも突っ込んでやってましたね。

-クリエイティヴな部分は種さんがほとんど担って、そのギタリストがプロデューサーで…。
種:彼が発注する立場だったんですよね。いろんなレコードを渡されて、「こういう曲を作ってくれ」って。私はそれを聴いて、特徴を掴んで曲にするみたいな。「次のライヴでやりたいから、いつまでに作って」って感じで…。

-そういう時に、日課としてやっていた洋楽のコピーが生きて来た?
種:コピーだったり、自分で作ってた曲だったりが、だんだん進化形として実を結んで来た、っていう感覚はありましたね。

Chapter 3. ソロ意識の萌芽

-オルフェの活動の場は?
種:ライヴハウスでやってました。サーカスサーカスでしたね、私達が出てたのは。契約を結んでたので。

-オルフェの名前の由来は?
種:もう忘れちゃったな。多分、カナちゃんが考えたんだと思う。

-音楽的には、超絶技巧を嫌味なくポップスに落とし込んだ…。
種:(笑)そういう感じ。ギターの人はチャクラとかも好きだったんで、ちょっと普通じゃない、尖ったポップスがやりたい、って。それはカナちゃんも同じでした。

-ソロ活動はまだ考えてなかったんですか?
種:オルフェをやりながら、だんだんやりたいことが分かれて来た、っていうか…カナちゃんのヴォーカルに限界を感じ始めて来たっていうか…技術的にも世界観的にも。「自分で歌ったらどうなるんだろう?」っていうふうには思い始めてはいたんです。

-ソロとして活動したい欲求もあったということですね?
種:だんだんそう思って来た感じですね。最初は、このバンドでプロになろう、みたいな話もあったし…。例えば、デビューの誘いもあったんだけど、声がかかったのは私とカナちゃんだけだったから、その時もバンドとして断ったのね。ただ、「自分で歌いたい」っていう意識がだんだん芽生えて来て…でも、まだシンガーとして自信がなかったので…。カナちゃんのキャラクターだったり、歌の個性もよく見えてたし。

-彼女にはまだ勝てないかな…っていう?
種:「彼女の個性に代わるようなものが今の自分にあるんだろうか?」っていうのが分からなくて、悩んだんですけど、でも「やっぱり自分の歌は自分で歌いたい」って思うようになって来て…。

-それがバンド結成から何年目?
種:2年か3年ぐらいしたら、だんだんそう思うようになって来て、「バンドを脱ける」って言ったんですね。

-ある日、突然?
種:まあ、そうですね。

-当時、バンドの活動はどんな感じだったんですか?
種:上り調子でしたよ。ラジオ番組のアマチュア・バンド・コンテストで最優秀賞を穫ったりしてたし。ライヴハウスの動員もどんどん伸びていたので。

-他のメンバーは簡単に応じなかったでしょう?
種:もう、大ゲンカ(笑)。でも、「悪いけど自分は下りる」って。で、「バック・バンドとしてやってくれる人だけ残ってくれないか」って話して…。

-(笑)大胆ですね。その頃には、自分用の曲はあったんですか?
種:どんどん自分のために作るようにしてたんだと思いますよ。

-大ゲンカの末、最終的に辞めることになって…。
種:恐らく、みんな限界って思ってたんだろうな、っていうのも感じてたし、時期的に就職する人もいたしね。その頃には、自分はバンドに向いてないと思い始めてたんですよ。

-種さんが?
種:だって、1人1票だと思ってなかったから。自分は曲を書いて、詞を書いてるので…。

-もっと票があるべきだと?
種:「何てわがままなやつだ」(笑)って話になった時に、「自分がやりたいのはソロなんだ」って改めて思って…1人1票でバンドの意見を尊重して…例えば、他にも曲を持って来るメンバーがいて、「曲書いたんだけどやらない?」みたいな…実際、つまらない曲だったりするわけですよ(笑)。でも、1人1票だと、その曲もやらなきゃいけなくなったり…。

-本来はクォリティ第一だろう、と?
種:そう。作りたいからって作って来て、それをやるのがバンドならしょうがないのかも知れないけど、当時の自分にとっては許せなかったな。

-種さんがクリエイティヴ面のほとんどを担うことによって、当初、プロデューサー的な立場だったギターの人とのパワー・バランスが変わって来たという感じですか?
種:自分でやりたいことがハッキリして来たし、発注されて曲を書いてるだけでは気が済まなくなったってことだし。やっぱり、ソングライティングを担当する人の意見が優先されるべきだっていうのは…結局、そういうことですよね。

Chapter 4. “種ともこ”始動

-そういったいきさつがあって、最終的には種さんがオルフェから脱ける形になったんですか?
種:いや。私が脱けることは即解散だったんで。

-実際に種さんのバック・バンドに残ったメンバーは?
種:ベースとギターは残った。ドラムはいろいろ代わったんですよね。あと、もう1人キーボードを入れて…歌いながらだとシンセまで出来ないんで、その部分をお願いして、自分はピアノを弾いて歌うっていうやり方で。

-種ともことそのバンドとして、再スタートになったわけですね。それが大学の何年?
種:4回生になってたんじゃないかな?

ソロで種ともこ&バックバンドとしてライブしてた頃。

ソロで種ともこ&バックバンドとしてライブしてた頃。

-もう後がない時期に…進路については?。
種:何も考えてなかったんで。メンバーで就職する人もいたんですけど、都合が合う限りやってくれてた感じかな。それと同時に、打ち込みとか、いろんなことを試してましたね。

-ライヴで同期させて演奏したり?
種:そうそう。コーラスを多重で録っておいたり。TASCAMの4チャンネルのカセットMTRをかなり早い時期に買いましたね。あとは、ジュピター4とヤマハのドラムマシーンを駆使してデモを作るっていう。

-1983年とか84年ですよね?
種:多分、1982年ですね。その頃、打ち込みなんかやってる女子、誰一人いなかったですね。

-そのデモをメンバーに聴かせて再現してもらって?
種:オルフェの時からそのやり方でした。それから打ち込みにハマって行ったんですよね。

-最初は必要に迫られてやっていた感じですか?
種:いや、好きだったので。エフェクターに凝ったりして、いろいろ実験してましたね。

Chapter 5. 音楽活動に直結したアルバイト

-ソロで活動し始めた頃の曲は、既にデビュー後に通じる世界だったんですか?
種:デビュー・アルバムの曲はもうオルフェだったり、その頃にソロでやってたのがほとんどですね。

-ソロ活動のメインはライヴですか?
種:だったんですけど、4回生の頃…ひょっとしたら卒業してたかも知れないけど、バッキング・メンバーととにかくデモテープを作ろうと思って。その頃に、京都のトーマス・スタジオのオーナーだった福井(秀彦)さんっていう人に出会って…彼自身もミュージシャンで。その人から「メチャクチャいい!」って褒められて。

-そしてスタジオに出入りするうちに…。
種:「デモテープ作らない?」って話になって、すごく安く作らせていただいたんです。彼はいろいろ面倒を見てくれて、大学卒業後はバイト生活をしてたんですけど、朝から福井さんのスタジオで電話番をし、夕方からは家庭教師、それが終わったら祇園のバーで弾き語りをする、っていう感じだったんですよ。その頃には一人暮らしを始めてて。

-生活のために…。
種:就職もしないでブラブラしてて、もう実家にはいづらいな、って…。両親もあきらめてた(笑)。

-スタジオの電話番とかバーでの弾き語りとか、音楽と直結したバイト生活だったんですね。
種:電話番は毎日10時から4時までで月5万円だったんですね。その代わりに、仕事がない時はピアノ弾き放題っていうことで。私にとってはリハスタだったんです。でも、それだけでは生きて行けないので、短期間でたくさんお金がもらえる仕事っていうと、家庭教師と弾き語り…水商売ですよ。

-バーではどういう楽曲を演奏されてたんですか?
種:いわゆるジャズのスタンダードを歌ってたんだけど、それはメチャクチャ勉強になりましたね。まず、いろんな曲を覚えないといけないじゃないですか。毎日のように譜面を書いて、練習して歌って、というのをやってたので、歌詞やメロディ・ラインも含め、スタンダードとして残っている名曲がどういうものなのか、っていうのがすごく分かって…。

ジャズセッションに参加してスタンダードを歌ってるところ。

ジャズセッションに参加してスタンダードを歌ってるところ。

-テイストとか…。
種:コードの仕組みだったりとか。シンプルな構造と、でもいいメロディっていうのは勉強になった。あとは、ほぼ毎日演奏するので、常にステージで歌っている状況があったのもよかったですね。

-背中の開いたドレスを着て(笑)?
種:成人式のために母が買ってくれた冠婚葬祭用のワンピースでやってたんですよ(笑)。お店の人に、「たまには違う服着てくんない?」って言われながら。「すみません、お金がなくて買えないんです…」って。

Chapter 6. こだわらないのがこだわり

-種さんとジャズやソウルとの関わりというのは、プログレと同じように、バンド活動の中でメンバーから聴かされたりして始まったんですか?
種:そうですね。みんなが持ち寄ったのを聴いてるうちに、自分の中に蓄積されて行ったってことですね。

-特にジャズの場合、ハードルが高いと感じる人もいると思うんですけど、わりと自然に入り込めましたか?
種:よく分かんないって思ったものもあるんですけど、チック・コリアのピアノが好きだな、とか…。

-どういうところが?
種:感覚なんですけど、チック・コリアって、土俗的なものを持ってる人なんですよ。『マイ・スパニッシュ・ハート』ってアルバムもあるんですけど、スペイン系っていう出自にこだわってる…そういう曲とか、すごくいいんですね。洗練されてない。あと、セロニアス・モンクは作曲者としてすごいなと思って…個性っていうことなのかな。

-ジャズというジャンルよりも、チック・コリアだったり、セロニアス・モンクだったり、特定のアーティストの個性に魅かれて行ったということでしょうか?
種:そうですね。

-それはソウルやファンクでも。
種:同じですね。プログレも別にジャンルとしては好きじゃないんですよ、実を言うと(笑)。リック・ウェイクマンが好きっていうことだと思います。例えば、キース・エマーソンはギターと一緒には演奏出来ない。リック・ウェイクマンはスティーヴ・ハウと一緒にアンサンブルを作って行くのが上手いんですよね。だから、イエスって技術もあるけど、歌が中心にあって、その歌の世界を作り上げてるのがすごく好きです。オルフェをやってた時は、「そういうバンドがいいね」って話してたんです。歌があって、支えるギターとキーボードがいて…調和がある、っていうバンドが。あと、いきなりですけど、松田聖子さんも大好きだったんですよね。彼女の歌唱力はすごいと思ってました。

-歌謡曲と意識せず、洋楽などと…。
種:並列で聴いてた。歌謡曲であろうが何であろうが、いいものはいい、って。

-ミュージシャン仲間の反応は?
種:共感してくれる人はもちろんいたし、「そんなん聴くの?ダサー」みたいに言う人もいたし。でも、私はジャンルっていうものにあまりこだわりがなかったんで。例えば、「XTCとチック・コリアと両方好き、っていうのが分からない」って人から言われたりとか…。私がクラッシュとかジャムとか好きだって言うと、「あんな下手クソ」とか言われて…「コイツら、頭堅いな」って思ってたんですけど。

-クラッシュやジャムやXTCはどうやって知ったんですか?
種:高校の時にパンクを聴いて…ガーン!って来たんですよね。渋谷陽一さんの『サウンドストリート』を必死に聴いてたので、ポリスとかXTCとかがかかり始めてすごく驚いて。それまでは、TOTOがいいと思ってたんだけども…いや、TOTOもいいんだけども、スゲー!って思って。B-52’sとかトーキング・ヘッズとかもサイコー!って思ってたし。

-(笑)同時に、バンドではプログレ的な音楽を演奏していたと。とにかく、周りで耳につくもの、気になるものをピックアップして、こだわりなく聴いていたということでしょうか?
種:そうですね。当時の京都って今以上に保守的だったので、例えばジャズ・クラブに出入りするような人は磔磔とかには行かないし、棲み分けって言うか、そういうものがハッキリしていたんですけど、私自身はいろんなところに顔を出してたので…。

-「ハッキリせい!」と(笑)。でも、そればかりは無意識ですもんね?
種:ジャンルに対する思い入れがないし、一定のものにこだわりたくないって気持ちがあったのかも知れないですね。

Chapter 7. SDオーディション出場

-一方で、福井さんと出会って、スタジオが空いてる時にピアノを弾いたりして…。
種:そのスタジオにはいろんな人が出入りするわけですよ。で、今までに全然知らないようなタイプの人といっぱい出会ったりして。その頃、Dr. KyOnさんもデモを録ってましたよ。

デモテープ作ったとき,アーティスト写真も必要と言われ,友人に頼み撮影してもらった。照れくさいのをごまかすためかなり飲んでいる。

デモテープ作ったとき,アーティスト写真も必要と言われ,友人に頼み撮影してもらった。照れくさいのをごまかすためかなり飲んでいる。

-録音したデモテープを誰かに聴かせる機会はあったんですか?
種:スタジオに出入りしているミュージシャンで、ラブ・ポーションっていうバンドのサポート・ドラマーがいて、「ソニーでSDオーディションっていうのがあるんだけど、担当者を知ってるから、デモテープを渡しといてあげようか」って、声かけられて。「でも、もう締切過ぎてるからね」とも言われて…。

-その方が仲立ちみたいな形で?
種:そうなんです。もちろん、デモテープを作ったら、いろんなところに配ろうと抽象的には考えてたけど、田舎に住んでるプータローには配る相手が分からないじゃないですか。とにかく、そんなことを言ってくれる人がいるんだから、すぐに渡して…第1号ですよ、ホントに。別に何も期待してなかったんですけど。

-その後、担当者から「オーディションに出ませんか?」みたいな連絡が入って?
種:そういうことです。

-1984年でしたっけ?
種:だと思いますね。「とにかく予選は通ったから」ってことで…。

-最初のテープ審査?
種:うん。「関西大会も通ったから」って言われて。それで全国大会が渋谷公会堂であるからバンドと東京に行かなくてはいけないと。メンバーには、「絶対に入賞するから…そしたら賞金を分けるから」って頼んで(笑)。

-それが決勝大会ですよね。何か印象に残ってることはありますか?「誰がいたなあ」とか。
種:その時に優勝したのがThe東南西北。優秀賞が2組で私とLOOKで特別賞が聖飢魔Ⅱ。ゲストが白井貴子さんだった。彼女もSD出身か何かで。

-東京のバンドも多かったと思いますが、アウェイ感は感じませんでしたか?
種:そんな余裕、なかったですね

-演奏で精一杯、みたいな?
種:そうですね。当日、打ち上げをやったんですけど、なぜか賞を穫った東京の人達はみんな来ず…入賞者で来てたのは、The東南西北と私しかいなくて…あとは落ちた人達が大勢来てて。こっちは知り合いがいないんだけど、落ちた人達はみんな知り合いみたいで、すごく盛り上がってて。「入賞したヤツ、暗ーい!」って言われてた(笑)。

-自分の何が評価されたと思いますか?…自信があった、っていうのはもちろんだと思うんですけど。
種:その頃はね、鼻持ちならないぐらいに、根拠のない自信を持っていたかも知れない。

-他人との比較とかではなく?
種:そう。福井さんがだいぶ後になってから打ち明けてくれたんですけど、スタジオで初めて会った時に、「今度ライヴをやりたいんですけど、一緒に演奏してくれませんか?」って私から言われて、自分が迷ってる間に、ピアノを弾きながら、「こんな曲で、こんな曲で…ちょっと合わせてみてもらえません?」って…。年上の面識もない人に。「とりあえず、コンガとか出して叩いてたら、本当にライヴやることになってたんだよね」って言われて(笑)。

-人を巻き込む力も大事ですから。SDオーディションで演奏されたのは「うそつき少年」ですよね。後に、デビュー・アルバムに収録されますけど、アレンジや方向性は既に完成していたんですか?
種:わりと変わってないです…実を言うと。

バイトしてた福井さんのスタジオで。 右から福井さん、ワタシ、てっちゃん(元サーカス&サーカスの店長)あとは地元ミュージシャンたち。

バイトしてた福井さんのスタジオで。
右から福井さん、ワタシ、てっちゃん(元サーカス&サーカスの店長)あとは地元ミュージシャンたち。

Chapter 8. デビューへの紆余曲折

-その後、デビューまではトントン拍子だったんですか?
種:全然ですよ。当時のソニーのシステムとして、オーディションの後、担当したいディレクターが名乗り出て、そのディレクターが所属事務所を探して、でもって、デビュー。事務所を探せなかったらダメです、ということだったんですね。何人か手を挙げてくれたんですけど、エピックの方が特に熱心だったんです。で、会って話して、「プロデューサーは井上鑑さんにお願いしよう」って…「おお、スゲーな!」ってことになって、井上さんともお会いして。そこまで決まっていたにも関わらず、事務所がことごとく断って来た。

-生意気とかじゃないけど…そういった部分も原因だったんですか?
種:音楽性がマニアックって言われたんです。

-そのあたり、当時はまだ高い壁がありそうですね。
種:じゃあ、次に手を挙げた人、っていうことで、CBSソニーの山口(忠生)さんが事務所を探し始めたんですけど、これがまたなかなか決まらない。ラスト・チャンスっていうことで、シンコーミュージックに話を持って行って、シンコーがライヴを観たいっていうことで、バンド・メンバーに頼んで東京のスタジオまで来てもらって…そしたら、当時の社長の草野(昌一)さんがすごく気に入ってくれて…。

-オーディションから何ヶ月後ぐらいですか?
種:1年弱はかかってるんじゃないですか。その間、地元に帰ってバイトして…どうなってんだろう?って思いながらイライラしてた。ともかく曲を作ったりしながら暮らしてたんですけど。

-長く感じたでしょうね。
種:「そういうのって、危険なんだよ」って言う人もいるし…。でも、シンコーも社長以外は全員反対したらしいんですよ。でも、社長の一存でやるから、ってことで。

-当時のシンコーって、どんなアーティストが所属されてましたっけ?
種:レベッカがいましたよ。

-ということは、ソニーとも縁が深かった。
種:そうそう。

-紆余曲折あって、ようやく体勢が整いました。そしてデビューに向かうのは次回ということですね(笑)。
種:はい。

vol.3につづく。

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