種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー vol.1

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種ともこ デビュー30周年記念ロング・インタビュー vol.1

種ともこ、祝・デビュー30周年!…ということで、アニバーサリー・イヤーの2016年12月まで、約1年にわたって、スペシャル・インタビューを掲載致します。
アーティスト活動はもちろん、生い立ちから音楽との出会い、学生生活、デビューへの道のり…などなど、当時の写真も交えて、ざっくばらんに種ともこのこれまでを振り返ってお送りする予定です。
vol.1では、種家のルーツに始まり、大学受験までを語っております。いきなり話題が飛躍したり、記憶違いで事実関係と異なる部分もあるかも知れませんが、温かい目で見守って頂けましたら幸いです。
今後、(できる限り?)定期的に本サイトにアップして行きたいと考えておりますので、どうぞお楽しみに!

構成:種ともこスタッフ

Chapter 1. 種家について

-いきなりですが、お生まれは?
種ともこ(以下、種):詳しくは分からないんですけど、物心ついた時は(大阪府)豊中市の団地に住んでました。

-ご両親のお仕事は?
種:父は水道関係のサラリーマンで母は専業主婦。父の仕事の都合で、小学2年生で京都市の桂に、4年生で(京都府)向日市(当時は向日町)の社宅に引っ越しました。

-妹さんがいらっしゃいますよね?
種:はい。2つ下です。

-種さんの名字の由来ご存知でしたら教えてください。
種:父方は鳥取の農家で…水源の近くに住んでたんですけど、一帯が不作だった年に、その辺りだけお米が穫れたそうなんですね。で、父の祖先が収穫したお米を翌年の種米として献上したらしいんですよ。それで、お殿様から「種」という名字を授けられた…という話が伝わってるんですけど、実は、すごい迷惑っていうか(笑)。うちの一族だけなんですよ、「種」って。

-イジメられたりとか。
種:父も私も「ヒマワリの種」とか「何とかの種」って、小さい頃にからかわれて。私の娘は「チューリップの種」って言われて、「チューリップは球根です」って返したら、相手が絶句してたって言ってたけど(笑)。

Chapter 2. 楽器との出会い

-楽器は何歳ぐらいから?
種:私が1歳の時に、母が無断でピアノを買って。父はたまげたそうですけど…冷蔵庫と洗濯機、どっちを買うか、っていう時代に、家に帰ったら、いきなりピアノが置いてあって。

-当然、その頃の記憶はないですよね?
種:ただ、3歳からピアノを習ってて、その先生のことはよく覚えてます。素晴らしい先生だったんで。幼少期からピアノの運指をやると、指の成長によくないから、最初は歌うだけっていう感じで。

3歳。この頃はまだレッスンでは歌を歌ってただけなので、楽譜は撮影のためにただ飾ったと思われます。

3歳。この頃はまだレッスンでは歌を歌ってただけなので、楽譜は撮影のためにただ飾ったと思われます。

-音符に慣れ親しむため?
種:そういうことですね。先生が即興で作るんですよ。「ともこちゃんのうた」とか、簡単な歌を。手書きの譜面で歌うのは、すごくいい経験だったと思うし、子供だから真似して、自分でも「ペンギンのうた」とか作って歌ってたので…。

-3歳で既に作曲されてたんですね(笑)。
種:その先生にピアノを習ったのは、すごくいい思い出ですね。でも、母は本気で私をピアニストにしたかったみたいで、突き指しちゃいけないから、ボール遊び禁止だったのは嫌だったなあ。

-妹さんも習ってたんですか?
種:彼女はとにかく嫌いだったので、すぐやめちゃったかな。

-種さんも反発してたら、人生が変わってたかも知れない?
種:でも、私もやめちゃったんですけどね。

-種さん自身もですか?
種: 誤摩化しながらも、4年生ぐらいまで続けてたんだけど、本当に練習が嫌で…。

-ずっと同じ先生に習ってたんですか?
種:いや。最初のユニークな先生のところには、京都に引っ越してからもしばらく通ってたんですよ、でも、遠くてすごく時間がかかるから、途中で近所のピアノ教室に通うようになって…その先生は大したことなかったなあ。

-それがターニング・ポイントになったのかも?
種:そうかも知れないですね。つまらないし、練習もしないし、ピアニストにするなんて母の夢も現実から離れて行くし…何となくフェードアウトしてやめたんですね。で、中学3年の高校受験の時に、「声楽科に行かないか」って薦められて。声楽科に入るにはピアノの実技もあるので、もう一回レッスンを始めて。結局、声楽科には行かなかったんですけど…。

5歳。ピアノの発表会。

5歳。ピアノの発表会。

Chapter 3. 洋楽好きの叔父さん

-ちょっと時間を戻しましょうか(笑)。小学4年生ぐらいで一旦ピアノをやめて、それ以降は特に楽器には親しまず?
種:叔父さんのギターを弾いてみたりとかしたけど、全然ダメだし…。

-種さんの音楽遍歴に大きな影響を与えた叔父様のことですね(笑)。この方とはどのくらいの間、同居されてたんですか?
種:私が幼稚園から小学何年生までかなあ?

-叔父様は、大学に通うために種家に居候を?
種:そうそう。

-間柄は?
種:母の一番下の弟ですね。父がとても忙しかったんで、運動会とか叔父さんが代わりに来てくれて、「若いお父さんね」って絶対思われてる、って母は嫌がってたんですけど、私は楽しかったですね。

5歳。居候してた大学生の叔父さんと一緒に。

5歳。居候してた大学生の叔父さんと一緒に。

-その叔父様が聴いてたのが、ビートルズだったり…。
種:サイモンとガーファンクルだったり。いわゆる、1960年代から1970年代初頭の洋楽のベスト10みたいなもの。アルバート・ハモンドとか、ギルバート・オサリバンとか、プロコル・ハルムとか…どれもすごく好きだった。

-それまで、ピアノのレッスンで聴いていた音楽とは全く違ったと思いますが、どんなふうに感じましたか?
種:でも、ピアノを習い始めたのと、1年ぐらいしか変わらないんですよね。ピアノの先生も刺激的な存在だったし、その後、すぐに音楽好きな叔父さんがやって来て、一緒に暮らしてたっていうのもすごく大きかったですね。

9歳。ピアノの発表会。

9歳。ピアノの発表会。

Chapter 4. 名門合唱部での3年間

-叔父様はギターも弾かれて…。
種:吉田拓郎とか RCサクセションの「ぼくの好きな先生」を歌ったりしてて、こういうのもあるんだ…って思ったり。一方で、小学生の時に、NHKで『ステージ101』っていう、若い男女が日本語で洋楽を歌う番組が始まって、それも好きになって。番組の最後の楽譜プレゼントに毎回応募してたんですよ。ただ、その譜面にはメロディとコードが書いてあるだけで…その頃、クラシックしかやってないから、コードっていう概念が分からないので、伴奏を適当に考えてつけて歌ってました(笑)。

-立派なアレンジですよね。
種:(笑)。すごくいい勉強になりましたし、楽しかったです。でも、よく怒られましたけどね、母に。練習はいつやんの?って。

-『ステージ101』の影響もあって、中学では合唱を始めたんですか?
種:そうでもなかったんですけど(笑)。私、小さい時から足の骨の病気で体育をしてはいけないってお医者さんに言われてて。中学に入って部活を選ぶ時、全然興味を魅かれるものがなくて、友達に誘われるままに合唱部に入ったんです。それが全国的に有名な名門合唱部だったんですね。顧問の先生も部活のためにいるみたいな名物教師で。とにかく厳しくて…毎月1回、1人づつみんなの前で歌わせて、一軍、二軍…それから、いつでも辞めていいよ、っていう3組に分けるんですよ(笑)。私は、いつ辞めてもいい組に入ってたんですよ、最初は。

-こんなはずでは…って感じでしたか?
種:1年間、本当に屈辱的に過ぎて…来てもらったら迷惑ぐらいの言われ方だったんで。練習は毎日、夏休みも関係なく。一軍は教室でやるんですけど、二軍以下は外なんですよ、暑っつい中(笑)。

-そんな中、状況が変わるきっかけがあったんですか?
種:家から学校まで徒歩で40分ぐらいかかるんですけど、最初の20分はずっと農道なんですよ。その間は誰ともすれ違わないので、課題曲を1人で歌ってたんですね。そのうちに、多分、何かつかんだと思うんですけど…1年の終わりの発表回で先生から、「あれ、どうしたの?」って言われて。

-自分が何かつかんだのと、周りが「オッ!」と思ったタイミングが同じだった?
種:そうですね。先生からは「一軍抜擢!」って言われて。でも、1年生で一軍っていうのはまずなかったんで、すっごい妬まれましたよ。

-妬まれる相手は女子?
種:そう。メチャクチャ嫌な世界です。合唱って、上手い人が立つポジションが決まってるんですよ。で、後ろの人は前の人よりも1ランク下なんですね、実力的に。だから、先生が「こことここチェンジ」とか、立ち位置の指示を出す度に一喜一憂したりして。

-受験で声楽科を推薦してくれたのはその顧問の先生だったんですか?
種:そうですね。

-じゃあ、3年生では主力に?
種:主力メンバーでしたね。副部長だったし。

Chapter 5. 悩ましき高校受験

-田舎道を40分かけて通い、合唱部では副部長まで昇りつめて…ところで、勉強はどうだったんですか?
種:普通って感じかな。英語は好きだったんで…それも絶対洋楽を聴いてたからだと思う。

-音楽はどうでしたか?
種:音楽はよかったですね。

-そして、顧問の先生から声楽科への進学を薦められて…近くに有名な高校があったんですか?
種:京都にHっていう高校があって、そこの声楽科に入ると、ほとんどが芸大とかそういう方面へ進むっていう…。

-でも、結局は声楽科には行かなかったっていうお話ですけど。
種:うん。自分の将来を考えた時に、クラシックの世界がそんなに好きじゃないっていうことと、声楽科に行くってことは、ほぼ100%女子で…女子校の雰囲気が嫌だったってことで(笑)。

-合唱部でそういう状況を味わったんですもんね。
種:もっとえげつないパターンになるだろうなって。あと、受験のためにピアノのレッスンを受けてた先生から「何のために声楽科に行くの?」って聞かれて、「先生に薦められて…」って答えると、「自分の将来をそんなふうに決めていいのかしら?今は将来を狭めるような選択はしない方がいいんじゃないの?」みたいに言われて…それもそうだなって。あと、片想いの好きな人が通ってる高校に行きたかった(笑)。

-でも、声楽科の受験のためにピアノのレッスンを始めたってことは、一時は本気で考えてたってことですよね?
種:だって、その学校に行ったら、音楽ばっかりで普通の勉強をしなくていいって聞いて…数学とか理科とか大嫌いだったから、それは自分にとってものすごく魅力だったんですけど。

-揺れ動く期間はどれぐらいだったんですか?
種:半年は悩みましたね。

-その頃はずっとお父様は同じ仕事を?
種:脱サラして、ごく零細ですけど自分で水道関係の会社を経営してました。

-じゃあ、経済状態もよくなったってことですか?サラリーマンの時より。
種:大変そうでしたよ、最初は。それまでは、何があっても一定の収入があったわけですけど、工事の受注がなければ0なので。でも、父は小さくても、自分がトップっていうところをずっと目指してたので、夢がかなったわけですよね。ただ、母は大変だったと思いますよ、経済的に。

ピアノの発表会。高校1年のころ。これが最後の発表会。 この後、クラシックのピアノレッスンをやめ、家でロックやポップスの1日1曲コピー生活になる。

ピアノの発表会。高校1年のころ。これが最後の発表会。
この後、クラシックのピアノレッスンをやめ、家でロックやポップスの1日1曲コピー生活になる。

Chapter 6. 日課は1日1曲コピー

-高校の話に戻りますけど、結局、普通の公立高校に行って、恋は成就したんですか?
種:しないです(笑)。ダメダメでした。

-高校ではどんな学生生活だったんですか?
種:今で言うなら不登校ですね。当時はそんな言葉はないんで、サボり魔って言われてたんですけど。

-何かきっかけがあったとか?
種:つまらなかった、学校が。どう考えてもつまらなかった。

-授業も友達も…全てにおいて?
種:全てがつまらなかった。中学までは近所の子供達がみんな同じ学校に行くわけですよね。で、私の通ってた中学って、わりと変わってて。向日市って、競輪場があったりして、そんなハイソなところじゃなかったんですよ。なんで、学校もメチャクチャだったし。

-イイ奴もいて、悪い奴もいて…それが極端で?
種:そうそう。「アイツ、家出してるらしいよ」みたいな。自分はそうじゃなかったけど、いわゆる不良と仲がよかったりして…いろんな人がいて、それはそれで面白かったんだけど、公立高校ではみんな同じような人ばっかりで。

-進学校だったんですか?
種:わりと勉強は頑張りましょうね、っていう感じで、一流とか、そういうことを言う校長がいたりして。あと、骨の病気で度々手術をしたんですけど、その何回目かが高校の時で、何ヶ月も入院して学校に馴染みづらくなって…。よく覚えてるんですけど、通学路の坂を降りたところに校門があったんですよ。そこに始業時間ギリギリに生徒達が駆け込んでるのを見てると、急にウンザリして家に帰っちゃった(笑)。

-ある日、その光景を見て突然に?
種:その一員になるのがものすごく嫌で。でも、有り難かったのは、家に帰っても、母が何にも言わなかったんですよね。あの時に怒られてたら、絶対不良になってたと思うんですけど、黙って朝ドラ見てて…(笑)。もう、しょうがないって諦めてたんでしょうけど。

-それからは行ったり、行かなかったり?
種:ノートに出席日数をつけて、ギリギリの日だけ行くっていう。進級できないと困るじゃないですか。行っても遅刻ばっかりで、クラスの遅刻表でもダントツ1位(笑)。

-たまに行っても気まずいでしょう?
種:友達、いなかったですね、ほとんど。

-地元で幼馴染みと遊んでる、みたいな?
種:いや、1人で家にいました。そして音楽を聴いてて、1日1曲コピーっていうのをやろうと思い立って、いろんな曲をピアノでコピーし始めました。

-どんな音楽を?
種:洋楽ですね。エルトン・ジョンとかシカゴとか、ビリー・ジョエルとかTOTOとか…とにかくその時に流行ってそうなやつを。

-鍵盤楽器が入ってたら何でも?
種:ジャンルを問わず。でも、その頃はジャズがあんまり好きではなかったので、やっぱりロック、ポップス。

-何か目標があってやってたわけではないんですよね?
種:ただ楽しかった、って感じかなあ。

-期間的にはどのくらい?
種:2年ぐらい。

-1日1曲だとしたら、すごい曲数だと思うんですけど…。
種:休んでる時もあったんで。でも、結構やりましたね。譜面がなかったので、耳コピで。とにかく何回も何回も聴いて…。

-その過程で、こうやったら気持ちいいんだなあ、とか、こうやったらこういうふうに聴こえるんだなあ、とかっていう感覚を自然に体得して行ったっていうことですよね。
種:そうですね。

Chapter 7. 就職組から大学進学へ

-片や、学校には最低日数だけ登校して、とにかく進級だけはして、3年生になって…後に同志社大学に進学されていますけど、3年生の1年間、とにかく頑張ったということですか?
種:2年から3年になる時に、進路によってクラス分けがあったんですね。1組から15組まで、1組2組は国公立クラス、他にも何とかクラスっていうのがあって…私がいたのは就職、専門学校組っていう15組だったんですね。だから、3年生になったら、家庭科とか、男子は旋盤とか溶接とか…普通の授業はほとんどなかったんですね。

-その時点で何になりたいというのも特になく?
種:先生に進路を聞かれて、何となく写真っていいなあ、とか思って(笑)、写真専門学校の資料を取り寄せて、ここに行くとか言ったら「あ、そうなの?」って…先生もやる気なし(笑)。同時に、1人でいろんなことを考え始めて。ニーチェとかを読んで、「人生って何なんだろう?」とか「生きるとは?」とか考えてるうちに、「よし、哲学を勉強しよう」と思って。それで先生に「哲学科に行きたいんですけど…」って言ったらメチャクチャ怒られて。

-それが3年になったばかりの時?
種:いや、3年の秋とか。「お前の出席日数では推薦もあげられないし、15組にいるのに今さら大学受験なんて!」って、すっごく怒られて。メチャクチャ腹が立って、「お前の世話にはならねーよ!」って言い返して。それで真剣に勉強し始めたっていう。

-限りなくゼロに近かったわけですよね?可能性としては。
種:両親からは「哲学とか、女の子が勉強したら縁遠くなるばっかりでしょ!」って反対されて。

-縁遠くって、結婚ですか?
種:そういうこと。「短大の家政科とか、そういうところに行きなさい」って言われたんですけど…。

-それ以降の勉強のペースは?
種:1日中ですね。私立だから英語と国語と日本史の3科目、とにかく国語と日本史を毎日勉強するっていう…。英語は大丈夫だったんで。学校には模擬試験の時だけ行って。

-自分が今どのランクにいるかを確認するために?
種:そしたら、どんどん上がって来たんですよ、模試の結果が。先生からは、「お前、嫌な奴だな」って言われたんですけど。学校にも来ず、人の意見も聞かず、模試だけ利用して…っていうことだと思うんですけど。だから、合格した時も「おめでとう」って言ってくれなかったですよ(笑)。

-受験の頃には、結構自信はありました?
種:いや!なかったです。蓋を開けるまでは分からないって感じで。

-もしダメだったら、浪人するつもりで?
種:浪人は絶対に許してくれなかったので、ダメだったら、2次募集で短大の家政科って…恐らく、母は、骨の病気のこともあって、私が結婚できないんじゃないか、って考えてたみたいで…だから、「自分で稼ぐことを考えなさい」って言われてたんですけど、母は自分が仕事をしたことがないから、和裁とか、編み物とか、そういうことしか考えられない。だから、「短大の家政科に行って、仕立て屋さんになって生きて行くっていうのを考えたら?」って言われて。ダメだったら諦めるだろうっていう判断が両親にはあったと思います。

-受験は同志社一本だったんですか?
種:同志社と立命館受けたのか。ひょっとしたら、関大とか受けたかなあ。

-そして無事、同志社大学の哲学科に合格されたわけですけど、その時はどう思われましたか?
種:「足かせがはずれた!」って気持ちでしたね。「ノルマこなしたんだから、もう誰にも文句言わせねー!!!」って感じでした(笑)。

vol.2につづく

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