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萱野茂さんの言葉②
(萱野茂:1926年、北海道平取町二風谷(にぶたに)に生まれ、2006年に79歳で人生の幕を閉じました。アイヌ語を母語として育ち、アイヌ文化の保護活動に尽力。1994年に参院議員となり、アイヌ文化振興法の成立に貢献。)
明治政府は、アイヌ民族に対して主食のサケ漁を禁じ日本語教育を強制するなど固有の生活・文化を否定する政策をとりました。そうした中、萱野さんは祖母から昔話などを通じてアイヌ語を受け継ぎます。そして「言葉こそ民族の証」という信念のもと、多くの古老たちを訪ねてアイヌ語を録音し、和訳。自ら辞書を作り、教室を開くなど、言葉を残し伝えていく取り組みを続けてきました。
さらに、地元に建設が進んでいたダムをめぐる訴訟や、国会議員として「アイヌ文化振興法」成立をめざす活動の中で、「先住民族」としての存在と権利を日本の政府や社会に対して認めさせる闘いの先頭に立ちました。
2014年という新しい年の初めに、この萱野氏が生前に語り書き留めた言葉を揚げ、もう一度、その意味を考えるきっかけとしてみたいと思います。それは、決して自虐的意味合いではありません。本当の孝行息子娘ならば、愛する親や父祖が犯した罪を謝罪し、和解を求めることこそが、彼らを後悔や責め苦から解放する唯一の道であることを知っているはずだからです。それによってこそ、真の和解と、新しい関係が構築されると信じています。
そして、それは他の近隣諸国との関係においても同様だと思います。
(私はごく普通の保守系日本人で、小泉政権がイラク戦争支持するまでは、自民支援、アメリカ大好き人間でした。)
アイヌ民族は自然を神と崇め、自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました。魚、野獣、山菜のどれひとつとってみても必要以上には決してとらず、他の生きもののために残し、また来年のために置いておくのです。そのような自然界の巡りをアイヌ民族はよく知っていました。平和なアイヌモシリは、和人の侵略と開拓によってどんどん荒らされていき、アイヌ民族は一方的に生活圏の全てを奪われてしまいました。
私はこれまで19回諸外国を訪ね、それぞれの国の先住民族と交流を重ね、たくさんの話を聞きましたが、日本ほど先住民族の事を何ひとつ考えず無視している国は他にないという事に気づかされました。どの国も侵略した側とされた側の間には、何らかの条約があることを知りました。ところがこのでっかい島、北海道の主であるアイヌ民族と日本政府の間には、条約のかけらもなく、この事は世界に類例のない暴挙であります。そしてこの事実は、世界に恥ずべき事であります。4万5千ヵ所からなるアイヌ語の地名が、北海道はもともとアイヌの土地であった事を明白自明の事実として、物語っています。ですから「私達アイヌは、北海道というでっかい島を、日本人に売った覚えもなし貸した覚えもなし、せめて年貢ぐらい出してもいいでしょう。アイヌの頷有権を認めていただきたい」と私は言い続けているのです。
かつて私達アイヌ民族の祖国であるアイヌモシリを侵したのは、あなた方ではありません。しかし、あなた方の祖先が犯した過ちを正せるのは「今、生きているあなた達」です。あなた方の祖先が犯した過ちを正す行為は、決して恥ずべき行為ではないばかりか、差別のない共生と平等な社会に向けての出発点であり、日本が国際社会で生きていくための基本であると考えます。
現在世界中で行われている自然破壊の様をアイヌである私はひどく憂慮しています。巷で「自然保護」が叫ばれていますが、アイヌ語の中に「自然保護」という言葉はありません。自然、つまり海でも山でも、川でも鳥や獣に至るまで、もしも口があったなら「人間共よ、自然保護などという大それた言葉を慎しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなた達がぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料でも供給できることになっているのだ」と自然の神々はおっしゃるでありましょう。
自然は常に巡っており、生きもの同士がその摂理の中でそれぞれの生命を全うするはずが、人間共の勝手なエゴや欲望によって、虫達の家や着物を剥ぎ取り、鳥や動物達の住み家までも奪い去っています。これもまた、侵略です。
ゴルフ場しかり、リゾートしかり、ムダ遣いが原因の森林伐採しかり・・・、例を挙げればキリがない程どれもこれもです。日本は浪費し過ぎです。天に向かって「面のひっぱがし」です。いずれそれらが、自分たちの顔に降りかかってくるのです。消費、浪費の大国のまま良き未来を迎える事はありません。
今や、大昔の暮らしに戻る事はできません。ほんの少し数十年昔の姿を思い出し、ほんの少し戻ればよいのです。夜の明るさも我慢をして、慎ましやかに生活しようと思ったならば、資本家に対して原子力発電所などというウェンカムィ=化け物を作る口実は、与えなかったでありましょう。86年、スウェーデンのヨックモックを訪ねた時、チェルノブイリの事故による、それは恐ろしい話を聞き、そして、いつ私共の身に降りかかってくるやも知れません。人類はぜいたくし過ぎ、もっと明るく、もっと速く、もっと便利に、もっと多くを求め過ぎました。
全ての生きものの生存を可能とする、地球環境の保護こそが、人類が生きていく条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々に至るまで残さなければならない、と私は考えています。
93年は「国際先住年」です。これは、私達の住むこの地球から、民族的な差別観を取り除くと共に、侵されて来た先住民族、少数民族の権利回復はもとより、生活や文化を共に保障する社会を目指すものです。世界の潮流は、少数者がしいたげられる時代に終わりを告げる時を迎えており、全ての生きとし生けるものの平和な生存を約束する、地球環境保護への道に入りました。社会は限りなく求め続けられている「人間の欲望」を、どう抑制するかの時代にあるのです。これはアイヌも和人も、一人ひとりが考えて、果たさなければならない事だと思います。
そして一度でいいですから「もし自分が、アイヌ民族ならば」と考えてみてください。コロンブス到来500年目の今年、「国際先住民年」の来年は、そういう事を考え合い、勇気をもって出発する第一歩にふさわしい年であろうと思います。コロンブス到来に始まる侵略は、南北アメリカ先住民族に想像を絶する苦しみをもたらしました。私達アイヌ民族も侵略された道を歩まされてきました。侵略された側のアイヌとして、私はその痛みを知っております。
アメリカのインディアン政策を基にした、日本のアイヌ民族に対する「旧土人保護法」という悪法は、未だ現行法として生きております。世界は新しい世界に向かって大きく前進しようとする時代、「知らないという恥」そして「知らないまま加担する深い罪」に、終わりを告げる時であります。コロンブスの侵略を美化するサンタ・マリア号の復元、航海が、日本によってなされているという事は、とんでもない深い罪であろうと考えます。多くの犠牲の上に立っての、お祭り騒ぎや祝い事など、決してあってはならない事であります。
一人ひとりが人間として、正しい歴史を学び直してください。そして、本当の事を知ってください。日本は、単一民族国家などではない事を知ってください。子々孫々に正しい事を伝え残し、「人間の住む静かな大地」をよみがえらせ、そして残せる人間の姿で生きましょう。「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります。アイヌ民族も、ピリカシサム(良き隣人)も、心をひとつにして、無知を改め、正しい行動を起こす勇気をもって、大いなる出発をしましょう。それらがペシッ(波紋)となって、世界に拡がりますように、アイヌモシリより心から切望いたします。
(萱野茂 1992年、「夜明けへの道」 人間家族 特別号)
いまの日本やアメリカやカナダの生活はまるで天国のような素晴らしいものですが、しかしそれは非常に危うい社会です。日本ではいまなお原子力発電所を次々と作ってはいますが、あれはトイレのないマンションを作っているようなものです。終末処理も全くできていないのに、次々と原発の建設を続けているんですから、これは天に向かって唾を吐いているようなものでしょう。
その唾が私をも含めて自分の顔に落ちてこないことを願ってはいるけれども、しかし何の保証もない。だから考えなければならないんです。30年40年前の暮らしに戻ることをね。
電気はこれ以上に明るくならなくてもいい。そういうことをいま本気で考えなければならないときだと思います。この地球を先祖から預かって、子孫に対して無傷で渡さなければならないのに、自然の破壊ぶりはもう無茶苦茶ですよ。傷だらけどころではなく、もはや瀕死の重傷です。
私がまだ子供のころのことですが、ある日突然お巡りさんが靴も脱がずに家の中に入ってきて、父を逮捕しました。
そのとき父は板の間にひれ伏して、「はい、行きます」と言ったまま顔を上げない。どうしたことかと思って黙ってそばで見ていたら、板の間にポタポタ大粒の涙が落ちるんですよ。父は昔ケガをして右目がダメになっていたのに、その目玉のないほうからも涙が落ちているんです。逮捕されたのはサケを獲ってきて家族に食べさせたからです。
私はこれまでに24回ほどパスポートが必要な旅をしていろんな少数民族の方々に会ってきましたが、主食まで奪われた民族に出会ったことはまだ一度もありません。ということは、日本ほど先住少数民族の権利を平気で奪った国はない。
(萱野茂)
…本当に、心にズシ~ンと染みました。
萱野さんの死から5年後の、2011年3月11日の東日本大震災(大人災)で、
ついにこの言葉は現実になりました。
次に、その萱野氏の死を悼んだ辻信一氏の哀悼の言葉をご紹介。
『辻信一さんの哀悼の言葉』
http://www.sloth.gr.jp/tsuji/library/colum9.html
函館の友人ピーター・ハウレットから、「巨木倒れる」、という件名のメールで、萱野茂さんがなくなったというニュースを受けとった。虫の知らせというのか、萱野さんのことがこのところずっと気になっていて、先日のナマケモノ倶楽部の理事会で、ぼくか事務局長の馬場さんかのどちらかがなるべく早く萱野さんに会いにゆくことを決めたばかりだった。
ぼくが萱野さんのことがそんなに気になっていたのは最近加速するばかりの原発をめぐる動きのせいだ。特に六ヵ所村の再処理工場でのアクティブ試験なるもののあまりに性急な(なりふりかまわぬ)開始。あれはまさに縄文の地、アイヌの大地への歴史上最大級のテロだ。もうひとつのグラウンド・ゼロではないのか。これをやる側がアイヌの人々に思いを馳せることがなかったのだろうということは想像ができる。でも、それをとめたいと願う我々はどうなんだろう、とぼくは思わずにいられない。ぼくはとにもかくにもまず萱野さんのところに行って知恵を借りてきたい、と思ったのだ。
でも、萱野さんが逝ってしまった今となっては、本の中に、テープの中に、そしてぼくたちの記憶の中に残された彼の言葉にもう一度耳を傾けるしかない。
ぼくが萱野さんに最初に会ったのは確か1992年、ぼくが10数年ぶりに日本に戻ってまもなく、北海道の二風谷で行われた貝澤正さんの葬儀で、だった。正さんの遺言で、親友であり同志だった萱野さんは、アイヌプリ、つまりアイヌ式の葬儀を司った。その時萱野さんはこう言っていた。先に逝くあなたはいい、私がいるから。でも、私が逝く時、誰がアイヌのやり方で私を送ってくれるのか。
最近の萱野さんとのご縁は、ピーターが外国向けに英訳した『アイヌとキツネ』への推薦文をデヴィッド・スズキからもらうお手伝いをさせてもらったことだった。他の動物たちのことを十分尊重しないアイヌに対して、キツネがチャランケ、つまり異議申し立てをして、アイヌの人々が反省し謝罪する、というアイヌの民話に基づく萱野さんの物語だ。
萱野さんと最後にお目にかかったのは今からちょうど5年前の2001年のこと、ぼくの大学で行なわれた「チェルノブイリ15周年」(主催:ナマケモノ倶楽部、大地を守る会)の集会に無理をいって来ていただいた時だった。そこで、萱野さんはチェルブイリ事故の後、北欧先住民であるサーミの地を訪ねた時のことを話した。大地の上にあるすべてのものを同胞と見なす先住民族は、「大地を離れては暮らしていけない」ものであること、だからこそ、大地が汚染され、生態系が破壊された時に、最も大きな犠牲を強いられてきたのだということを、ぼくたちに思い出させてくれたのだった。
彼はこう言った。
「原発は天に向かって唾を吐くようなことだ。吐いた唾は必ず、自分の顔に落ちてくる。」今日、私はこれを遺言のつもりで言うんです、と彼は会議の前にぼくに漏らしたものだ。
また、講演の中で、彼はこんなことも言っていた。いくら悲惨な事故が起こっても懲りずに原発をつくり続けている人たちを見ていると、神様は、あまりにもおごり高ぶって、他の生きものたちのことを何一つ考えなくなった人間を滅ぼすためにこそ、ウランのような恐ろしいものをこの世に降ろされたのではないか、と思わずにいられない。そんな私の不安が当たっていなければいいのだが、と。
萱野さんが亡くなられた今、ぼくは自分の住む世界がいっそう寂しい場所になったことを痛感している。それはすでに彼の死のずっと前から進行していたプロセスのひとつの大きな節目なのだと思う。最後にご自宅に萱野さんを訪ねた時、彼は繰り返し、かつては踏み潰さないように歩くのに苦労するほどたくさんいたカエルが激減していることを嘆くのだった。まるでこのこと以上に大切なことが世界にあるか、というように。それは彼が参議院議員を惜しまれながら辞職し、「狩猟民族は足元の明るいうちに家に帰るもの」という名言を残して二風谷に戻って間もなくのことだった。彼が本当にあちら側へと「帰って」しまった今、こちら側に残されたぼくたちは、足元の暗さに呆然とするばかりだ。そして、カエルたちの消えた世界を寂しがっていた彼がいなくなったこの世界のなんと寂しげなことだろう。
チェルノブイリの原発事故からちょうど20年、水俣病公式確認から50年。原子力産業を推進しながら核拡散を防止するのだというIAEAが、チェルノブイリの被害を過小評価し「チェルノブイリは終わった」という幻想をつくり出すのに躍起になっているのは、日本の政府や産業界が「水俣」を過去のものとして封印しようとしてきたことと、ピッタリ重なる。それはまた、日本人がアイヌを差別と迫害で社会の片隅に追い込み、過去のものとして博物館の中に閉じ込めようとしてきたこととも重なる。
そういえば不知火海の漁師で水俣病患者でもある緒方正人さんは、4月29日の「新たな50年のために」と題する水俣病講演会で、こんなことを言っていた。仮に、人間の世界では、薄っぺらな謝罪の言葉や補償金や「和解」とかで問題が解決したかのような幻想をつくることができたとしても、人間と共に死んでいった魚や鳥たちはどうするのか。彼らに札束をちらつかせるわけにもいかないだろう、と。
これをぼくは、海の先住民族から届いた貴重なメッセージとして受け取りたい。沙流川の先住民である萱野さんも繰り返しぼくたちにこう語っていた。かつてアイヌは主食であるサケを、キツネやカラスたちと分かち合うことを忘れなかった、と。
ぼくは萱野さんの霊前に誓おうと思う。あなたがぼくたちに遺言としてくださった言葉をもう一度かみしめるところから始めます。そしてあなたの死の一ヶ月あまり前に吐き出され始めた六ヶ所村再処理工場からの放射能を止めるために最善を尽くします。そして、近づく東海巨大地震の予想震源の真上にある浜岡原発を止めるために、できるだけのことをします。あなたの不安が現実とならないように・・・。ご心配なく、とは残念ながら言えません。しかし、あとはお任せください。あなたの深い知恵をいただいたぼくたちには、きっとこの大切な仕事をするための大きな力が宿っているはずですから・・・
5月7日 辻信一
北海道旧土人保護法とは、貧困にあえぐ「北海道旧土人」(アイヌ民族)に対する保護を名目として作られたもので、土地、医薬品、埋葬料、授業料の供与などが定められていました。この法律は、「貧困にあえぐアイヌ民族の保護」を名目としていましたが、実際にはアイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として活用されました。具体的には、
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移されました。(明治32年に施行され、1997年(平成9年)、新制度施行により廃止)
(萱野茂:1926年、北海道平取町二風谷(にぶたに)に生まれ、2006年に79歳で人生の幕を閉じました。アイヌ語を母語として育ち、アイヌ文化の保護活動に尽力。1994年に参院議員となり、アイヌ文化振興法の成立に貢献。)
明治政府は、アイヌ民族に対して主食のサケ漁を禁じ日本語教育を強制するなど固有の生活・文化を否定する政策をとりました。そうした中、萱野さんは祖母から昔話などを通じてアイヌ語を受け継ぎます。そして「言葉こそ民族の証」という信念のもと、多くの古老たちを訪ねてアイヌ語を録音し、和訳。自ら辞書を作り、教室を開くなど、言葉を残し伝えていく取り組みを続けてきました。
さらに、地元に建設が進んでいたダムをめぐる訴訟や、国会議員として「アイヌ文化振興法」成立をめざす活動の中で、「先住民族」としての存在と権利を日本の政府や社会に対して認めさせる闘いの先頭に立ちました。
2014年という新しい年の初めに、この萱野氏が生前に語り書き留めた言葉を揚げ、もう一度、その意味を考えるきっかけとしてみたいと思います。それは、決して自虐的意味合いではありません。本当の孝行息子娘ならば、愛する親や父祖が犯した罪を謝罪し、和解を求めることこそが、彼らを後悔や責め苦から解放する唯一の道であることを知っているはずだからです。それによってこそ、真の和解と、新しい関係が構築されると信じています。
そして、それは他の近隣諸国との関係においても同様だと思います。
(私はごく普通の保守系日本人で、小泉政権がイラク戦争支持するまでは、自民支援、アメリカ大好き人間でした。)
アイヌ民族は自然を神と崇め、自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました。魚、野獣、山菜のどれひとつとってみても必要以上には決してとらず、他の生きもののために残し、また来年のために置いておくのです。そのような自然界の巡りをアイヌ民族はよく知っていました。平和なアイヌモシリは、和人の侵略と開拓によってどんどん荒らされていき、アイヌ民族は一方的に生活圏の全てを奪われてしまいました。
私はこれまで19回諸外国を訪ね、それぞれの国の先住民族と交流を重ね、たくさんの話を聞きましたが、日本ほど先住民族の事を何ひとつ考えず無視している国は他にないという事に気づかされました。どの国も侵略した側とされた側の間には、何らかの条約があることを知りました。ところがこのでっかい島、北海道の主であるアイヌ民族と日本政府の間には、条約のかけらもなく、この事は世界に類例のない暴挙であります。そしてこの事実は、世界に恥ずべき事であります。4万5千ヵ所からなるアイヌ語の地名が、北海道はもともとアイヌの土地であった事を明白自明の事実として、物語っています。ですから「私達アイヌは、北海道というでっかい島を、日本人に売った覚えもなし貸した覚えもなし、せめて年貢ぐらい出してもいいでしょう。アイヌの頷有権を認めていただきたい」と私は言い続けているのです。
かつて私達アイヌ民族の祖国であるアイヌモシリを侵したのは、あなた方ではありません。しかし、あなた方の祖先が犯した過ちを正せるのは「今、生きているあなた達」です。あなた方の祖先が犯した過ちを正す行為は、決して恥ずべき行為ではないばかりか、差別のない共生と平等な社会に向けての出発点であり、日本が国際社会で生きていくための基本であると考えます。
現在世界中で行われている自然破壊の様をアイヌである私はひどく憂慮しています。巷で「自然保護」が叫ばれていますが、アイヌ語の中に「自然保護」という言葉はありません。自然、つまり海でも山でも、川でも鳥や獣に至るまで、もしも口があったなら「人間共よ、自然保護などという大それた言葉を慎しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなた達がぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料でも供給できることになっているのだ」と自然の神々はおっしゃるでありましょう。
自然は常に巡っており、生きもの同士がその摂理の中でそれぞれの生命を全うするはずが、人間共の勝手なエゴや欲望によって、虫達の家や着物を剥ぎ取り、鳥や動物達の住み家までも奪い去っています。これもまた、侵略です。
ゴルフ場しかり、リゾートしかり、ムダ遣いが原因の森林伐採しかり・・・、例を挙げればキリがない程どれもこれもです。日本は浪費し過ぎです。天に向かって「面のひっぱがし」です。いずれそれらが、自分たちの顔に降りかかってくるのです。消費、浪費の大国のまま良き未来を迎える事はありません。
今や、大昔の暮らしに戻る事はできません。ほんの少し数十年昔の姿を思い出し、ほんの少し戻ればよいのです。夜の明るさも我慢をして、慎ましやかに生活しようと思ったならば、資本家に対して原子力発電所などというウェンカムィ=化け物を作る口実は、与えなかったでありましょう。86年、スウェーデンのヨックモックを訪ねた時、チェルノブイリの事故による、それは恐ろしい話を聞き、そして、いつ私共の身に降りかかってくるやも知れません。人類はぜいたくし過ぎ、もっと明るく、もっと速く、もっと便利に、もっと多くを求め過ぎました。
全ての生きものの生存を可能とする、地球環境の保護こそが、人類が生きていく条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々に至るまで残さなければならない、と私は考えています。
93年は「国際先住年」です。これは、私達の住むこの地球から、民族的な差別観を取り除くと共に、侵されて来た先住民族、少数民族の権利回復はもとより、生活や文化を共に保障する社会を目指すものです。世界の潮流は、少数者がしいたげられる時代に終わりを告げる時を迎えており、全ての生きとし生けるものの平和な生存を約束する、地球環境保護への道に入りました。社会は限りなく求め続けられている「人間の欲望」を、どう抑制するかの時代にあるのです。これはアイヌも和人も、一人ひとりが考えて、果たさなければならない事だと思います。
そして一度でいいですから「もし自分が、アイヌ民族ならば」と考えてみてください。コロンブス到来500年目の今年、「国際先住民年」の来年は、そういう事を考え合い、勇気をもって出発する第一歩にふさわしい年であろうと思います。コロンブス到来に始まる侵略は、南北アメリカ先住民族に想像を絶する苦しみをもたらしました。私達アイヌ民族も侵略された道を歩まされてきました。侵略された側のアイヌとして、私はその痛みを知っております。
アメリカのインディアン政策を基にした、日本のアイヌ民族に対する「旧土人保護法」という悪法は、未だ現行法として生きております。世界は新しい世界に向かって大きく前進しようとする時代、「知らないという恥」そして「知らないまま加担する深い罪」に、終わりを告げる時であります。コロンブスの侵略を美化するサンタ・マリア号の復元、航海が、日本によってなされているという事は、とんでもない深い罪であろうと考えます。多くの犠牲の上に立っての、お祭り騒ぎや祝い事など、決してあってはならない事であります。
一人ひとりが人間として、正しい歴史を学び直してください。そして、本当の事を知ってください。日本は、単一民族国家などではない事を知ってください。子々孫々に正しい事を伝え残し、「人間の住む静かな大地」をよみがえらせ、そして残せる人間の姿で生きましょう。「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります。アイヌ民族も、ピリカシサム(良き隣人)も、心をひとつにして、無知を改め、正しい行動を起こす勇気をもって、大いなる出発をしましょう。それらがペシッ(波紋)となって、世界に拡がりますように、アイヌモシリより心から切望いたします。
(萱野茂 1992年、「夜明けへの道」 人間家族 特別号)
いまの日本やアメリカやカナダの生活はまるで天国のような素晴らしいものですが、しかしそれは非常に危うい社会です。日本ではいまなお原子力発電所を次々と作ってはいますが、あれはトイレのないマンションを作っているようなものです。終末処理も全くできていないのに、次々と原発の建設を続けているんですから、これは天に向かって唾を吐いているようなものでしょう。
その唾が私をも含めて自分の顔に落ちてこないことを願ってはいるけれども、しかし何の保証もない。だから考えなければならないんです。30年40年前の暮らしに戻ることをね。
電気はこれ以上に明るくならなくてもいい。そういうことをいま本気で考えなければならないときだと思います。この地球を先祖から預かって、子孫に対して無傷で渡さなければならないのに、自然の破壊ぶりはもう無茶苦茶ですよ。傷だらけどころではなく、もはや瀕死の重傷です。
私がまだ子供のころのことですが、ある日突然お巡りさんが靴も脱がずに家の中に入ってきて、父を逮捕しました。
そのとき父は板の間にひれ伏して、「はい、行きます」と言ったまま顔を上げない。どうしたことかと思って黙ってそばで見ていたら、板の間にポタポタ大粒の涙が落ちるんですよ。父は昔ケガをして右目がダメになっていたのに、その目玉のないほうからも涙が落ちているんです。逮捕されたのはサケを獲ってきて家族に食べさせたからです。
私はこれまでに24回ほどパスポートが必要な旅をしていろんな少数民族の方々に会ってきましたが、主食まで奪われた民族に出会ったことはまだ一度もありません。ということは、日本ほど先住少数民族の権利を平気で奪った国はない。
(萱野茂)
…本当に、心にズシ~ンと染みました。
萱野さんの死から5年後の、2011年3月11日の東日本大震災(大人災)で、
ついにこの言葉は現実になりました。
次に、その萱野氏の死を悼んだ辻信一氏の哀悼の言葉をご紹介。
『辻信一さんの哀悼の言葉』
http://www.sloth.gr.jp/tsuji/library/colum9.html
函館の友人ピーター・ハウレットから、「巨木倒れる」、という件名のメールで、萱野茂さんがなくなったというニュースを受けとった。虫の知らせというのか、萱野さんのことがこのところずっと気になっていて、先日のナマケモノ倶楽部の理事会で、ぼくか事務局長の馬場さんかのどちらかがなるべく早く萱野さんに会いにゆくことを決めたばかりだった。
ぼくが萱野さんのことがそんなに気になっていたのは最近加速するばかりの原発をめぐる動きのせいだ。特に六ヵ所村の再処理工場でのアクティブ試験なるもののあまりに性急な(なりふりかまわぬ)開始。あれはまさに縄文の地、アイヌの大地への歴史上最大級のテロだ。もうひとつのグラウンド・ゼロではないのか。これをやる側がアイヌの人々に思いを馳せることがなかったのだろうということは想像ができる。でも、それをとめたいと願う我々はどうなんだろう、とぼくは思わずにいられない。ぼくはとにもかくにもまず萱野さんのところに行って知恵を借りてきたい、と思ったのだ。
でも、萱野さんが逝ってしまった今となっては、本の中に、テープの中に、そしてぼくたちの記憶の中に残された彼の言葉にもう一度耳を傾けるしかない。
ぼくが萱野さんに最初に会ったのは確か1992年、ぼくが10数年ぶりに日本に戻ってまもなく、北海道の二風谷で行われた貝澤正さんの葬儀で、だった。正さんの遺言で、親友であり同志だった萱野さんは、アイヌプリ、つまりアイヌ式の葬儀を司った。その時萱野さんはこう言っていた。先に逝くあなたはいい、私がいるから。でも、私が逝く時、誰がアイヌのやり方で私を送ってくれるのか。
最近の萱野さんとのご縁は、ピーターが外国向けに英訳した『アイヌとキツネ』への推薦文をデヴィッド・スズキからもらうお手伝いをさせてもらったことだった。他の動物たちのことを十分尊重しないアイヌに対して、キツネがチャランケ、つまり異議申し立てをして、アイヌの人々が反省し謝罪する、というアイヌの民話に基づく萱野さんの物語だ。
萱野さんと最後にお目にかかったのは今からちょうど5年前の2001年のこと、ぼくの大学で行なわれた「チェルノブイリ15周年」(主催:ナマケモノ倶楽部、大地を守る会)の集会に無理をいって来ていただいた時だった。そこで、萱野さんはチェルブイリ事故の後、北欧先住民であるサーミの地を訪ねた時のことを話した。大地の上にあるすべてのものを同胞と見なす先住民族は、「大地を離れては暮らしていけない」ものであること、だからこそ、大地が汚染され、生態系が破壊された時に、最も大きな犠牲を強いられてきたのだということを、ぼくたちに思い出させてくれたのだった。
彼はこう言った。
「原発は天に向かって唾を吐くようなことだ。吐いた唾は必ず、自分の顔に落ちてくる。」今日、私はこれを遺言のつもりで言うんです、と彼は会議の前にぼくに漏らしたものだ。
また、講演の中で、彼はこんなことも言っていた。いくら悲惨な事故が起こっても懲りずに原発をつくり続けている人たちを見ていると、神様は、あまりにもおごり高ぶって、他の生きものたちのことを何一つ考えなくなった人間を滅ぼすためにこそ、ウランのような恐ろしいものをこの世に降ろされたのではないか、と思わずにいられない。そんな私の不安が当たっていなければいいのだが、と。
萱野さんが亡くなられた今、ぼくは自分の住む世界がいっそう寂しい場所になったことを痛感している。それはすでに彼の死のずっと前から進行していたプロセスのひとつの大きな節目なのだと思う。最後にご自宅に萱野さんを訪ねた時、彼は繰り返し、かつては踏み潰さないように歩くのに苦労するほどたくさんいたカエルが激減していることを嘆くのだった。まるでこのこと以上に大切なことが世界にあるか、というように。それは彼が参議院議員を惜しまれながら辞職し、「狩猟民族は足元の明るいうちに家に帰るもの」という名言を残して二風谷に戻って間もなくのことだった。彼が本当にあちら側へと「帰って」しまった今、こちら側に残されたぼくたちは、足元の暗さに呆然とするばかりだ。そして、カエルたちの消えた世界を寂しがっていた彼がいなくなったこの世界のなんと寂しげなことだろう。
チェルノブイリの原発事故からちょうど20年、水俣病公式確認から50年。原子力産業を推進しながら核拡散を防止するのだというIAEAが、チェルノブイリの被害を過小評価し「チェルノブイリは終わった」という幻想をつくり出すのに躍起になっているのは、日本の政府や産業界が「水俣」を過去のものとして封印しようとしてきたことと、ピッタリ重なる。それはまた、日本人がアイヌを差別と迫害で社会の片隅に追い込み、過去のものとして博物館の中に閉じ込めようとしてきたこととも重なる。
そういえば不知火海の漁師で水俣病患者でもある緒方正人さんは、4月29日の「新たな50年のために」と題する水俣病講演会で、こんなことを言っていた。仮に、人間の世界では、薄っぺらな謝罪の言葉や補償金や「和解」とかで問題が解決したかのような幻想をつくることができたとしても、人間と共に死んでいった魚や鳥たちはどうするのか。彼らに札束をちらつかせるわけにもいかないだろう、と。
これをぼくは、海の先住民族から届いた貴重なメッセージとして受け取りたい。沙流川の先住民である萱野さんも繰り返しぼくたちにこう語っていた。かつてアイヌは主食であるサケを、キツネやカラスたちと分かち合うことを忘れなかった、と。
ぼくは萱野さんの霊前に誓おうと思う。あなたがぼくたちに遺言としてくださった言葉をもう一度かみしめるところから始めます。そしてあなたの死の一ヶ月あまり前に吐き出され始めた六ヶ所村再処理工場からの放射能を止めるために最善を尽くします。そして、近づく東海巨大地震の予想震源の真上にある浜岡原発を止めるために、できるだけのことをします。あなたの不安が現実とならないように・・・。ご心配なく、とは残念ながら言えません。しかし、あとはお任せください。あなたの深い知恵をいただいたぼくたちには、きっとこの大切な仕事をするための大きな力が宿っているはずですから・・・
5月7日 辻信一
北海道旧土人保護法とは、貧困にあえぐ「北海道旧土人」(アイヌ民族)に対する保護を名目として作られたもので、土地、医薬品、埋葬料、授業料の供与などが定められていました。この法律は、「貧困にあえぐアイヌ民族の保護」を名目としていましたが、実際にはアイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として活用されました。具体的には、
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移されました。(明治32年に施行され、1997年(平成9年)、新制度施行により廃止)
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