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萱野茂さんの言葉 (1926~2006)
(萱野茂:1926年、北海道平取町二風谷(にぶたに)に生まれ、アイヌ語を母語として育ち、アイヌ文化の保護活動に尽力。1994年に参院議員となり、アイヌ文化振興法の成立に貢献。)
いまの日本やアメリカやカナダの生活はまるで天国のような素晴らしいものですが、しかしそれは非常に危うい社会です。日本ではいまなお原子力発電所を次々と作ってはいますが、あれはトイレのないマンションを作っているようなものです。終末処理も全くできていないのに、次々と原発の建設を続けているんですから、これは天に向かって唾を吐いているようなものでしょう。
その唾が私をも含めて自分の顔に落ちてこないことを願ってはいるけれども、しかし何の保証もない。だから考えなければならないんです。30年40年前の暮らしに戻ることをね。
電気はこれ以上に明るくならなくてもいい。そういうことをいま本気で考えなければならないときだと思います。この地球を先祖から預かって、子孫に対して無傷で渡さなければならないのに、自然の破壊ぶりはもう無茶苦茶ですよ。傷だらけどころではなく、もはや瀕死の重傷です。
私がまだ子供のころのことですが、ある日突然お巡りさんが靴も脱がずに家の中に入ってきて、父を逮捕しました。
そのとき父は板の間にひれ伏して、「はい、行きます」と言ったまま顔を上げない。どうしたことかと思って黙ってそばで見ていたら、板の間にポタポタ大粒の涙が落ちるんですよ。父は昔ケガをして右目がダメになっていたのに、その目玉のないほうからも涙が落ちているんです。逮捕されたのはサケを獲ってきて家族に食べさせたからです。
私はこれまでに24回ほどパスポートが必要な旅をしていろんな少数民族の方々に会ってきましたが、主食まで奪われた民族に出会ったことはまだ一度もありません。ということは、日本ほど先住少数民族の権利を平気で奪った国はない。
…本当に、心にズシ~ンと染みました。
萱野さんの死から5年後の2011年に
ついにこの言葉は現実になりました。
次に、その萱野氏の死を悼んだ辻信一氏の哀悼の言葉をご紹介。
『辻信一さんの哀悼の言葉』
http://www.sloth.gr.jp/tsuji/library/colum9.html
函館の友人ピーター・ハウレットから、「巨木倒れる」、という件名のメールで、萱野茂さんがなくなったというニュースを受けとった。虫の知らせというのか、萱野さんのことがこのところずっと気になっていて、先日のナマケモノ倶楽部の理事会で、ぼくか事務局長の馬場さんかのどちらかがなるべく早く萱野さんに会いにゆくことを決めたばかりだった。
ぼくが萱野さんのことがそんなに気になっていたのは最近加速するばかりの原発をめぐる動きのせいだ。特に六ヵ所村の再処理工場でのアクティブ試験なるもののあまりに性急な(なりふりかまわぬ)開始。あれはまさに縄文の地、アイヌの大地への歴史上最大級のテロだ。もうひとつのグラウンド・ゼロではないのか。これをやる側がアイヌの人々に思いを馳せることがなかったのだろうということは想像ができる。でも、それをとめたいと願う我々はどうなんだろう、とぼくは思わずにいられない。ぼくはとにもかくにもまず萱野さんのところに行って知恵を借りてきたい、と思ったのだ。
でも、萱野さんが逝ってしまった今となっては、本の中に、テープの中に、そしてぼくたちの記憶の中に残された彼の言葉にもう一度耳を傾けるしかない。
ぼくが萱野さんに最初に会ったのは確か1992年、ぼくが10数年ぶりに日本に戻ってまもなく、北海道の二風谷で行われた貝澤正さんの葬儀で、だった。正さんの遺言で、親友であり同志だった萱野さんは、アイヌプリ、つまりアイヌ式の葬儀を司った。その時萱野さんはこう言っていた。先に逝くあなたはいい、私がいるから。でも、私が逝く時、誰がアイヌのやり方で私を送ってくれるのか。
最近の萱野さんとのご縁は、ピーターが外国向けに英訳した『アイヌとキツネ』への推薦文をデヴィッド・スズキからもらうお手伝いをさせてもらったことだった。他の動物たちのことを十分尊重しないアイヌに対して、キツネがチャランケ、つまり異議申し立てをして、アイヌの人々が反省し謝罪する、というアイヌの民話に基づく萱野さんの物語だ。
萱野さんと最後にお目にかかったのは今からちょうど5年前の2001年のこと、ぼくの大学で行なわれた「チェルノブイリ15周年」(主催:ナマケモノ倶楽部、大地を守る会)の集会に無理をいって来ていただいた時だった。そこで、萱野さんはチェルブイリ事故の後、北欧先住民であるサーミの地を訪ねた時のことを話した。大地の上にあるすべてのものを同胞と見なす先住民族は、「大地を離れては暮らしていけない」ものであること、だからこそ、大地が汚染され、生態系が破壊された時に、最も大きな犠牲を強いられてきたのだということを、ぼくたちに思い出させてくれたのだった。
彼はこう言った。
「原発は天に向かって唾を吐くようなことだ。吐いた唾は必ず、自分の顔に落ちてくる。」今日、私はこれを遺言のつもりで言うんです、と彼は会議の前にぼくに漏らしたものだ。
また、講演の中で、彼はこんなことも言っていた。いくら悲惨な事故が起こっても懲りずに原発をつくり続けている人たちを見ていると、神様は、あまりにもおごり高ぶって、他の生きものたちのことを何一つ考えなくなった人間を滅ぼすためにこそ、ウランのような恐ろしいものをこの世に降ろされたのではないか、と思わずにいられない。そんな私の不安が当たっていなければいいのだが、と。
萱野さんが亡くなられた今、ぼくは自分の住む世界がいっそう寂しい場所になったことを痛感している。それはすでに彼の死のずっと前から進行していたプロセスのひとつの大きな節目なのだと思う。最後にご自宅に萱野さんを訪ねた時、彼は繰り返し、かつては踏み潰さないように歩くのに苦労するほどたくさんいたカエルが激減していることを嘆くのだった。まるでこのこと以上に大切なことが世界にあるか、というように。それは彼が参議院議員を惜しまれながら辞職し、「狩猟民族は足元の明るいうちに家に帰るもの」という名言を残して二風谷に戻って間もなくのことだった。彼が本当にあちら側へと「帰って」しまった今、こちら側に残されたぼくたちは、足元の暗さに呆然とするばかりだ。そして、カエルたちの消えた世界を寂しがっていた彼がいなくなったこの世界のなんと寂しげなことだろう。
チェルノブイリの原発事故からちょうど20年、水俣病公式確認から50年。原子力産業を推進しながら核拡散を防止するのだというIAEAが、チェルノブイリの被害を過小評価し「チェルノブイリは終わった」という幻想をつくり出すのに躍起になっているのは、日本の政府や産業界が「水俣」を過去のものとして封印しようとしてきたことと、ピッタリ重なる。それはまた、日本人がアイヌを差別と迫害で社会の片隅に追い込み、過去のものとして博物館の中に閉じ込めようとしてきたこととも重なる。
そういえば不知火海の漁師で水俣病患者でもある緒方正人さんは、4月29日の「新たな50年のために」と題する水俣病講演会で、こんなことを言っていた。仮に、人間の世界では、薄っぺらな謝罪の言葉や補償金や「和解」とかで問題が解決したかのような幻想をつくることができたとしても、人間と共に死んでいった魚や鳥たちはどうするのか。彼らに札束をちらつかせるわけにもいかないだろう、と。
これをぼくは、海の先住民族から届いた貴重なメッセージとして受け取りたい。沙流川の先住民である萱野さんも繰り返しぼくたちにこう語っていた。かつてアイヌは主食であるサケを、キツネやカラスたちと分かち合うことを忘れなかった、と。
ぼくは萱野さんの霊前に誓おうと思う。あなたがぼくたちに遺言としてくださった言葉をもう一度かみしめるところから始めます。そしてあなたの死の一ヶ月あまり前に吐き出され始めた六ヶ所村再処理工場からの放射能を止めるために最善を尽くします。そして、近づく東海巨大地震の予想震源の真上にある浜岡原発を止めるために、できるだけのことをします。あなたの不安が現実とならないように・・・。ご心配なく、とは残念ながら言えません。しかし、あとはお任せください。あなたの深い知恵をいただいたぼくたちには、きっとこの大切な仕事をするための大きな力が宿っているはずですから・・・
5月7日 辻信一
(萱野茂:1926年、北海道平取町二風谷(にぶたに)に生まれ、アイヌ語を母語として育ち、アイヌ文化の保護活動に尽力。1994年に参院議員となり、アイヌ文化振興法の成立に貢献。)
いまの日本やアメリカやカナダの生活はまるで天国のような素晴らしいものですが、しかしそれは非常に危うい社会です。日本ではいまなお原子力発電所を次々と作ってはいますが、あれはトイレのないマンションを作っているようなものです。終末処理も全くできていないのに、次々と原発の建設を続けているんですから、これは天に向かって唾を吐いているようなものでしょう。
その唾が私をも含めて自分の顔に落ちてこないことを願ってはいるけれども、しかし何の保証もない。だから考えなければならないんです。30年40年前の暮らしに戻ることをね。
電気はこれ以上に明るくならなくてもいい。そういうことをいま本気で考えなければならないときだと思います。この地球を先祖から預かって、子孫に対して無傷で渡さなければならないのに、自然の破壊ぶりはもう無茶苦茶ですよ。傷だらけどころではなく、もはや瀕死の重傷です。
私がまだ子供のころのことですが、ある日突然お巡りさんが靴も脱がずに家の中に入ってきて、父を逮捕しました。
そのとき父は板の間にひれ伏して、「はい、行きます」と言ったまま顔を上げない。どうしたことかと思って黙ってそばで見ていたら、板の間にポタポタ大粒の涙が落ちるんですよ。父は昔ケガをして右目がダメになっていたのに、その目玉のないほうからも涙が落ちているんです。逮捕されたのはサケを獲ってきて家族に食べさせたからです。
私はこれまでに24回ほどパスポートが必要な旅をしていろんな少数民族の方々に会ってきましたが、主食まで奪われた民族に出会ったことはまだ一度もありません。ということは、日本ほど先住少数民族の権利を平気で奪った国はない。
…本当に、心にズシ~ンと染みました。
萱野さんの死から5年後の2011年に
ついにこの言葉は現実になりました。
次に、その萱野氏の死を悼んだ辻信一氏の哀悼の言葉をご紹介。
『辻信一さんの哀悼の言葉』
http://www.sloth.gr.jp/tsuji/library/colum9.html
函館の友人ピーター・ハウレットから、「巨木倒れる」、という件名のメールで、萱野茂さんがなくなったというニュースを受けとった。虫の知らせというのか、萱野さんのことがこのところずっと気になっていて、先日のナマケモノ倶楽部の理事会で、ぼくか事務局長の馬場さんかのどちらかがなるべく早く萱野さんに会いにゆくことを決めたばかりだった。
ぼくが萱野さんのことがそんなに気になっていたのは最近加速するばかりの原発をめぐる動きのせいだ。特に六ヵ所村の再処理工場でのアクティブ試験なるもののあまりに性急な(なりふりかまわぬ)開始。あれはまさに縄文の地、アイヌの大地への歴史上最大級のテロだ。もうひとつのグラウンド・ゼロではないのか。これをやる側がアイヌの人々に思いを馳せることがなかったのだろうということは想像ができる。でも、それをとめたいと願う我々はどうなんだろう、とぼくは思わずにいられない。ぼくはとにもかくにもまず萱野さんのところに行って知恵を借りてきたい、と思ったのだ。
でも、萱野さんが逝ってしまった今となっては、本の中に、テープの中に、そしてぼくたちの記憶の中に残された彼の言葉にもう一度耳を傾けるしかない。
ぼくが萱野さんに最初に会ったのは確か1992年、ぼくが10数年ぶりに日本に戻ってまもなく、北海道の二風谷で行われた貝澤正さんの葬儀で、だった。正さんの遺言で、親友であり同志だった萱野さんは、アイヌプリ、つまりアイヌ式の葬儀を司った。その時萱野さんはこう言っていた。先に逝くあなたはいい、私がいるから。でも、私が逝く時、誰がアイヌのやり方で私を送ってくれるのか。
最近の萱野さんとのご縁は、ピーターが外国向けに英訳した『アイヌとキツネ』への推薦文をデヴィッド・スズキからもらうお手伝いをさせてもらったことだった。他の動物たちのことを十分尊重しないアイヌに対して、キツネがチャランケ、つまり異議申し立てをして、アイヌの人々が反省し謝罪する、というアイヌの民話に基づく萱野さんの物語だ。
萱野さんと最後にお目にかかったのは今からちょうど5年前の2001年のこと、ぼくの大学で行なわれた「チェルノブイリ15周年」(主催:ナマケモノ倶楽部、大地を守る会)の集会に無理をいって来ていただいた時だった。そこで、萱野さんはチェルブイリ事故の後、北欧先住民であるサーミの地を訪ねた時のことを話した。大地の上にあるすべてのものを同胞と見なす先住民族は、「大地を離れては暮らしていけない」ものであること、だからこそ、大地が汚染され、生態系が破壊された時に、最も大きな犠牲を強いられてきたのだということを、ぼくたちに思い出させてくれたのだった。
彼はこう言った。
「原発は天に向かって唾を吐くようなことだ。吐いた唾は必ず、自分の顔に落ちてくる。」今日、私はこれを遺言のつもりで言うんです、と彼は会議の前にぼくに漏らしたものだ。
また、講演の中で、彼はこんなことも言っていた。いくら悲惨な事故が起こっても懲りずに原発をつくり続けている人たちを見ていると、神様は、あまりにもおごり高ぶって、他の生きものたちのことを何一つ考えなくなった人間を滅ぼすためにこそ、ウランのような恐ろしいものをこの世に降ろされたのではないか、と思わずにいられない。そんな私の不安が当たっていなければいいのだが、と。
萱野さんが亡くなられた今、ぼくは自分の住む世界がいっそう寂しい場所になったことを痛感している。それはすでに彼の死のずっと前から進行していたプロセスのひとつの大きな節目なのだと思う。最後にご自宅に萱野さんを訪ねた時、彼は繰り返し、かつては踏み潰さないように歩くのに苦労するほどたくさんいたカエルが激減していることを嘆くのだった。まるでこのこと以上に大切なことが世界にあるか、というように。それは彼が参議院議員を惜しまれながら辞職し、「狩猟民族は足元の明るいうちに家に帰るもの」という名言を残して二風谷に戻って間もなくのことだった。彼が本当にあちら側へと「帰って」しまった今、こちら側に残されたぼくたちは、足元の暗さに呆然とするばかりだ。そして、カエルたちの消えた世界を寂しがっていた彼がいなくなったこの世界のなんと寂しげなことだろう。
チェルノブイリの原発事故からちょうど20年、水俣病公式確認から50年。原子力産業を推進しながら核拡散を防止するのだというIAEAが、チェルノブイリの被害を過小評価し「チェルノブイリは終わった」という幻想をつくり出すのに躍起になっているのは、日本の政府や産業界が「水俣」を過去のものとして封印しようとしてきたことと、ピッタリ重なる。それはまた、日本人がアイヌを差別と迫害で社会の片隅に追い込み、過去のものとして博物館の中に閉じ込めようとしてきたこととも重なる。
そういえば不知火海の漁師で水俣病患者でもある緒方正人さんは、4月29日の「新たな50年のために」と題する水俣病講演会で、こんなことを言っていた。仮に、人間の世界では、薄っぺらな謝罪の言葉や補償金や「和解」とかで問題が解決したかのような幻想をつくることができたとしても、人間と共に死んでいった魚や鳥たちはどうするのか。彼らに札束をちらつかせるわけにもいかないだろう、と。
これをぼくは、海の先住民族から届いた貴重なメッセージとして受け取りたい。沙流川の先住民である萱野さんも繰り返しぼくたちにこう語っていた。かつてアイヌは主食であるサケを、キツネやカラスたちと分かち合うことを忘れなかった、と。
ぼくは萱野さんの霊前に誓おうと思う。あなたがぼくたちに遺言としてくださった言葉をもう一度かみしめるところから始めます。そしてあなたの死の一ヶ月あまり前に吐き出され始めた六ヶ所村再処理工場からの放射能を止めるために最善を尽くします。そして、近づく東海巨大地震の予想震源の真上にある浜岡原発を止めるために、できるだけのことをします。あなたの不安が現実とならないように・・・。ご心配なく、とは残念ながら言えません。しかし、あとはお任せください。あなたの深い知恵をいただいたぼくたちには、きっとこの大切な仕事をするための大きな力が宿っているはずですから・・・
5月7日 辻信一
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