2012/03/19 中日新聞

 本紙朝刊社会面で二月十七日から計七回連載した「絶望の凍土」は、東海地方出身者を中心に編成され、旧満州(現中国東北部)の国境警備に当たった独立野砲兵第一四大隊(四九〇部隊)を中心に、シベリア抑留の実態に迫った。氷点下五〇度にも達する凍土地帯で、想像を絶する寒さと飢えに苦しんだ兵士たち。読者からも、手紙やメールで多くの反響が届いた。兵士や家族の証言と、主な読者の声を紹介する。
 四九〇部隊少佐、宮脇省さんの長女
 桐生香さん(74) 長野県飯田市
 家族離散 妹戻らず
 ソ連が満州に侵攻したとき、私は八歳。ハイラルの官舎で両親と四歳の妹綾子と四人で暮らしていた。父が四九〇部隊と共に南の昌図へ移動した数日後、空襲が始まった。
 母と妹と三人で石炭を運ぶ貨物列車に飛び乗った。近くに爆弾が落ちて列車が止まってしまい「皆降りろ」と声が聞こえた。野原を夢中で走った。避難の混乱の中で、妹とはぐれてしまった。
 引き揚げ船が出る港町にたどり着き、小学校の体育館で出航を待った。もともと病弱だった母は栄養失調で危篤となった。看護師さんに「薬をあげて」とお願いしたけれど、「食塩水しかないの」と首を振った。
 「私が死んだら、骨を海に投げて。海から日本に帰りたい」。そう言い残して、母は息絶えた。火葬にはできず、校庭に穴を掘って埋めた。最後の願いもかなえてあげられなかった。周りの人が、私の腹巻きの中に遺髪や爪を入れてくれた。
 一人で帰国して、親類の家をたらい回しになった。父はシベリアに送られていた。優しかった父。母にしかられ、物置に入れられたときも、こっそり出してくれた。「私をひとりぼっちにしないで」と毎日、神社で父の帰国を祈っていた。
 三年間の抑留を終え、父が戻った。私は母が亡くなり、妹とはぐれたことを伝えた。父はそれから、死ぬまで私に何も聞かなかった。シベリアのことも一切話さなかったが、抑留時代に自分で作ったというアルミ製のスプーンを持っていた。ソ連の情勢を探るGHQに呼び出されて聴取を受けたこともある。
 妹はいまだに行方が分からない。中国残留孤児が新聞に載るたび、妹の名を捜してきたけれど、手掛かりはない。自分だけ幸せな生活をして申し訳ない。私たちのように、バラバラになる家族が二度と出てほしくないし、戦争はもう絶対にしてはいけない。
 四九〇部隊二等兵 毛利幸一さん(86)
 ◆愛知県あま市
 開き直り助かった
 収容所では、朝になると、栄養失調で亡くなる人がたくさんいた。「早く帰りたい」とか「餅が食いたい」とか、強く願っている人ほど、死んでしまったような気がする。
 腹が減ると、れんがだろうが、馬ふんだろうが、全部パンに見えた。私は両親も早い時期に亡くしたし、独り身だった。ある意味「どうでもいいや」と開き直れたので良かったかもしれない。
 ナホトカで船に乗るまでは共産主義を持ち上げているが、乗ってしまえば、こっちのもの。岸壁を離れた瞬間、「ばかやろー」と陸に向かって叫ぶ声が上がった。
 四九〇部隊二等兵 加藤日吉さん(88)
 ◆名古屋市南区
 「ダモイ」今も耳に
 シベリアに四年抑留された。ウランウデ収容所で県人会をつくり、形見の品を交換した。腕時計や万年筆、なければ名前を書いた紙切れでも。「先にダモイ(帰国)した者がお互いの家に持っていこう」と約束した。
 最後まで理不尽に扱われた。ナホトカ発の引き揚げ船を前にした桟橋で、ソ連の将校に「おまえはだめだ」と止められた。理由を聞いても「ダモイはない」の一点張り。悔しくて涙が出た。
 四カ月待って、ロシア語なまりで名前が呼ばれ、乗船を許されたときは本当にうれしかった。いまも、その響きが忘れられない。
 ウランウデ収容所・二等兵 小木曽弘司さん(88)
 ◆長野県飯田市
 中国人の恩忘れぬ
 飯田の上久堅開拓団の一員として家族十人で満州に渡った。終戦間際に徴兵され、戦後、私はシベリアに送られ、父と母は満州で死んだ。生きて帰ってきたのは妹と二人の弟だけだった。
 満州から逃げるとき、四人の弟が中国人に引き取られ、ご飯を食べさせてもらい、家族と同じ扱いを受けたという。敵の子を育てるなんて、日本人にはできなかったと思う。妹は共産党の八路軍に助けられ、後に八路軍の看護師になった。
 戦後、中国の人たちに「おまえたちが悪いんじゃない、軍国主義が悪いんだ」と言われたことを忘れない。
 四九〇部隊兵長 田村徹郎さん(87)
 ◆静岡県富士市
 思想教育嫌だった
 連行された当初、深さ二、三メートルの穴を掘れと命令された。土が凍ってツルハシをはね返してしまう。火をたいて土をならし、掘り進めた。死んだ日本兵を埋める穴だったことを、後で知った。
 思想教育は嫌いだった。すぐにソ連に従順になるようなやつは許せなかった。収容所には抑留者が読む日本語の「日本新聞」が張られ、「天皇制打倒」だとか共産主義に偏った内容が書かれていたから、夜中にはがして捨てた。代わりに「忠心愛国」「平重盛」「水戸光圀」と書いた紙を張って回った。それを密告され、より過酷な収容所に回された。
 関東軍特別技術第二教育隊上等兵 安藤豊さん(88)
 ◆岐阜県土岐市
 供えたパン盗まれ
 真冬の強制労働は想像を絶するものだった。夜中に起こされ、氷点下四五度の駅で石炭の積み降ろし作業をさせられた。貨車の上に乗って、スコップで下へ落とすのだが、あまりの寒さで外には十五分いるのが精いっぱい。建物に逃げ込んで体を休めては、作業を繰り返した。
 栄養失調で死んだ仲間の枕元にパンをお供えした。けれど、翌日には誰かが盗んで食べてしまっていた。パンを一口食べて天国に行ってほしいという思いだったのに、本当に情けなかった。収容所は、希望も、生きる気力もわかないところだった。
 第一七野戦自動車廠伍長 藤田年樹さん(90)
 ◆岐阜県大垣市
 木伐採で仲間失う
 収容所に入って一年半ぐらいたったころ、伐採作業で同い年の仲間が死んだ。私と彼は、高さ十メートル近くあるシラカバを、両端に柄のあるノコギリで切っていた。
 この幹が彼の方に倒れていった。元気ならば、さっと逃げられるが、腹が減り、体が弱っている。下敷きになって、即死した。「気を付けないからだ」ととがめられたが、日本でこんな作業をしたことがないし、ミスが起こるのもしかたなかった。
 戦争は終わったのに、彼は死んだ。「捕虜にさえならなければ」。そう思うと、涙が出たのを覚えている。
 市民の優しさ感動/今は幸せすぎる/泣きながら長男埋葬/洗脳で変わり果て/父の無念さ思う
 野田豊さん(69) 名古屋市守山区
 私の父は満州からシベリア・チタの収容所に送られ、戦病死したと聞いている。今回の記事を読むと、極寒の地で強制労働と栄養失調で死んだ父は、どんなに無念であっただろうと思う。
 父の出征時に一歳だった私は顔も覚えていない。母も祖父母も亡くなったいま、当時のことをもっと知りたいと思っていた。戦後七十年近くを経て、抑留者の方々も高齢になった中、今回の取材は本当にタイムリーだった。
 木原宏さん(81) 三重県桑名市
 近所の人がシベリアからの復員兵で、町内の人と名古屋駅まで迎えに行ったことがある。「まだ同志に話がある」と仲間の方へ戻ろうとする彼を、町内会長が必死に阻止した光景をよく覚えている。皆ソ連の思想に洗脳されていて、人間がここまで変わってしまうのかと異様なものを感じた。第六回の記事では、ロシア人女性と日本兵が歌舞伎や能について語り合った記述に感激した。わずかな食べ物だけで過酷な労働によくぞ耐えられ、帰国されたと、ただただ頭が下がる。良い記事を読ませていただいた。
 松本きみ代さん(88) 名古屋市天白区
 終戦のとき、私もハイラルに住んでいた。八月九日にソ連が参戦し、その日のうちに当時八カ月になる長男をおぶって逃げた。逃げる間は食料がなく、私はお乳も出ない。長男は栄養失調で、ハルビンの避難所で亡くなった。泣きながら避難所の敷地に五十センチほどの穴を掘り、そこに長男を寝かせて埋葬した。あのときの気持ちは今も表現できない。主人は三年間、シベリアに抑留された。一九四六(昭和二十一)年八月に佐世保に帰国したとき、私は一人だけだった。この記事を一人でも多くの人に読んでいただきたいと願っている。
 山田麻美さん(37) 愛知県西尾市
 パン一切れに殺気だった話には、胸が痛くなった。ロシア人との交流を描いた「淡い恋安らぐ瞬間」では、山本さんが大切なふんどしをトーシャに手渡した気持ちがすごく伝わってきた。亡くなった私の祖父も戦争に行った。「自分は役に立たなかった」などと話していたのを思い出す。祖母からもB29の空襲の話を聞いた。今は幸せすぎる時代だと思う。捕虜として生活し、それを耐え抜き、こうして新聞で語り継いでくれる人たちは素晴らしい。お疲れさまでした。そして、語ってくれてありがとうございました。
 岩見香奈子さん(31) 岐阜県郡上市
 シベリアに抑留された人たちは、敗戦からの流れで中国大陸からだまされて連れて行かれたということに驚いた。強制労働をさせられ、食べ物もろくにない中で仲間は死んでゆき、絶望を感じたことと思う。そんな中でも旧ソ連の市民が捕虜である日本人にパンを分けてくれたことを知り、人間的な接し方をしてくれる人もいるのだと感動した。戦争がなければお互い普通の人間で、普通に過ごせていたのかと思うと胸が苦しい。戦争という極限状態が人の心を壊してゆき、勝者というだけで人間を奴隷のように扱う心理がとても恐ろしかった。
 夕川あいさん(79) 愛知県春日井市
 八歳ぐらいの男の子が「帰りたいよう。連れてって」と兵隊さんの足にしがみついた、という場面に涙が出た。坊やと離れ離れになった両親はどんなに嘆き悲しんだことだろう。きっと優しい中国人に助けられた、と願わずにいられない。
 開拓団の人たちは貧しさゆえに別天地を求めて、満州に渡った。亡き夫も貧乏のどん底を脱しようと、親子七人で熊本県から満州に渡った。全員が帰れただけ幸せだった。
 兄は二十三歳の若さで、西太平洋のトラック島で戦死した。若者の青春を奪った戦争は憎んでも憎みきれない。私たちには戦争を知る義務がある。
 筒井千鶴子さん(77) 静岡県袋井市
 連載は私の目と心をひきつけた。ソ連での様子が目に浮かび、見たこともない情景なのに、私の頭の中に描かれてきた。知人の鈴木宗市さん(85)もシベリア抑留の経験者で、お話を聞かせていただいたことがある。自分の吐く息でまつげが凍り、目が開けられないほどの寒さ。「ここで死ぬわけにはいかん。日本へ必ず帰る」と思い、仲間と一緒に帰郷を願う替え歌を作ったという。連載や鈴木さんの話を通し、戦争を知ってもらうことの重要さをつくづく思った。事実は、現代や次の時代の人々の心にも強く残り、人生に役立ってゆくのだと確信している。
 宮崎正さん(91) 三重県四日市市
 胸を締め付けられる思いで毎回読んだ。私も三年余りシベリアに抑留された経験があり、どの記事も思い当たることばかりだった。貴重な写真が掲載されているのにも驚いた。この悲惨な現実を子や孫に伝えるため、記事をファイルに保存した。幸い私はダモイ(帰国)することができたが、今なおあの凍土に眠る亡き戦友の冥福をあらためて祈るとともに、今回の記事で体験談を語られた方々の健康を願いたい。
 真坂美和子さん(48) 岐阜県大垣市
 記事を読み、長野県大町市から旧満州の開拓団として渡った母の話を思い出した。終戦となり、女、子供だけで山中を逃げ歩く途中で、たくさんの人が亡くなったという。
 中国人に食料を分けてもらったり、家で世話になったり、「中国で優しくしてもらって、生きのびられた」と振り返っていた。
 今回の記事で、軍隊にいた人たちも、人間としての扱いを受けず、過酷な日々を過ごしてきたことを知った。中国開拓のため、安易に人を送り込み、多くの犠牲者が出たことを私の子供にも伝えていかなければいけないとあらためて思った。

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